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第二十三話・「寂しさを埋めてくれた」

 夢から覚めるのは何度目だろうか。

 良い夢も悪い夢も、喜怒哀楽、そのどの夢であっても夢は覚める。覚めない夢などないのだから、人は夢に対してあまり固執したりしない。寝覚めが悪い、続きが見たい、その程度で終わってしまうのが夢だ。それの繰り返し。繰り返して、慣れ、また別の夢を見る。

 そうして、何度も何度も夢を見る。

 目を明けて頬に手をやると、湿っぽい感触があった。目の前に指をもってくると、窓からもれた暮れなずむ夕日の下で、淡く光を放っている。

「いったいどんな夢を見ていたの?」

 ドアを背にして床に座る僕の横に、ごく自然に座っている和泉。まるで風景に溶け込んでしまったかのようだった。話しかけられるまで気付かなかったのは、僕にその余裕がなかったから。

「ずっと泣いていた。ぬぐってもぬぐっても溢れ出てきて。体中の水分で涙を補っているみたいだった。ほら、ハンカチもこんなに」

 ブラウンにチェックの模様が入ったハンカチが僕に差し出された。僕がそっとハンカチに触れると、水で濡らしたと疑いたくなるくらい、濡れそぼっている。

「泣いていたんだな…」

 夢の中で発生した胸の痛みが、夢から覚めてもまだある。夢と現実が密接につながっている。それが嘘ではないと証明されていた。

「…聞きにくくなっちゃった」

 和泉がハンカチをしまいながら、おどけて見せた。

「何を?」

「何でしょう」

「だから、何だよ?」

「聞いていいの?」

 僕は和泉の顔を窺った。

「…別に。質問にもよる」

 僕と和泉が背にする屋上の扉に、オレンジ色の羽衣が伸びている。床に座る二人を、音もなく巻きとっていく暖かい帯。光の帯が和泉の瞳にあまりにも美しく映りこむから、僕は少し恥ずかしくなった。

 和泉と僕の身体的な距離が、和泉の匂いをより確かにし、僕の鼻腔を中毒に陥らせる。

 また、端正な彼女の顔立ちが、彩り豊かに輝く様、つまり表情豊かな様が、目に焼きついて離れなくなりそうだった。

 短いスカートからすらりと伸びる太ももが、より僕を赤くさせる。

 夕日で赤面をカモフラージュできるだろうか。

 和泉は僕の赤面に気付く様子もなく、質問の内容を考えていた。

「明日、晴れるかな?」

「却下」

 和泉が肩で僕にタックルした。僕はよろけて床に手をつく。和泉は妙に楽しそうだ。

「質問にもよるって言っただろ」

 床についた手にはひんやりとした感覚。日の当たらない場所はこんなにも冷たいものなのか。

「総は、今朝の約束覚えている?」

 僕は、座りなおして頷いた。

「…雅」

 その名前を出すのに僕は勇気を必要とした。

「優美で上品なこと。洗練された感覚を持ち、恋愛の情趣や人情に通じていること」

「そうじゃなくて」

 僕は向かいの窓に広がるオレンジ色の空に目をはせた。

「そうじゃなくて…」

 目に焼きつきそうな夕焼け空。

「彼女は、葉月雅は、夢の中で俺を助けてくれた人なんだ。補完についてヒントをくれたり、もう一人の篠崎総の攻撃から救ってくれたり…」

 和泉は穏やかな笑顔を僕に向けていた。一方で、斜陽の効果だろうか、少し寂寥感を帯びたようにも見えた。

「救ってくれたり…?」

「…救ってくれた」

 心に書き起こした文章を訂正した。

「どうしてかな…」

 和泉のため息交じりの声。生徒の声が下から聞こえてきたが、足音が遠ざかるとともに、声も遠ざかっていった。黙然と静寂の区別がつかなくなる。

「どうして、肝心なところだけは隠してしまうのかな」

「…隠すつもりは」

「ほら、隠してた」

 膝を抱え、そこにあごを乗せて不平を言う。駄々をこねる子供のように。

「私に言うと、何かまずいことなの?」

 僕は、曲げていた足を伸ばす。同じ体勢を維持していたせいか、違和感があった。僕は質問には答えないで立ち上がる。制服のズボンに付いた汚れを払い、扉に寄りかかった。扉はきしんだが、簡単に僕の体重を支えて見せた。

