第十八話・「補完」
鳥のさえずりが僕の耳朶に届くということは、僕がすっかり深い眠りについてしまったことを意味していた。
靄がかかる頭を振り、時刻を確認する。いつも壁にかけてあるはずの時計が見当たらないので、諦めてカーテンを開けると、輝くような太陽が僕の瞳いっぱいに顔を出した。
「…。まずい!」
バッグにある程度の教科書が入っているのを確認して、家を飛び出した。
現在の時刻が知りえない以上、バスの時刻表も当てにならない。行き当たりばったりでバスに乗るしかなかった。
僕は、バスがタイミングよく乗せてくれることを願った。
すると、バスは今まさに停留所に着かんとしているところだった。僕は狂喜乱舞で飛び乗ると、そのまま身をバスにゆだねた。
町には人通りはなかった。バスの車窓から見える景色が淡白すぎて、僕は再び睡魔に身を寄せそうになる。なおもバスには誰も乗車していない。こんなことは初めてだった。バスが信号に引っかかっても、僕の気がせいているのを読み取ったのか、十秒と経たずに青信号へと変わった。
それらの不思議な現象は学校についてからも同じだった。
校門をくぐってから自分のクラスに到着するまでの間、それ以上に家からここまでの道のりに、人っ子一人いなかった。
「今日は、いったい何の日だ? 祝日か?」
答えを知らないために、それは自問自答にもならない。ただの独り言だった。僕は机に向かうと、てきとうに教科書を開いてみた。
「ノート? いや、これは確かに教科書じゃ…」
白紙の教科書が机の上に広がっている。表紙には確かに数学と書かれていた。
僕の頭に、何かがよぎる。
「今思ったこと、今よぎったもの。それが鍵」
雅が、いつの間にか隣の机に座っていた。
「ついてきて、総。時間がないの」
そう言うと、雅は僕がついてきているのを確認しながら、通常は閉まっているはずの屋上への扉をくぐった。
僕は今まで二回しか屋上には来たことがなかった。
屋上は風のない穏やかな日本晴れだった。遠くからは蝉の大合唱が聞こえてきている。
「だいぶ昔のような気がするよ。雅とこうして話せたことが」
僕の心臓が、自分の発声とともに、まるで坂道を駆け上ったように鳴り出した。
「私も、ずっとこうしていられたら、と思う」
青空を背景に雅の姿が浮き立つ。
「なら、どうして僕を殺そうとさせたんだ。もう一人の僕の手を使って」
「そうしなければならなかった。そうすることが私の役割だった。そのために私がいる。篠崎総が、より完全なる篠崎総になるために」
「そんな…」
どうやら和泉の言っていたことは真実で、おそらくは二人で話しあっていたことも、ほぼ正解に近いのだろう。自分自身を補完し、より進化した自分になる。それが、もう一人の自分を倒すことで達成される。
「基本的には、それで間違いはないわ」
僕の心を見透かしたような返答だった。
「全部知っていてのことなのか」
「私の意思に関係なく、私は知らなくてはならない。この表裏一体の世界も」
「表裏一体?」
雅は少しだけ悲しそうな顔をした。なぜなのかは分からない。
「二つの世界。それは一つの夢によってつながれている。そこで人々は出会い、そして自分を取り戻していく。本来あるべき自分の姿へ」
「…」
「総が考えている人間は、人間であって人間ではない。真実の姿をした人間は、もっと高等で万能な生き物。そう、ちょうど和泉さんのように」
「和泉を知っているのか? 和泉を補完に導いたのは、君なのか?」
雅は首を横に振った。
「彼女は自分自身の力で補完にたどり着いた。自分を補完するということは困難であるし、限られたことなの。結果、補完を成した者はすべてにおいて最大の力を発揮することができる。今までの自分を自分だと思えないくらいに。和泉さんもそれが原因でとても苦悩している。ただ、彼女の場合は、少し違うようだけれど」
「まるで、SFだ。信じられない」
「オリンピックメダリスト。ノーベル賞受賞者。世界的な企業の経営者。他人よりも圧倒的に優れた人々が、努力だけで頂点に立てるというのは、まったくの嘘。天才であるということも、補完の賜物なのよ。何かをきっかけにした能力の開花もそう。補完することで本来の力が引き出された。彼らは皆、自分自身を補完した人々。完全なる人間の姿とは、そういう圧倒的な可能性を持した存在。リミッターがかけられているのよ、総は。この世界に生きる人々も、同様に」
