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第二十六話・「父さん!」

 夢を見ない夜は、ただの一瞬でしかない。

 目を閉じ、気付くと朝になっている。睡眠だけを端的に求める、長いようで短い一瞬。

 僕は、そんな夜を越えた。

 まぶしすぎるほどの光線がカーテンの間隙をぬって僕のまぶたを捕らえる。まぶたにすける血の色が赤々と燃えていて、太陽熱が眼球を直接刺激した。体を起こしてみると、なぜか体中がすっきりしていて、気分が良かった。昨日起こった出来事が夢のように感じられる。そんな爽快感だ。光がいつもよりまぶしく感じられるし、感覚も鋭さを増している。

「妙な、朝だ…」

 夢の中にまだいるのではないかと考え、イメージをしてみるが世界に変質の兆候は見られない。間違いなく、ここは現実だった。時計の針の動きは一定で狂っている様子もない。登校までは一時間以上あるし、目覚まし時計が鳴るのもまだ先の話だ。

 この不思議な感覚は何なのだろう。

 足の先から頭のてっぺんまで覚醒したようだった。覚醒がいったいどんなものかは知らないが、このひんやりした感覚をほかに説明する言葉が見つからない。ただひとつ分かることは、この感覚を僕が体験済みだということだ。

 忘れもしないあの朝の光景。

 目の前で起こっている事実に我を失った。あの朝の僕はその驚愕の光景を受け止めるために、全身を鋭敏化させていた。まるで、準備していない心に変わって、体が準備をしているように。

 同じだ。あの朝の自分自身と。

 ドアのノブを握ろうとする手が震えている。僕は震えの止まらない右手の手首を左手で握って微震を止めようと試みる。一時は止まったと思った震えが思い出したかのように左手も巻き込んで震えだす。ドアのノブを握り、回す、そしてドアを開いて、廊下へ出る。たったそれだけの一連の行動が、怖くて怖くて仕方がない。

「怖い…」

 僕は口から自然に漏れてしまった言葉を何度も反芻する。

 何を恐れているのだろうか。恐れるものなど何もないはず。外に異形の生物がいて、僕がその生物に八つ裂きにされてしまう…そんな非現実的な出来事が待っているのなら、この恐怖心も理解できる。しかし、この恐怖はそれとは別の恐怖だ。

 例えるならこうだ。

 箱の中に入っているのが絶望だと知っている。僕はその絶望の詰まった箱を開けるのが怖くて震えている。箱のふたを開けてしまうことで、予期していた光景を見てしまうことで、僕は何かにさいなまれる。恐怖から派生する最もおぞましく、グロテスクな怪物が、僕をじっと見つめている。今か今かと、僕が箱をあけるのを、身を潜め、息を殺しながら待っている。満を持して、僕を襲うために。

 映写機が、僕の記憶を上映する。僕は椅子に緊縛されて身動きひとつ取れない。目をつぶることさえ許されずに強制的に見せられる。まるで、拷問だった。

 風にゆっくりとなびく白いカーテン。朝の神々しい光が庭に注がれ、カーテンの白をよりいっそう際立たせる。フローリングのひんやりとした床を踏みしめ、テーブルの脇を抜ける。純白のカーテンの隙間から、ちらりと庭にいる母の後姿が見えた。

 僕は何の疑いもなく、カーテンをかき分け外へ出る。

 庭の芝生が朝露を抱え、きらきらと輝いていて美しい。冷たい空気は肺を浄化してくれる。山の頂上に到達したようなすがすがしい気分。

 母がいたと思われる場所には、庭で一番背が高くて丈夫な木。

 根元には母の靴。揃えて置いてある。

 靴の少し上方には母の素足。白く透き通るよう。

 左右に揺れる。振り子の時計のように。

 左右に揺れる。木がきしむ音。

 左右に揺れる。太い枝が泣く音。

 宙に浮いた足が。

 僕は踏み出す。

 母へ。

 一歩。

 目に映る――

「父さん!」

 僕は叫んでいた。

 震える体を脱ぎ捨てて、僕は階段を下りる。足がもつれそうになりながらも、昨夜父の背中をのぞきこんだ場所にたどり着く。テーブルの上にはアルコールのビンが置いてある。コップは片付けられていた。