「寂しさを埋めてくれた」

 和泉は自分自身をさらに強く抱きしめ、顔をうずめる。

「孤独や迷い、いらだち…いや、それだけじゃない。…俺自身を、すべてを、抱きしめてくれたんだ。不思議な話だけど、それが嘘偽りでないと、すんなり信じることができた」

 太陽の光量が弱まってきている。スポットライトのように僕らを照らしてくれていた夕日も、舞台から降りようとしている。一日という演目も終焉を迎えようとしていた。

「大事な人なんだ。助けを求めているんだ。でも」

 夢での総の言葉が僕の中で大きく反響する。

「…助けることができるかどうか、今はもう分からない」

 総が母親を助けた後、この世界を救ってくれればそれでいいのではないか。この身を犠牲にする価値は十分にある。和泉の中から僕の記憶、存在が完全に消去されれば、文学部としてもっと有意義な活動ができるだろう。僕にこだわらないほうが、文学部は存続していける。その点で、父は息子という後顧の憂いなく、母を哀悼し、後悔することができる。条件は整っている。後ろ髪を引くものはない。

 最後は僕の覚悟だけだ。

「…そっか」

 和泉も立ち上がった。

「私は総を勘違いしていたみたい」

「…?」

「情けないね」

 和泉も立ち上がって扉に寄りかかる。やはり扉は頑丈で、当たり前のように二人を支えた。

「総にそこまでしてくれる子の気持ち、考えたことある? 人を抱きしめることなんて簡単にはできない。言葉ではうまく説明できないけど、きっと大きな想いが総を包んでくれたはずだよ。だから、総の中にあったいろいろな感情の荒波を鎮めることができた。それが、どれだけすごいことなのか、総は分かってない。全然分かっていない。全然考えていない」

 僕より数センチ背の低い和泉が、上目づかいに僕をねめつける。

 彼女の二重まぶたが、強い瞳の力を引き出した。

「誰にでもできるわけじゃない。総の気持ちがその子に力を与えるんだよ。なのに総は大事なところにまったく気付いていない。大事なら、本当に大事なら、死ぬ気で頑張って、そして、助けられなかった、ごめんな、って…死に際で言いなよ」

 僕の袖をつかんで揺さぶる。

「自分に負けて、そして、総がいなくなっても、私は悲しむ暇もないんだから! 悲しむこともできないんだから!」

 和泉は理解しているようだった。僕が立たされている状況、そして、その後に訪れる世界の変化も。

「せめて、その子だけには、総の最期を看取ってもらいなよ。でも…」

 つかんでいた袖を離す代わりに、僕の肩に額を当てる。薄暗闇が、僕たちの距離をより狭めていくようだった。

「もし…もし夢から覚めることができたら、そのときは――」

 彼女はつぶやくように言った。

「――誰よりも一番に総の近くにいたい」

「部長として?」

 少し時間を置いて額を上げると、和泉は笑った。

「部長として」

 一瞬、作り笑顔に見えたのは、僕だけだろうか。

 僕は、判別しようと目を凝らしてみたけれど、和泉はすぐに僕に背中を向け、そのまま歩き出した。

 階段の手前で立ち止まると、和泉は右手を高く突き上げて、少し震えたような声で言った。

「頑張れ。命尽きるまで」

 和泉はそれを何度も言い続けた。復唱するたびに、震えていた声にも張りが出てくる。

 何度も何度も、高らかに言い放った。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。スピード感のない文章を書いてしまった典型的な例のような小説ですね。そんな作者ですが、これからもお付き合いいただければ、幸いです。評価、感想、栄養になります。

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