第二十一話・「僕があるから、世界があるんだ」
今なら戦場に望む兵士の気持ちが分かる気がする。
地下鉄のプラットホームに僕はいた。地元の駅は良く知っていたから、僕はここに足を運んだ。夢の中と理解していても、僕にはこの風景が現実の気がしてならない。人の群れや、滑り込んでくる電車、電車の発車を告げるベルの軽快な音。都会の駅とは違う、どこか閑散とした構内。だが、風景の細部を見てしまうと、これは夢だ、と意識を引き戻される。時刻表に書かれた文字に時間は記されていない。電車の形もどれも同じ。細かな傷や、錆などは再現されていない。
何より、僕が望んでしまえば、電車はそこにいつまでも停車していた。
戦場とは、どんな景色をさすのだろう。映画でよく見る戦場は、ひどく荒廃したものばかりだった。瓦礫の山と化した市街地、地面が裏返された平原、血の色に染まった雪原、どれも恐怖を想起させるには十分なもので、否応無しに、これが戦場だと思い知らされる。
しかし、この景色はどうだろう。
僕の暮らしてきた町。誰もが幸せに見える町。この戦場とは無縁に見える町を、僕は舞台として選んだ。戦いとは、いったん開戦してしまえば、候補地はどこでもいいものかもしれない。平和であろうが、そうでなかろうが。
電車が、また滑り込んできた。
ブレーキ音の反響とともに、降車口と銘打たれたアスファルトに、電車の扉が停止する。
僕は、その閉じられた扉の向こうにもう一人の僕を発見する。
扉一枚隔てて、僕らは対峙する。高校の制服を着た僕と、黒いフード付のコートを着ているもう一人の僕。
扉はもったいぶったようにゆっくりと開いていった。
「死ぬ覚悟ができたみたいだな。いい加減に俺の糧になればよかったんだ」
フードをまくりながら、笑って見せる。
「雅から聞いたか? この世界の仕組みを」
僕は、黙って向かい合う自分の顔を見つめ続けた。
「自分も自覚夢ができれば、勝ち目はある。真の自分を手に入れることができるかもしれない。そう思ったから、俺から逃げずにここにいる。違うか?」
鋭い目つきの僕には、僕自身も驚いた。こんな表情を僕ができるとは思っても見なかったからだ。
「笑えるな」
歩み寄って来たもう一人の僕は、僕の肩に手を置いて告げる。
「お前は、所詮キッチュだ。篠崎総の劣性部分なんだよ」
僕は肩に乗せられた手を振り払った。
「それは、決められたことなのか」
「…いや」
僕は迫り来る異様な空気を肌で感じ取った。
「これから決めることさ」
僕は危険を察知して飛びのいた。すると僕のいた場所に剣が振り下ろされていた。
いつ、どこから取り出されたのか分からないほどのスピードだった。
「これぐらいは、難易度的にみても、イージーだ」
僕は時代劇を想像する。侍のイメージ。刀。
「やはり、自覚夢を理解したようだな」
僕は左手に現れた刀を握り締める。黒い鞘を握り締めて、刀を解放する時を待つ。いつでも、抜刀できるように。
「難易度が少しぐらい上がったようだが、関係ない。キッチュには変わりがないからな」
「…総。倒してみせる」
柄を握る手に更なる力が入る。これが、僕の戦い。篠崎総を越えるための戦い。
僕は、剣についた汚れを振り払う総めがけて、突進した。ある程度の距離があったが、関係ない。
自分の夢の中では、僕の望みどおりのスピードを得られる。
戦いにおいては素人であっても、夢の中では速度を得られる。踏み出した一歩が、地面を蹴るのと同時に、眼前に広がる風景が収縮されていく。
総は僕の突進を視認して、剣をとっさに構えた。二歩目には、すでに刀の軌跡の範囲内に総を捕らえていた。僕は最速のイメージで、刀を鞘から解き放った。銀の閃きが、総の首に喰らいつく。受け止められた刀と、受け止めた剣。互いの獲物が鋭い閃光を放った。一撃の凄まじさを物語る音が、互いの耳をつんざく。僕の初撃を受け止めた余裕からか、総はうっすらと笑みを浮かべる。
僕はその笑みを見て、刀を剣から滑らせ、素早く腰を回転させた。
剣の刃先を滑っていく刀が悲鳴を上げるのと、左手に握り締めていた鞘が刀のたどった軌跡をトレースしていくのは、ほぼ同時進行だった。
刀の一撃を受けるのは予測範囲内。
だからあえて単純な行動に出た。納刀状態での攻撃方法は限られ、相手の予測を容易にする。しかし、追随する二撃目には相手にも隙が生じる。狙いすました一撃が、総の眉間を襲う。総の余裕の表情が一瞬で凍り付いていくのが横目に確認できた。僕は直撃を確信する。
案の定、眉間に強烈な打撃を受けて総の首は反り返り、刀の範囲外に吹き飛んでいった。僕は回転力が加わった体をさらに一回転させて、倒れた総に向き直った。うつぶせに倒れた総の頭にはフードがかぶってしまっていて、状態の確認はできない。隙を突いた完璧な攻撃だったはずだ。
