第二十四話・「心のままにしたい」
「一緒に帰ろ。副部長殿」
僕は和泉の背中につき従う。バッグを取りに部室に戻ると、部室の電気は消されていて、真っ暗闇だった。いや、もともと点いていなかっただけだろう。西口清吾が部室を訪れたときは、点灯していなかったから、最初から電気はついていなかったとみたほうが正しい。とすると、僕が部室を出てから数時間は経過している計算になる。僕は、夢の中にいたのだから数時間の経過は苦でもなかった。
夢の中身は、苦そのものだったが。
「和泉。西口清吾とは、あの後…」
和泉の作業の手が止まった。
「…清吾とは、幼なじみなの。物心ついた頃からずっと一緒に育ってきた」
「俺が聞きたいのは――」
「聞いて」
和泉は僕の言葉を塗りつぶした。
「少し大げさかもしれないけど、私たちは双子のようだった。本当にそう思ってもらって遜色ないくらい」
部室の真ん中を陣取るテーブルの表面を指でなぞる。過去の轍を逆行していくように。その軌跡を確認するように。
和泉の指がぴたりと止まる。
「幼稚園、小学、中学…そうして当たり前のような進級、進学を重ねていくうちに、私たちはいつしか離れ離れになっていった。目視できる距離ではなくて、精神的な距離において。清吾も言っていたでしょ。中学の頃の私はとても目立たない存在で、ブスで、暗くて、消極的で、ナイーブで…」
「そこまで言っていないよ。彼は」
和泉は指折り数えた手を見下ろしながら、笑みを浮かべた。
年老いた蛍光灯の淡い光が、その和泉の笑みに感慨深い影を浮かび上がらせる。
意識してではないだろうが、そんなときの和泉だけは、なぜか学校生活では見ることのできない独特の表情を見せる。
影と日向。太陽と月。表と裏。
…そのどれでもない。角度を変えることで表情を変える能面。
そんな複雑な人となりを和泉は持っている。
「清吾は優しいから。全部は言わなかったのよ」
二人が透き通る不可視の糸でつながれているようで、少しだけ嫉妬した。
「でもね、一方で、清吾は私をどんどん引き離していった。ううん、私が彼に追いつけなかっただけ。清吾のせいじゃない。でも、時々思ってしまうの…」
胸の奥がざわざわしている。
「並んで、二人一緒に歩いてきたのに、どうして引き離されてしまったんだろう。前に進めないで置いてけぼりになる私を、どうして清吾は待っていてくれなかったんだろう、って」
「和泉…」
僕が彼女に何を言えるというのだろう。不用意に言葉を発するべきではない。和泉の気持ちを分かっているつもりでも、それは分かったふりをしているだけで、痛みまでを共有しているわけではない。同情など、憐憫など、ここではただの錯覚だ。
「自分本位だね、私。なのに――」
彼女の細指が握りこぶしの中に加わった。そして、糸が切れたように、突然、握力は消失した。
「清吾は、私が必要だって言ってくれた。二人で歩いていこうって。好きだって…」
果たして、消失したのは握力だけだったろうか。
和泉の力という力――体の力、意志の力――が和泉から抜け出していってしまったように見えた。
和泉は床に力なく座り込んでしまった。
巧が彼女につけたあだ名は、オールマイティ恵理子。
それは彼女の表面しか見えていない証拠。彼女は自らの補完を終了して、完璧になったはずだった。でも、精神的な面は、他人と大差ない。それだけは補完することができない。もう一人の僕…総も夢の中で言っていた。
補完したからといって、家族の絆まで修復できるとは限らない。
二つに共通するのは、本人を含めた人々の性質や心を、補完した能力によって覆すことは困難だということ。
「私の中のもう一人の私が、耳元で囁くの。清吾は私が追いつくのを待っていた。待たせていた分、彼は前に進むことができなかった。清吾は否定してくれた。でも…でも、そんなこと信じられない。補完なんてするんじゃなかった…昔の私でいればよかった。顔も性格も人並み以下で、うつむいてばかりの…文学だけが取り柄の自分のままで…」
感情の台風が一過しては接近し、そしてまた一過していく。
暴風域に僕はさらされている。
悲哀を宿した雨に打ち付けられ、波浪に身をさらわれる。
彼女に近ければ近いほど、悲しみの力に身を引き裂かれてしまいそうだった。
「信じられなくなっている…。私は、清吾が信じられなくなっている…」
自分の両手を見つめながら繰り返す。傍から見ればきれいなその手も、和泉の瞳を通して見れば、薄汚れてしまっているのだろうか。
「純粋に人を信じることができた昔の私ではないのに、清吾は昔のままの純粋な瞳で私を見つめる。うれしいはずなのに…傷ついていくの、私が…」
台風の中心で和泉は泣いている。
周囲を巻き込みながら悲しみの要素を抽出して、それだけを巻き込みながら、深々と泣いている。これこそ僕の幻視、錯覚そのものかもしれない。和泉の双眸には、涙さえも、潤いさえも見ることはできないのだから。
しかし、悲哀を肌で感じることくらいは僕にもできる。
空気を通して伝播してくるから、理解することができる。
…悲しみとは、ずっと共に生きてきたから。
「総…私…」
屋上への扉の前、僕は彼女に涙をぬぐわれたことを想起する。あのハンカチに染み込んでいたのは本当に僕だけの涙だったのか。今、彼女が涙を流せないのは、すでに涙が枯渇してしまったからではないのか。あのチェックのハンカチに吸収されてしまったからではないのか。
