第十四話・「…父親が憎いんだ」
「じゃあ、巧君なんだ。入部届けを総に渡したのって」
文学部の部室に鍵をする和泉が、僕に聞いてきた。
校内はすでに真っ暗で、生暖かい空気が廊下を包んでいる。
「そうだよ」
「そっか、それで二枚もらっていったんだ。『書き損じるといけないから、もう一枚頂戴』って、そういうこと」
合点がいったのか、手のひらをぽんと叩いた。
「あいつも入部したんだ?」
「そ、空気を読んでいない誰かのせいで」
「…悪かったよ」
「結構、つらかったよ」
「悪かった」
廊下を一歩先んじて歩く和泉の背中に詫びる。
「でも、今はぜんぜん気にしてない。だって、結果的に文学部員」
振り返った和泉の髪の毛が、まるでテレビコマーシャルのように美しい弧線を描く。
「夢じゃないよね」
僕の瞳を真摯に捕らえる和泉の瞳。
「夢じゃないよね、総」
「うん。夢じゃないよ、夢だったら、困る」
僕は真剣に答えた。この世界が夢であるならば、真実の世界はきっともう一人の僕が存在する世界に決まっている。もう一人の僕が言うように、僕が偽者であるということになってしまう。
それだけは嫌だった。
こうして、文学部に入れたこと、小説を書けるということ、そして、授賞式で出会ったうつむいた才媛のこと。すべてが真実でないはずがない。
「夢であってたまるか」
「…うん」
和泉が、大きく頷き、大きく微笑んだ。
「一緒に帰らない?」
僕たち二人の声が重なって、彼女も僕も同時に微笑んだ。
校庭には、夜間照明が煌々と点灯している。野球部員たちが大きな掛け声を上げて、校庭をランニングしているところを見ると、どうやら、一日の練習を終えて整理運動中のようだった。白いユニフォームが土にまみれて汚れている。真っ黒に日焼けしているのが、ライトの光に照らされてはっきり見えた。僕と和泉はそれを横目に校門を抜ける。
「今年こそは、甲子園に行ってもらいたいな」
「きっと行くさ」
「バスを何台も引き連れて?」
「うん。外野席でブラスバンドの演奏にあわせて大声出して」
「全員で勝利の校歌斉唱」
僕と和泉の声が再び重なる。
「感動だろうな」
「感動だろうね」
しみじみと甲子園の情景を浮かべる。県予選も三回戦まで勝ち抜いているだけに期待感がそうさせるのだった。
「話は変わるけどさ」
コオロギの声が草むらから聞こえてくるが、僕たちの足音が近づくと突然歌うのをやめた。まるで恥ずかしがっているかのように。
「和泉は、怖い夢って見たことある?」
「怖い夢? 例えば?」
僕たちが草むらを通り過ぎると、こおろぎはまた歌い始めるのだった。
「例えば…」
僕は、僕をキッチュ――まがい物と呼ぶあの男を思い浮かべた。明滅する電灯が不気味に僕たちを待ち受けている。
「誰かに執拗に追われる夢、とか」
和泉は神妙に唸り、電灯を通り過ぎたところで話し始めた。
「そういう類の夢の話ってよく聞くな。実際、私もその類の夢を見たことあるし」
「誰にでもある、当たり前のことなのかな」
「…多分。でも、結末はそれぞれ違うと思うよ」
下り坂を足元に気をつけながら歩く。スリップ防止のため、わざと凸凹にしてあるコンクリートは、足裏に確かな感触を残す。
「結末…?」
「そ、結末。いつしか気付かないうちに見なくなっている人、毎日ではないけど見続けている人、そして」
あえてそうしたのかは分からないが、和泉は間を置く。凸凹したコンクリートの坂は終わり、平坦なものになっていた。通り過ぎていく自動車のテールランプが気持ちの悪いほどに輝き、その余韻が赤い帯のように眼に焼き付いた。
「その追いかけてくるものにやられてしまう人、逆に打ち勝つ人…」
「…」
黒い猫がブロック塀の上をすばやく移動していくのが見えた。目だけが暗闇に浮かんでいるかのように、不気味に輝いていた。
「なんて、あくまで想像の話。そんな深刻な顔しないでよ、総」
和泉が僕の顔を指差して笑う。僕は、彫像になった顔面をあわてて両手でこねた。その様子を見て、和泉はさらに笑う。
「まるで、明日にでも世界が終わってしまうような顔」
「そんな顔してたかな…」
下り坂が終わって、線路の上をまたぐ陸橋を渡り、駅前通りに入る。
「和泉、参考までに聞いていいかな。和泉の場合はどうだったのか」
横断歩道で信号待ちをしながら、僕はその答えを待つ。
「私の場合は、打ち勝ったかな」
駅前ではしゃぐ若者の粗野な笑い声が、耳をよぎる。
「それはつまり、夢の中で追ってきたものを返り討ちにしたってこと?」
「そう」
横断歩道の信号が青に変わり、信号待ちをしていた人々は歩き出す。僕はテンポ遅れで歩き出した。
「そうしたら、もうそんな夢は見なくなった」
「それだけ?」
横断歩道を通過する靴音が、何重にもなって僕の耳を埋める。
「夢を見なくなった、ただそれだけ? 何か変わったことはないの?」
