第十七話・「…すまない」
「お帰り。誰か来ていたのか?」
帰りが遅いはずの父が帰ってきていた。
「女の子だろう?」
僕はさっさと食器を片付けるために、吹かれた風を受け流しながらスポンジを握っていた。
「お前のカレーは、なかなか美味いからな、きっと満足しただろう」
泡だらけになった食器をすすぐ。食器同士のぶつかる甲高い音が、父の言葉同様に不愉快だった。
「今度、見てみたいな。お前が連れてくるくらいだから、きっと美人だろうな」
すすぎ終わった食器の水を布巾で払拭し、僕は食器棚に戻す。
この嫌な空気、嫌な音、嫌な人間から逃げ出したかった。
しかし、それよりも、真っ先に怒りで我を忘れそうになる自分が嫌だった。
「母さんも、お前が女の子を連れてきたと知ったら、きっと喜んだだろう。…いや、逆に悔しがるかな」
父の口がよどみなく蠢くさまが、汚らわしく思える。
「あいつは、お前に過保護だったし、おそらくお前の彼女を目の敵にする」
「…うるさいよ」
「あいつは、そういうところは子供だったからな。もともとあいつは…」
「――やめてくれ!」
怨嗟を搾り出すとこんな声になるのだろうか。毒々しい黒い吐息が見えた気がした。
「父親気取りはやめてくれ。あんたは、母さんが苦しんでいたとき何をしていたんだ。涙を拭いてあげることすらしなかったくせに…。何で、父親気取りなんだ! 俺が本当に欲しかったのは、あんたなんかじゃない、母さんさえいてくれれば、それでよかったんだ!」
テーブルを拳で叩いた。怒気がテーブルを伝わって、目の前に座る父に届く。父の飲んでいたコップがテーブルの上でひっくり返り、水が散乱した。
「僕が苦しんでいたとき、母さんはずっと傍にいてくれた。僕が今ここにいられるのも、母さんがいてくれたからだ!」
コップが音もなく転がって、やがてテーブルの端から落ちていった。
「父親は要らない。要らないんだよ」
コップの割れる音が響いた。静寂が二人の間を縫い合わせる。
それを待っていたかのように、父は厳かさを装うように口を開いた。
「総が言うのなら、その通りなんだろうな」
父にしてはあまりに弱々しい、自嘲を含んだ声だった。その声が耳に入るや、悔しさが胸にこみ上げてくる。
こんな感情はありえなかった。
こんな男が、母の愛した男であることを信じられなかった。母がこんな男の愛を得るために辛苦していたことが許せなかった。僕がどんなに罵詈雑言を浴びせようと、憤怒の腕を振り上げようと、僕はこの男と血がつながっている。
切っても切れない永遠の鎖につながれていることが、悔しかった。
この男を愛してしまった母が悔しかった。
絶対的な存在であることを誇示していた父。
怖くて近寄りがたかった父。
話しかけても返答すらもらえなかった父。
威厳ではない。それは、畏怖だった。そんな恐怖の対象だった父が、今は僕に手のひらを返すよう。暴言を吐く僕に対して殴り飛ばす気概さえない。力でねじ伏せようとも、言い訳しようともしない。甘んじて受け止めることはあっても。
父が席を立ち、僕の前にひざをついた。
「…すまない」
父が床に額をつけた。
「すまない」
僕にはその光景がにわかには信じられなかった。
「すまない…」
やがて、僕は涙が出そうなほど悲しくなっている自分に気付いた。
怒りが涙腺を緩ませることなどあるのだろうか。
割れたコップの破片を自らの額にめり込ませる父。
それが断罪であり、贖罪であるかのように。
父は顔を一切上げずにただ念仏のようにつぶやいていた。
土下座をする父の下で、芥子粒が輝く。
「すまない」
何度も何度も、父は繰り返した。
…雅に会いたい。
僕はことあるごとにそう願った。願わなくても会うことができた頃とは大違いだった。夢の中に現れて何事かを伝えようとしたことから、僕と雅の運命は繋がった。僕が苦しんでいれば、まるで瞬間移動でもするかのように僕の傍に現れ、癒してくれた。
なぜそうするのか、僕にはわからない。
しかし、何よりも暖かく、何よりも柔らかく、何よりも優しく、僕の心の琴線に触れた。
「会いたい…」
ベッドの上でつぶやいてみた。そうすることで、今すぐ雅が来てくれるような気がした。
一人では、どうにかなりそうだった。
ベッドに染み付いた自分の匂いを肺一杯に吸い込む。それは怠惰を体に持ち込み、僕を睡眠へいざなってくれる。
雅に会いたい、そして、雅に抱きしめて欲しい。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。夜の10時に寝て、朝の2時に起きて小説を書き、7時には出かけるという生活を繰り返しております。慣れれば、そうでもないのですが、最初は大変でした。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。