あのスピード、あの角度、起き上がれるはずがない。
しかし、僕の願いは、脆くも崩れていく。ゆっくりと立ち上がり、かぶさっていたフードを払った総は頭部をさらす。
「難易度が低めであっても、油断すると…か」
驚くことに、顔面を覆うフルフェイスの兜が出現していた。総は兜を脱ぎ、せせら笑う。
「付け焼き刃にしては、見事だったけどな。…くそ、頭がくらくらする」
兜を僕に放り投げる。僕は反射的にそれを持っていた鞘で打ち払った。
それが、ミスだった。
兜に意識を取られて視線が移動してしまったことに気付いたときにはもう遅かった。僕の左手がおろそかになっていたところを、総に踏み込まれた。低い体勢で剣を構えた総が、横薙ぎに移行する。僕は、抜刀したままの刀を苦し紛れに防御に回すか、それとも体をひねって回避するかの選択を瞬間的に迫られ、迷わず後者を選択した。ワイシャツが切り裂かれ、肌があらわになる。
どうにかかわせた。
だが、かろうじて飛び退った僕に向けて、総は手を休めようとしない。横薙ぎの剣を上段に構え、すばやく振り下ろす。刀で払い、難を逃れようとするが、続けざまの攻撃に防戦に追われる。剣の力とスピードに、僕の刀は悲鳴を上げる。重量的にも非力であるせいか、刀は何度か打ち合っただけで真っ二つに折れてしまう。それでも、僕は新しい武器をイメージすることができない。間髪いれず繰り出される総の剣戟に対処することで頭がいっぱいになり、とてもイメージする余裕などなかった。
総の笑みが止まらない。
折れた刀で何とか致命的な傷を避けてはいるが、僕は確実に押され始めていた。斬られる。そう判断してその方向に刀を出した僕を、総はあざ笑う。刀に剣はぶつからず、総は体をひねった。刀での防御に固執しすぎていた結果、対処が遅れ、僕は回し蹴りをまともに受けてしまった。ブーツの踵が僕の左肩にめり込む、みし、という音が体に伝播する。驚くほどの力が左肩から全体に加わり、僕の足は地面を離れた。
総は、僕を蹴り飛ばした状態のまま足を静止させている。
その表情には、やはり余裕の笑みがあった。
プラットホームに弧を描き、僕はなすすべなくキオスクに突っ込んだ。ガムや、お菓子、本が散乱し、棚からは小説がこぼれ落ちた。何とか立ち上がろうともがくが、体の痛みが邪魔をする。何とか商品の山から顔を出すと、総が目の前にいる。ただの廃棄の山と化したキオスクから、僕を強引に引きずり出し、そのまま服をつかんで蹴り上げた。僕は両腕で胴体をカバーして、何とか直撃を避けたが、ダメージは相当のものだった。
ホームの柱にぶつかって、崩れ落ちる。
人間の胴体を蹴り飛ばすとは、常人の沙汰ではない。現実なら確実に交通事故の類だ。
「意外と、あっけないもんだな」
地面にうつぶせに伏した僕の耳に、持っていた剣を地面に転がす金属音と、総の足音がアスファルトを通して響いてくる。どうやら、剣を捨てたようだ。コートのすそが僕の視界に揺れている。
「自分でも思わないか? キッチュ」
僕の鼻先には重厚な革靴のつま先。思い切り振り上げた足で、僕の顔面を蹴り飛ばす…。ぞっとするような想像が僕の体を突き抜けた。両手を地面につけ、体を跳ね上げて緊急回避をはかる。予想通りの事態が、回避した僕の代わりに、ホームの柱を襲っていた。コンクリートが紙粘土にすり変わったとしか思えない。破壊力のたとえとしてはそれが適当だろう。
細かい破片が、血のように派手に飛び散る。もし僕がよけられずにいたら、今頃は僕の脳味噌がホームに飛散していたことだろう。再び背筋に悪寒が走る。僕はとっさにホームの柱を蹴って、総の背後を取る。が、前述の恐怖により、僕はそのまま攻めに転じることができなかった。
着地と同時に、ステップして後ろに下がる。
「キッチュにしては、いい判断だな」
不気味に笑う総が、僕を振り返る。
「あのまま踏み込んでいたら、串刺しだ」
左手には、捨てたはずの剣が握られている。
「何も驚くことではないだろ? 想像力の範囲内さ」
僕は自分の顔を手で確かめる。驚いた顔をしていたという自分の顔を。
「まさか避けるとは思っていなかったからな。回避した後の保険を忘れてたよ」
剣を持っていないほうの手で、僕の背後を指差す。額から汗が流れ落ちた。
「ふふ、ははははは」
総の哄笑が聞こえる。背後を振り向いた僕の目に飛び込んだのは、空中に浮遊している剣。
「俺は確かに剣を捨てた」
浮いている剣をよく見れば、ところどころ刃こぼれしている。
「だが、剣は一本とは限らない。剣を持っていない、という先入観は、夢では命取りだ」
浮遊した剣が僕の首めがけて、加速した。僕は身を捌いてかわした。攻撃はかわせても、心の中に芽生える恐怖心だけはかわせなかった。