僕の傍らを通り過ぎたサラリーマンが僕を横目に見ていた。それだけ僕は場に不相応な声を出していた。
「変わったこと、か…」
和泉は横断歩道で立ち止まる僕を振り返る。
「総、そんなところで立ち止まっていると、車に轢かれるよ」
「あ、ああ」
点滅する青信号にせかされ、僕は足早に横断歩道を渡りきった。
「総も、ここからバスに乗るんでしょ?」
横断歩道を渡りきってすぐのバス停を指し示す。僕は話の腰を折られてしまって、どうにも切り出しにくい状態に陥っていた。
「も? …ってことは和泉もなんだ。気付かなかった」
「気付いてないのは、総だけ。私は知っていたし。総はいつも最前列で窓側。このバス停で降車するまで、ずっと窓の外ばかり眺めているから、知っていて当然の事に気付かないのよ」
「最前列から、後ろをじろじろ見るほうがおかしいだろ」
「それもそうだけど…でも」
和泉は力なくバス停のベンチに腰掛ける。
「気付いていて欲しかった、かな」
「…ごめん。俺の悪い癖なんだ。考え事したりしていると、自分だけの世界に入ったまま、周囲の情景なんて無きに等しくなってしまうんだ。猪突猛進…ではないけど、頑迷固陋というか。うまい言葉が見つからないけど、とにかく、こう、視界が狭いんだ」
僕は両手で空気を挟むように、そのときの視界を眼前に描いた。
「別に責めてるわけじゃないから、そんな風に謝られても困るな」
視線を足元に落とし、ベンチから道路際に投げ出した足をぶらぶらさせる。細くしなやかな足が行ったりきたりしている。ローファーの踵がアスファルトにあたって音を立てた。
うつむいている和泉を見ながら、僕は昔を思い出していた。
一本木の木陰で、ベンチに座った二人。日差しの強い日のこと。
「総?」
和泉と視線を合わせる。
「また、いつもの癖? 何を考えていたの?」
「僕は…あ、いや、なんでもない」
思わず、僕、と出てしまった。反射的に汗が噴き出す。和泉は、そのことに気付いたのかどうかは分からないが、しばらく僕を眺めていた。
「バス、遅いね」
大げさに背伸びをして道路の先に目を細める。もちろん、バスは姿形もなかった。諦めてため息をつくと、ポケットの中で携帯電話が震えていることに気付く。
一気に体温が冷やされていくのが分かった。僕の表情の明らかな変化から、和泉もそれを感じたのか、落ち着いた声で僕に問いかけてきた。
「どうしたの?」
「別に、ただのメールだよ」
「ただのメールなのに、そんなに顔色を変えられるものなの?」
答えに窮している自分がいる。そんな自分自身に、僕は無性に腹が立った。
僕は大きく深呼吸をする。
この方法を教えてくれたのは母だ。生の感情を生のまま吐露するとき、その言葉は刺々しいことが多い。だからその前にまず深呼吸をして、自分自身とその言葉の意味を省みる。その上で感情を吐露する。すると、鋭いとげが少しだけ丸くなっている、と母は言っていた。和泉に自分の苛立ちをぶつけることだけは、二度としてはいけない。そのための深呼吸だった。
「父親からのメールなんだ。仕事で今日は帰って来れないって」
僕は苦笑いを作ったつもりだったが、どうやら失敗していたようだ。和泉が、気まずそうに僕を見上げる。恐る恐る何かに触るようなおびえた瞳が、僕を捕まえた。
「聞いても…いいことなのかな」
僕は和泉とは反対向きにベンチに腰掛けた。眼前を自動車が通り抜けていく。
「隠すようなことではないんだ。ただ、どう話しても明るい話題ではないから」
背中を向けて会話することを選んだのは、きっと無意識の判断に違いなかった。
家族のことを告白するときの自分自身の顔は、おそらく世界で一番醜い。
払拭することのできない感情の渦が、物凄い勢いで渦巻き、僕の顔をめちゃくちゃにするはずだ。それを分かっていたから、無意識に僕の体が反応して背中を向けたのだろう。
「それでもいいよ。話してくれることなら、何でも聞きたい」
「…父親が憎いんだ」
奥歯をかみしめる自分がいた。
「ただそれだけだよ」
言えなかった。すべてを話すことがただ怖かった。怖くて仕方がなかった。
あの朝の光景が今でも記憶に鮮明に残る。
朝日に映える朝露に、すずめの合唱。純白のカーテンが微風に揺らいでいた。ガラス戸が開いているのを不思議がった僕は、カーテンをかいくぐり外に出る。庭に広がった光景は、僕が今まで見たこともない景色だった。
人が木にぶら下がっていた。
言葉では簡単に言える。が、そのときの僕はそうとしか言い表せなかった。
「そっか」
なぜ父親が憎いのかを聞かれなかったのが、せめてもの救いだった。
「そう、ただそれだけだよ」
そうした経緯を持つ僕自身が嫌だった。常に人に負い目を持ち、気軽に両親の会話をすることができなくなってしまう。他人の優しさが痛かった。
僕は自殺をした母親の子供だ。