「私…どうしたらいいのかな…」
自らも辛いのに、僕を励ましてくれた和泉。
「総が言ってくれたら、私…信じられる」
明るい太陽のような和泉。
「信じられるから…何か…」
文学を愛し、この部のために奔走した和泉。
「何か言って…」
僕はくず折れた和泉に近づいていく。彼女の前で片ひざを付き、和泉の両肩に手を乗せる。和泉は藁にもすがるような表情で、僕の瞳を必死に見つめてくる。
「和泉…僕は」
救いを求める従順な眼差しが、僕の言葉を渇望する。
「…僕には…僕には何もできない」
茫然自失の和泉。手のひらで僕の胸を付く。
「…どうして?」
大きく首を振る。
「どうして、そんなこと言うの?」
「僕は、和泉に何も…」
「聞きたくない。聞きたくない!」
和泉の動揺が僕にも伝わってくるようだった。肩に触れただけで、さっきよりも増して悲しみの色が鮮明になる。ありきたりな慰めなど、言えるはずがない。そんな言葉すら、僕は持ち合わせていなかった。
「総が…総が言ってくれたなら、私はきっと何でもできる気がする」
「できない。僕には、そんな身勝手なことはできない」
「嫌…信じる。私、信じる、だから…」
必死に僕を頼ろうとする和泉に、僕は首を振り続けた。かたくなに、振り続けた。
「僕は! 僕は…一人の、弱い、何もできない、何も変えられない、過去ばかりにこだわっている…ただの男だ。補完されるだけの…。和泉の悲しみを消し去る言葉も、受け止める行動もない」
本音を語るとき、人はこんなにも悲しいものなのだろうか。自分の力が及ばないと理解したとき、人はこんなにも空虚になるものなのだろうか。
「でも、彼なら、西口清吾なら、きっと和泉を支えられる」
「何で…」
「僕には…君に」
何もしてあげることはできない。この言葉を躊躇する僕を知ってか知らずか、和泉の裏返った声が言葉を打ち消した。
「何でこういうときばかり、僕、なの。嘘でも、俺、って励ましてよ!」
「…」
和泉の双眸を見つめる。
「そうやって人と壁を作っておいて、時々本音の自分が表れて、心を開いてくれたのかな、って喜んだとたん、壁を作ってまたやり直し。ずっと私一人でぬか喜び。その連続」
「…ごめん」
「謝ってなんか欲しくない! そんな言葉が聞きたいんじゃない!」
「じゃあ、何だよ、僕にどうしろって言うんだ!」
悲しみを覆いつくすように怒りが奔騰する。
「僕だって…和泉の悲しみを取り除けるものなら、取り除いてやりたい。本当にそう思ってる。でも、僕にはどうすることもできないじゃないか!」
肩の震えが止まらなかった。悔しさ、怒り、悲しみ、すべてを混ぜ合わせたような、やるせない感情。
「つまらない同情や、ありきたりな慰めを口に出したって、何も変わらない。僕だって、それは分かってる」
枯れたはずの涙腺に水があふれていく。
「伝えるのは、言葉だけじゃないよ…」
和泉の目にも、うっすらと涙が見える。
「言葉だけが、すべてじゃない」
和泉の瞳に吸い込まれていきそうだった。吸い込まれることを拒む意思は僕にはない。むしろこのまま吸い込まれていきたいとさえ思った。
悔しさ、怒り、悲しみ…僕が持つ負の感情を、彼女もまた持っている。
二人のカオスをひとつにすることが慰撫になるなら。僕たちはそれをすべきではないか。
刹那の現実逃避だとしても、一瞬でも苦しみから逃げられるなら。
「心のままにしたい…考えたくない…」
和泉は僕の中にゆっくりと入ってきた。胸の中に和泉の体を受け止めると、そこには確かな重量がある。身体の重さ、心の重さ、その二つが強く感じられる。
「考えたくないよ…もう何も考えたくない」
和泉の背中に回した腕に、強い力を込める。
和泉の体温が僕の肌に浸透してくる。
和泉が僕で、僕が和泉であるかのように。
すべてを共有するかのように。
「総…」
和泉の声が吐息になる。
恍惚を感じているのだろうか。だとすれば、僕も同じだった。
僕が強く和泉を抱きしめれば、和泉も同じかそれ以上に僕を強く抱きしめる。その行為が心地いい。僕は、恍惚をまぶたの裏に閉じ込めた。
すると、ぼうっと、柔らかな光が広がり始める。
――どうしたの? そんなに泣いて。
母が、僕を強く抱きしめてくれた記憶。母の匂いで鼻腔がいっぱいになると、僕は決まって涙を流した。このやるせない感情をずっと受け止めてくれていた、母の海のように深い胸。
僕は、その中にただゆっくりと沈んでいくだけだった。それでよかった。そうすれば、もう次の瞬間には苦しみから解放されていたのだから。
まぶたに抑えきれないほどの涙を溜めていた僕は、母を想いさらに涙を流す。
――ずっと一緒だから…。
母の言葉が溢れ出して止まらない。
涙のように、どこからともなく湧き上がってきて、清流のごとく僕の頬を流れていく。
清澄な母の声が、耳の奥でこだまする。
――泣かないで…。よしよし。
――母さんも悲しくなるでしょう?
「…総…」
和泉の声が、ゆっくりと近づいてくる。
それが和泉との距離だと分かったときには、すでに二人の唇は触れ合っていた。
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