「じゃあ、僕が補完したら、僕は変われるのか?」
雅は鷹揚に頷いた。
「でも、分からない。君は僕を助けてくれた。なのに、僕を殺そうと…」
「…この真実を、あなたから先に告げていればよかった」
僕は押し黙るしかなかった。
「総――」
僕は、悔しさで落とした視線を、雅へと移す。
「――私を助けて。あなたの可能性を見せて。あなたたち人間には、この世界を救うことができると」
懇願する雅の目に、僕は言い知れぬ不安を覚える。
「僕には、その可能性が?」
「…ある。…と信じたい」
雅は、そう言って僕に背を向けると、屋上を囲う金網に背をもたれた。ゆっくりと凪いでいく風に、匂いはない。大騒ぎしていた蝉の声も静まった。静寂に満たされた屋上に、澄み切った青空。写真のように完璧で、研ぎ澄まされた一枚の風景画だった。
引き寄せられるように雅の隣に同じ格好で寄りかかる。
金網が、ギシ、とこすれあった。
「自分を補完することができれば、君を救うことができる?」
雅が、僕の手を握ってきた。繊細で暖かい手。白く透き通るようだ。
僕らは、しばらくの間、そのまま手を握り合っていた。存在を確かめ合うように、離れたくないという感情を代弁するように。
言葉もない、動きもない。
その握り合っている手に、僕は大きな安心をもらっていた。自分が消えてなくなってしまうかもしれない。そんな、不可避の恐怖でさえ癒すことのできる暖かさを、雅は持っているのだった。
「これが、総の世界なのね」
僕は雅を横目に見た。
「温かくて、懐かしくて、とても愛しい。総の優しさが伝わってくる」
僕が見ているのを気付いたのか、雅は笑顔で僕を向いた。
「そうか」
僕はやっと気付くことができた。
「これが、夢なんだ。これが、僕の夢。僕が見てきた様々な風景」
地面を良く見れば、現実とは違ってディティールがはっきりしていなかった。細かい砂だとか、老朽化した感じだとか、はっきり再現されてはいない。細部が曖昧なのは、僕が屋上にほとんど来たことがないせいなのだろう。それに比べて、自分の部屋や、バスの中は、詳細に描かれていた。人通りがまったくなかったのは、僕の想像力が足らなかったからだ。信号が僕の望んだ色に変わったのも、これなら頷けた。
僕は、雅とつないでいない反対の手を前方に伸ばしてみる。目をつぶり、キャンパスに絵の具を乗せ、形にしていく。大きな木。授賞式の日、白いベンチ。あのときの風景を、僕は描いた。
「…おめでとう」
雅は、僕にそう告げた。
「それが、あなたたちが言っていた、自覚夢」
屋上に一本の木が立っていた。その下には白いベンチがある。
「望めば、空を飛ぶことだってできる」
地面を蹴った雅は、僕の手を握ったまま空中に飛び上がる。僕はあわてて足をばたばたさせるが、雅の上昇速度のほうが勝っていた。上空を見上げる雅の首筋には太陽の光。恐る恐る見下ろすと、屋上がどんどん小さくなっていく。航空写真さながらの高度だった。
「驚いた?」
「驚いたも何も…」
僕の住んでいる町が見渡せる。駅前の雑多な状況とか、デパートとか、はるか向こうに見える山々まで、まるで子供のころに怪獣映画で壊された町の設定に似ていた。
「これが、僕の夢だなんて」
「人の記憶容量は果てしない。忘れてしまっていることも、実はしっかりと覚えている。ただ思い出すことができないだけ。夢の中で整理して、必要なものだけすぐに取り出せるようにしているのよ」
僕は雅の手にぶら下がったまま、雅の芳顔を見上げていた。
「こうして、何度も総の夢の中を歩いていた。楽しいことも、悲しいことも、いろいろ見てきた」
上空だというのに風は出ていない。これも僕の夢の範疇だからだろうか。
「…僕の過去も?」
力なくぶら下がった僕を、雅が引っ張り上げた。僕を腰から抱きしめるように腕を回す。僕の体が雅に引き寄せられ、下半身から密着してしまった。顔が真っ赤に茹で上がってしまった僕は、焦って雅の視線から逃げようとしたが、逃げるのより早く、雅は僕の額に自らの額をぴたりとつけた。急接近してきた雅の瞳が、澄んだ光を持っていた。
「…怖くない。何も怖くなんかない。総を怖がらせるものは、全部あの山の向こうに飛ばしてあげるから」
雅は、僕をしっかりと見つめたあと、目を閉じる。何かを念じているようだった。僕は無音の境地へと導かれていく。空と地上の狭間で、僕たち二人だけの空間で。