 テーブルの少しはなれたところに、二枚の写真が平積みに伏せて置いてある。父が肌身離さず持っている写真であることは明白だった。

 昨夜のまま、置き忘れたのだろう。

 …肌身離さず。

 僕はその言葉で、自らの不安をかきたてた。

「父さん!」

 僕はもう一度叫んだ。言い知れぬ不安を抱えて叫んだ。母の死の風景と父の行動が重なり始め、それに伴って不安が大きく膨らんでいく。

 みぞおちに暗澹たる霧が立ち込めて、僕の意思を、動きを、容赦なく奪っていく。

 テーブルの周囲に差し込んでいる光の筋が、宙に舞い踊るほこりを黄金に輝かせる。荘厳な現象も、ここでは不気味でしかない。足元を風が抜けていく。庭へと通じるスライドガラスが開けっ放しになっている。カーテンにさえぎられているためか、風は足元だけをさらおうとする。外から吹き込む微風を受けて、純白のカーテンは手招きをするように、その身を動かしていた。

目をそらしてしまう僕がいる。

 重なり合ったもの同士が溶け合って、もはやそれが以前は二つあったことすら分からない。カーテンの向こうには、一本だけ背の高い木があり、そこにはロープが括り付けられ、人がぶら下がっている。

 それは母であり、父である。

 見ている僕は過去の僕であり、今の僕である。絶対的な力によって位置づけられている結果が、僕の眼前に広がっている。

 カーテンを通れば、僕はもう一度、死、を目撃することになる。

 歩き始めたばかりの赤ん坊のように、ふらふらとカーテンに近付いていく。僕の足は歩行すら忘れてしまっている。このおぼつかない足取りが、僕の精一杯だった。

 太陽が雲に隠れたのか、家中の光が一気に失われる。

 純白の光をまとったカーテンは、一瞬で汚されていった。

 夜の帳が下りたようだった。

 僕はますます恐ろしくなる。

 太陽が雲から脱出し、家中が夜から昼へと変貌しても、僕の心は闇に覆われたまま。光量の変化も、僕には警告を知らせる点滅としか考えられなかった。風がやみ、カーテンの動きも止まる。鳥はくちばしをつぐみ、バイクのエンジン音も遠ざかる。世界から音が消え去った。世界は真空となった。

 カーテンに手をかける。

 刹那、真空の世界から枝のきしむ音だけが聞こえ出す。

 ぶら下がっている重量にたまらず悲鳴を上げる音。

 右へ左へ。

 左へ右へ。

 重量感のある何かが揺れている。

 僕はカーテンを開け放った。

 まぶしすぎる朝の光に視界を奪われる。真っ白な世界、世界の始まりを思わせる、何も描かれていないキャンバス。まぶしさのあまり目を手で覆う。しばらくすると、キャンバスにゆっくりと絵の具が塗られていき、世界が構築されていった。世界の色が通常に戻っても、僕は目を覆った手を下げられない。

 心臓が爆発寸前だった。

 血液が逆流するよう。その中で、恐れにかろうじて打ち勝った手が、がたがたと震えながらも僕の意思によって下ろされていく。

 そこには…一本木には…二匹のすずめが止まっていた。

 木には何もぶら下がってなどいなかった。

 僕は数秒間そこで呆然とし、次の瞬間には引きつった声で笑っていた。

「はは…はは…はははは…」

 脱力感だった。安堵感だった。

「何だ。何だよ…驚かせやがって…」

 いやがおうにも分かってしまうのだった。その事実に。父を失うことに、恐怖を抱いている現実に。父が生きていてくれてよかった。そう思っている自分に。

「この写真を忘れていくから…」

 僕は八つ当たりするように、写真を取り上げた。平積みにされたそれの一枚目は、昨夜、草葉の影から覗いたもの。そして、見ることが出来なかった二枚目、僕は見たことのなかった写真に興味深々だった。

「葉月……雅…十八歳……」

 鈍器で殴られたような衝撃。そこに写されているのは、紛れもないあの葉月雅であった。

 篠崎雅。それが僕の母の名。父と結婚してこの家に引越したときの名。

 では、旧姓は。

 母の旧姓は…。

 僕は見落としていた。

 僕が生まれてから親しみすぎた、篠崎という姓に。

「そうか、そうだったんだな……雅、そういうことだったんだな」

 目頭が熱くなっていく。信じていたものに裏切られる悲しみ。これが、その痛み。胃が握りつぶされる。内容物が爆発しそうだ。

 これで、僕のすべきことは定まった。

「補完――か」

 この苦しみから逃れてしまいたい。ならば総の言うとおり、彼の母を救うための糧となればいい。だが、それでは。

「雅…そうじゃないんだ」

 雅の言うことがすべてではないような気がする。父の自殺を心のどこかで否定していたように、和泉が悲しみながらも僕の背中を押してくれたように。失うことに対しての恐怖心は誰の心にもある。そしてその恐怖心は、対象が失われた瞬間に、悲しみに変換される。

「…そうじゃないんだよ」

 補完に指定された時間が迫っていた。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございました。よくよく考えてみれば、この小説はファンタジーではありませんね。ジャンル設定を間違えてしまいました。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。

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