第二十五話・「…私は、お前を愛していた…」
深更。
僕は暑苦しさも手伝って、階下から聞こえてきた微かな物音で、目が覚めた。蚊の羽音が耳に障る。足を二、三箇所刺されてしまったのか、かゆくて仕方がない。二階だというのに、コオロギなどの涼やかな鳴き声が聞こえてくる。小さなオーケストラは誰に聞かせるでもなく、いつまでも公演を続けていた。僕は汗だくの体を起こし、かゆみの止まらない足をかきむしると、静かにドアを開けて廊下に出た。
階段から見下ろすと、どうやら父が帰っているらしかった。
キッチンとテーブルのある部屋から明かりが漏れている。ガラスにガラスが触れる軽やかな音。どうやら日課の晩酌をしているようだった。
最近の父は帰りが遅い。
僕にとっては顔を合わせることもなく最良なのだが、母の生きていた頃を彷彿とさせるようで、どこか気持ちが悪かった。
トイレに起きて、そっとキッチンをのぞくと、父の写った写真を見ながら泣いている母の姿がある。傍らにはコップに並々と注がれたアルコール。決して何かに八つ当たりしたり、泥酔することのなかった母が、自分の中に溜め込んだストレスを落涙に託して外へ発散するかのようだった。それでも涙の量はたかが知れている。ストレスがすべて水泡に帰すわけではない。僕はそんな母の姿に、父への憎悪と、母を守らなければ、という使命感を同時につのらせた。
階段を下りて、僕は父をそっと覗き見る。
父は僕に背を向けて、酒を飲んでいた。小さいビンとコップが傍らに置かれている。父は何事かをつぶやいていた。正確には聞き取れなかったが、それは独り言ではなく、何かに向けられているようだった。
父に気付かれないように背伸びをして、父の語りかける先を確認する。
大きく見えていたはずの背中が、丸く、小さく見えた。テーブルには二枚の写真が重なって置いてあり、重ねられた写真のうち一枚は容易に判別することができた。二枚目の写真は一枚目の写真にほとんどをさえぎられて、見ることはままならない。かといって、これ以上近付くこともできそうにない。
一枚目の写真は生前の母の写真だった。
正確に言えば、母が持っていた、父の写真である。唯一と言って遜色のない家族写真。母が首をつった庭木の前で撮影された皮肉めいた写真。父は無愛想に木の前に立ち、母は幼い僕を腕に抱えて、父に寄り添う。一見、幸福そうに見える写真だ。だが、その約十年後に、母はその写真を見て、涙を滂沱として流し、そんな日々に耐え切れずに、父の背後に写る木で首を吊った。父は今、母の大事にしていたその写真を見て、郷愁と悲嘆の包含された酒を飲み続けている。
哀れな不幸の連鎖。もちろん僕とて例外ではない。
僕はそれ以上、父の姿を見ることができなかった。
「…私は、お前を愛していた…」
細く静かに語りかける父の声が、写真の中の母に届けられた。母は表情を変えることなく、今も変わらず微笑み続けている。
部屋に戻った僕は、目撃してしまった父の姿に困惑しながら、ベッドにうつぶせに倒れこんだ。雑多な感情を未解決のまま放棄する形で。そもそも、数回、数時間、数日で解決する程度の感情の乱れなどではなかった。答えなど、一生出ないのかもしれない。それでも僕は、感情の渦に自ら飛び込んでいく。分かっていても身を投げいれる。母の痕跡をたどり、残滓を拾い、残り香をかぐ。その行為に、どれほどの意味があるのか。
「それでも、僕は…」
母が恋しい。情けないことだと思う。僕が変わらず生きていくためには、母が必要不可欠。和泉と抱きしめあったときですら、僕は母を思い出していた。温もりそのものが、母であるような気さえした。和泉とすごした夕日の情景が、脳裏によみがえる。
――お母さんが自殺していても、私は総への気持ちは変わらなかった。心の奥底で、無意識のうちに思ったかもしれない。私でなくて良かったって。かわいそうだなって。私には、たくさんの父や母がいる。私も、そのことではたくさん苦しんだよ。理解できないこともある。でも、そんな苦しみも、総に比べたら微々たるものかもしれない。でも、それでも、私は、どんなに傷つけられても、拒絶されても、総のそばに居たい…。
和泉は、唇を離したあと、僕の胸の中で告白した。
――そばに、居たくて…そう思うと、痛くて…あれ、なに言ってるんだろ。シャレみたいだね…おかしい…。
和泉の涙が、心が染み入る。僕はその染み込んできた和泉の気持ちを抱きかかえるようにして、ベッドにもぐりこみ、眠りについた。少年の頃の、母が生きていた頃の夢が見られるような気がした。
…ひとつ、思い出したことがある。
母が自死を選択した前夜のこと。今夜の父とまったく同じだったということ。
――あなた、愛しているわ…。
写真につぶやいていた母。写真の中の父はずっと無表情のままで、少しも笑おうとはしない。
そして、翌朝。
木にロープを巻きつけて、母は首を吊っていた。
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