剣はそのままのスピードで総に直進していった。総は一片の迷いも、恐れもなく、目をつぶったまま右手で向かってくる剣の柄を握り締めた。くるくると、舞踏のごとく剣を乱舞させ、僕に鋭い眼光をくれる。
僕は恐怖心が体内に巣くっていくのを理解した。恐怖は黒く粘着力のある液体。希望や、気力、動作、ポジティブな意思を覆っていく。潤滑油の失った関節が、悲鳴を上げていた。震える足、発汗を忘れた肌。暗雲は、僕自身の手によって頭上に冷たい雨を呼ぼうとしている。
自信を表出させる総の足取りが、圧力となって僕の向かい風となる。僕は、負けるものか、と足を踏ん張ろうとするが、次第に後ずさりしていく。
思いだけではどうしようもない。
体が、深層意識が、感覚がそう警告している。
「最後まで抵抗して見せろ。キッチュではあるが、お前は俺なんだからな」
僕は敵と戦う前に、まず自分自身の心と戦わなければならなくなった。震える足を叩いて、僕は悪魔のごとき自分を凝視する。二本の剣を両手に携え、不敵な笑みを浮かべる。自覚夢の経験では、圧倒的に不利。僕はまだよちよち歩きを始めたばかりだが、敵はすでに自由自在だ。
圧倒的な戦力差が、更なる負の感情を連れてくる。
僕は、何もイメージできないまま、総に殴りかかっていた。
「…ああああっ!」
僕は総を倒したかったのではなかった。
恐怖心をただ振り払いたかった。
恐怖心に縛られた脳が、脚の動きを鈍らせる。それが悔しかった。甘かった自分の考え。守る、という言葉の重さを感じないではいられなかった。雅を必要としている。その言葉を盾にするだけでは、何も守れない。
雅も、そして、自分自身さえも。
次の瞬間、僕の視界は、電車、総、と何回転もしてから、電車の窓ガラスを突き破って床に転がり込んだ。ガラス片が、粉々に散らばっている。総は僕の無謀な行為に落胆を隠せないのか、剣の刃では切らずに、剣の腹の部分で殴り飛ばした。
失望したとでも言いたそうな表情だった。
舌打ちをし、左手を振りぬいた。なすすべなく吹き飛んだ僕の体は、電車の窓をぶち破った。
僕は、起き上がろうとガラスの破片に手をついてしまう。手のひらの状態を見ると、ガラス片が突き刺さった箇所から血液が滲み出し、じわじわと苦痛の情報が脳へと送られていった。手のひらを縦にすると血液が筋となって伝う。僕は、痛みを伴いながら、見つめ続ける。
不思議な心境だった。自分の血を見ていると、妙に落ち着いた気分になれた。
こちらに歩いてくる総がぼやけて見える。口の中を切ったのか、血液の味が口内をさまよっている。
「味…」
僕は、ひざをついて立ち上がる。ふらつきながらも、電車の手すりを使って、立ったままを維持した。
「…血の味」
理解できそうだった。とても重要な何かを。
「…いや、これは本当に血の味か?」
ここは現実ではない。夢の中だ。常識が常識ではなくなる場所だ。
僕はまだ完璧には順応できていない。
頭では理解していても、感覚では理解できていない。これは、夢。自由になる世界。自分の精神にすべてがゆだねられる世界。精神力、想像力が雌雄を決する世界。
僕は手すりから体を離した。
現実での情報は、全部自分を通して噛み砕かなくてはならない。しかし、夢の世界では、自分から発せられた記憶の情報を、世界から受け取り、もう一度自分が噛み砕く。味を自分に伝えるのは、自分の舌、自分の脳、つまり自分自身。砂糖が甘い、唐辛子が辛い、それは、常識が作り出した産物だ。ここでは、唐辛子は、甘くもあるし、辛くもある。調節することができる。僕は自覚夢の存在を認めながらも、夢に現実の常識を持ち込んでいた。
一般常識、当然と思う心、またそれに準拠する心を捨てなければ、死ぬことになる。
生まれたばかりの赤ん坊のような、純真無垢かつ、柔軟な心で挑まなければ、僕は夢の世界に飲み込まれる。
「世界があるから、僕があるんじゃない」
砕け散った窓から見える総を視界の中心に捕らえる。
「僕があるから、世界があるんだ」
痛みなんてない。疲れなんてない。血なんて流れていない。自分の足枷となるものを解き放て。握り締めた手のひらを開くと、流れていた血も、ガラスで切った傷創も存在しない。切り裂かれたシャツも元通りだ。
「まだやる気なのか?」
足元のガラスが震えだす。
「ノンレム睡眠と、レム睡眠の周期の関係もあるからな。そろそろ最後だ」
総は二本の剣を浮遊させて、もう二本同様の剣を両手に出現させた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。これからも頑張っていきますので、よろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。