僕自身も、いつか自殺をするかもしれない。強迫観念のようなものが、自分を苛んでくる。他人の目が怖い。他人の会話が怖い。僕の真実を告白した瞬間に、百八十度変わってしまうかもしれない他人の心が怖い。
だから、これから出会う人には話さないで生きていこう。僕はそう決めた。
「私はね。私には…父親が三人いるんだ」
声は実に明るいものだった。内容とは裏腹すぎて、僕は思わず彼女を振り返った。
「私の直接的な父親と、育ててくれた父親、そして、今の父親。どれも、私にとっては大切な人。自分でも不思議なんだ。どうしてこんな環境で生きているんだろう…もっと、普通の、父親と母親が一人だけの、いたって平穏な家庭で生きられないんだろう、って。世の中にはそんな家庭がたくさんあるのに、私だけがこんなに特殊なんだろう、って。でも、それっておかしいんだよね。自分自身が、まるで世界で一番不幸な人生をおくっているように見えているだけ。悲劇のヒロインを演じているだけ。本当は、自分が思っているほど私は不幸じゃない。そう思うことができたら、急に視界が開けてきて…。だから、自分でも不思議。うつむいて、自分には何もないって思い続けてきたのに、今はこうして前を向いている。文学部に入って、望んだ人と一緒に文学活動をすることができる。きっと、幸せなんだよね、私」
和泉が、振り返った僕と視線を共有させる。
混ざり合ったそれは、驚くほど静寂な感情を連れてきた。こうして目と目をしっかり見詰め合うことが自然に思えた。恥ずかしさなど微塵もない。
「でも、怖いんだ。夢を見なくなってから、私自身がどんどん変わっていってしまって、まるで別人のようになって、いつか私が私でなくなってしまうような…そんな気がする」
目と目を通して感じあっているから、和泉の恐怖心が切に伝わってきた。
「過去の私にできなかったことが、今では当たり前のようにできる。少し、自分が恐ろしい。まったくの別人に魂が乗り移ってしまったかのようで…。よかったことといえば、こうして総と見詰め合うことができるようになったことぐらい」
僕は急に恥ずかしくなって目を道路の先にそらしてしまった。するとちょうどこちらに向かってくるバスが見えた。
「それは…夢の中で追いかけてくるものに打ち勝ったから?」
「分からない。でも、それ以来私は…」
「私は?」
バスを真紅の信号がせき止める。夢の中で見た信号が、今まさにバスを止めているのだった。
この場所で、僕はもう一人の自分に殺されそうになった。
あの信号の上から僕を見下ろし、嘲笑した。夢の中で信号が赤から青に変わったとき、僕には死の宣告がなされた。それに抗うように、僕は今、バスをせき止めている血の色をした信号を強く見つめ、念じた。
黄色に戻れ、と。
しかし信号は無情にも青に変わり、せき止められていたバスはゆっくりと走り出した。
これが当たり前の法則。厳然たる事実。
何人にも侵されざる、現実という領域だ。
「私は――夢を見なくなった」
「夢を?」
和泉は頷く。
「全く?」
今度は少し悲しそうに頷く。
「些細な夢も見なくなった。ずっと目が覚めるまで真っ暗闇」
自分を抱きしめるように手を肩に回す。
「おかしいでしょ。こんなこと、あるはずないのに…。幸せなはずなのに、また私は自分が不幸なんじゃないかって考えるように…。自分が変わっていくのが怖い…」
「和泉…」
僕は、衝動的に和泉の頬に手を伸ばしていた。和泉は、特に嫌がる様子もなく、僕の手を受け入れた。そして、ゆっくりと瞳をまぶたの裏に隠し、強張った体の力を抜いていった。
僕が小さいころ、母はよくこうして僕の恐怖や不安、怒り、悲しみを静めてくれた。母の手は誰よりも優しく柔らかく、そして安心感に満ち満ちていた。洗剤負けした手も、僕は真綿のように感じられた。
それが、母の手だった。
それが、ぬくもり、だった。
「安心する。総の手に触れられていると」
うっとりした声で噛み締めるように和泉は言った。誰かに安心を届けてあげること。その手を持った母の気持ちが、今の僕にははっきりと理解できていた。母のぬくもりを感じることもなくなって、もう数年が経つ。そして、その数年という時間を経て、僕はやっとあの時の母の気持ちが理解できたのだった。
バスの扉が開く音で、僕たちの世界は遮断された。僕は頬に触れた手をあわてて引っ込め、和泉も勢いよく立ち上がった。
バスの整理券を取るときに、和泉は小さな声で空気を振動させた。
「もう少し遅く来て…欲しかったな」
僕は整理券をボックスから引き抜きながら、その意見に同意した。
読んでくださった方、興味を持ってくださった方、ありがとうございます。前話は短かったのに、今回は長くなるという不規則な分け方ですいません。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。