第十三話・「私の名前」
正直に言えば、辛辣な言葉を吐いた手前、どういう表情をして部室に入ったものか分からないでいた。部室を開ける僕に、彼女がどういった態度をするのか、僕の想像では追いつかい。平手打ちでもされるほうが簡潔でいいような気さえした。
部室の扉の前に立って、扉からもれる明かりにため息をついた。
その、次の瞬間だった。
「総…君?」
部室の扉が大きな音を立てて開かれた。そして、僕の額も大きな音を立てる。
僕は、苦痛に額を手で覆いその場にうずくまった。
「だ、大丈夫…?」
「なんとか、ね」
僕は涙の漏れる目じりを手の甲でこすると、安心させる目的で作り笑顔をした。
「総君、どうしてここに?」
声は訝しげだった。僕は右手で額を押さえながら、じっと彼女の顔を見た。それから、ポケットにある入部届けに左手で触れる。
「なんていうか…君付けで呼ばれるのって、逆に慣れていないからさ。この際、総でいいよ」
そう言うなり彼女の顔が華やいでいった。大量の蕾がいっせいに開花していくような光景が、目前に広がった。
「総」
明るい声で僕の名前を呼ぶ。
廊下にはエコーがかかり、僕の名前が淡く溶けていく。
「何?」
「総…総」
「だから、何?」
「…総。総…総!」
「なんなんだよ」
「篠崎総!」
自分の名前がどんな形であれ、大声で連呼されるのは気恥ずかしい。
僕は、廊下に人影がないかきょろきょろと見回した。
「俺の名前に何かあるわけ?」
「ある。今まで、呼べなかった分、溜め込んだ分、一気に呼んでみたの。総も呼んでみて私の名前。和泉恵理子、恵理子って」
脳が追憶に回転する。
授賞式で呼べなかった思い出の人の名前が、のどの奥に詰まっている。
「和泉…そんなことよりさ」
僕はポケットから入部届けを出した。ポケットに目を落としたために、そのときの和泉の顔は分からなかった。
「予備の紙ないかな。力んで書き損じた」
「え、何の紙?」
あわてて何かを取り繕う和泉の明るい声が、廊下に寂しく染み込んでいく。
「…入部届の紙」
だがそれも一瞬の出来事で、僕の入部の意向を知るや、さっきの寂しさがまるで夢だったのか、と思わせるほどの笑顔が返ってきた。
悪戯を画策する子供の顔だ。
「聞こえない。もう一回」
「文学部に入りたいから入部届が欲しいんだよ! …三度は言わない」
そっぽを向いた僕に、和泉は満面の笑みを向けた。
読んでくださった方、興味を持ってくださった方、ありがとうございます。最近映画を見ていません。見ようと思っていたら、いつの間にか上映が終わっていたということもしばしばあります。そんな作者ですが、これからも、よろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。