僕も、目をつぶった。
雅の温かさが、しっかりと伝わってくる。夢では何も感覚がない。そう言われているのが嘘のよう。僕にはこれが現実の一ページにしか思えてならなかった。
「怖いの怖いの、飛んでいけ」
雅の柔和な声が、僕の体に染み込んでいった。
僕は小さい頃、夜眠ることができなかった。寝付くことはできるのだが、真夜中にトイレに起きてしまうのだ。僕は家の外から聞こえてくる風の音や、家の物音で一向にトイレに立つことができない。それを見かねた母が、僕をしっかりと抱きしめながら、そっと額を合わせてこうつぶやいた。
「怖いの怖いの、飛んでいけ」
すると僕は、母の温もりを武器に、ドアの外に広がる暗闇に勇敢に立ち向かえるようになる。 床のきしみに怯えず、風の脅しにも屈せず、僕はトイレまで前進する。
恐怖は彼方に去った。
痛いものを飛ばす、のではなく、怖いものを飛ばす、それが母の特徴だった。
怖いものなどない。母が飛ばしてくれたから。母が…飛ばしてくれたから。
「総、お母さんが恋しいのね?」
僕は涙を流していた。
「ああ…」
涙声が掠れていて、言葉がおぼつかない。
「僕は、ずっと母さんが好きだった。コンプレックスと言われたって、軽蔑されたってかまわない。僕は…僕は、母さんが好きだった。誰よりも優しく僕を撫でてくれた母さんが…。ずっと生きていて欲しかった。聞きたいこと、教えてほしいことがたくさんあったんだ。もっと沢山、数え切れないくらい、沢山。僕は、僕は…」
木から垂れ下がる母の体が、時計の振り子のようにゆっくりと揺れていた。胸が、ずきり、と痛む。
「僕は…僕は…!」
僕は大声を上げていた。
「よしよし」
その雅の言葉が、僕の涙を連れてくる。泣くことが何につながるのだろうか。ここが現実ではないことは、すでに証明済みなのに。それでも滂沱として咽ぶ心を制御することができない。泣くことは感情を吐き出すことだと、知っている。でも、吐き出したあとに、吐き出したものがあった場所には、今度は何が残るのだろう。
空虚だろうか。
それとも、また別のものだろうか。
雅は、何も言わずに、僕の顔に頬を寄せる。
言葉で伝えられないことを知っているからなのか、直接的に僕の体に訴えようとしているように感じられた。その行為の中に、非現実の空間で、確かに優しさを感じ、確かに胸を締め付ける、確かな、何より確かな温もりがあった。かつて母から注がれ、人生半ばで命を絶やすまで止むことのなかった、心の結晶だった。
幸い、僕はそれを言葉で表現することができる。
…母は、愛、を注いでくれた。
雅もまた、僕にそうしてくれるというのだろうか。吐き出した涙があった場所に、注がれていく水。
それが、愛情。
「総、まだ泣き足りない?」
「…もう、十分だよ」
流した涙は、雅の制服に吸い取られていった。吸い取れない分は、高高度から、地上へと落下した。
「…良かった」
雅の手が僕からほどけていく。
「…雅?」
雅はうっすらと笑みを浮かべ、次の瞬間、仰向けに倒れる。
「雅!」
ここは鳥も飛ばぬ高空である。地面に倒れこむような衝撃ではすまない。雅の体は仰向けではなく、垂直落下する。力が抜けた雅の状態に、僕はただならぬ危機感を覚えた。
「くっ…!」
僕と雅は、もつれるように劇的な落下速度を迎えようとしていた。その先に待つのは、地面に激突する致命的な衝撃。カメラのレンズでズームしていくような奇妙な感覚。よりくっきりと、地面が見えるようになる。乱暴な風の音、暴れはためく制服。息もできないくらいの速度。目がつぶれる錯覚にとらわれ、僕は死を予感する。
「これは、夢…」
僕は、地面を見ずに集中する。現実を直視することで、人は動転する。今まで容易にできたことでも、極度の緊張が加われば、失敗する。とっさに僕は考えた。
「僕の夢だ!」
雅をしっかりと抱き寄せた。決して離さぬよう、絶対に守り抜くように。
脳内でイメージが出来上がった。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。不足している部分を補って、完全なものにする。補完。ぴったりの言葉を見つけたときは、かなり嬉しくて踊りたくなります。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。