第十一話・「忘れられないんだ…」
僕は、夜中に目覚めてから、朝まで決して眠らなかった。
往年のホラー映画に、そのような類のものがあった気がする。
眠ると怪人が襲ってくるため、子供たちは眠らずに日々をすごす。しかし、結局は眠ってしまい、夢の中で凄惨な目に遭う。
まさに、それと同じだった。
それでも眠気は何度も襲ってきた。僕はその度ごとにカフェインを摂取し、冷水で顔を洗い、ガムを噛み、体に痛みを与え、何とか耐えた。
一日目はそれほど苦痛ではなかったが、二日目に入ると身体機能が低下し始め、津波のように眠気が押し寄せてきた。
学校で授業を聞いているときが一番つらい時間だった。まるで子守唄のような授業が続き、僕は何度も頬杖を崩した。再三の注意を受け、そのときは目が覚めるが、一時的な効果しかなく、眠りに落ちてしまう。
放課後を迎えるころには、もはや何度眠りにつきかけたか数えられないほど、睡魔に襲われ続けていた。
きっと、僕の周りを睡魔が楽しそうに踊っているはずだ。
「夜更かしも大概にしとけよ」
僕の失態を見かねた巧が声をかけてきた。珍しく心配そうにしている。
「顔色悪いぞ。何かあったのかよ。夜に寝れないほど面白いことでもあるのか?」
「いや、そういうのじゃない。むしろその逆なんだ」
僕は放課後の教室で窓に寄りかかりながら、鈍重な体を休めていた。
「誰かに追われる夢なんだ」
だるさと暑さに今にも溶けてしまいそうだった。
「誰かに追われる夢…か。いつか話したやつか」
大げさな仕草で考え込む巧に、僕はあまり気の利いた答えを期待してはいなかった。
「そういうのって、色々な所で聞くよな」
「色々な所?」
午後五時を回ったというのに構内はまだ光に包まれている。遠くからは吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。大会が近いからだろうか、本番同様の荘厳な音色が、校舎のバックグラウンドミュージックになっていた。
「噂みたいなものさ。特定の場所で聞けるんじゃなくて、話の流れとか、その場その場の弾みでそんな話をするのさ。誰が最初に話し始めたとか、そんなことなんてわからないけどな」
巧は、持ち主が帰宅した机を選んで、そこに腰掛けた。
「ただ、気にはなるよな。なぜそんな夢の話を噂しなければならないのか。追われる夢を見ると何が変わるのか、とか。火のないところに煙は立たないって言うし、その噂だって、どこかに火があって、そして、火種があるんだよ」
机に腰掛けている巧が、足をぶらぶらさせている。机が体重で苦しそうにきしむ。
「で、お前は日々そんな夢を見る、と」
「ああ」
「それで眠れない、と」
「ああ」
「何でそんなに恐れるわけ? たかが夢だろ。夢はいつか必ず覚めるんだし、深く考えることなんてないだろ?」
巧の言う通りだった。たかが悪質な夢で、僕がそんなに悩むことはない。結果的に夢は危機的な状況でもかろうじて覚めるのだし、こうして僕はいつもどおり生きている。夢の中で言われた言葉も、僕が作り出した夢の一部かもしれない。
そう考えると、今僕が不安に思っていることも無駄に思えてくる。
「そんなものかな」
「そんなものさ」
僕の肩を叩いて、笑顔をたたえる。僕は、深呼吸をすると預けていた体を起こした。
寝不足でまだ鈍重だが、巧のおかげで少しは軽くなったような気がする。
「ま、あんまり深く考えないことだな」
もう一度、巧が僕の背中を叩く。背筋がすっきりと伸びるような気がした。
「…ん。総、誰かに呼ばれてるぞ?」
「誰かって、誰だよ」
僕らは耳を澄ました。確かに遠くで僕を呼ぶ声がする。僕を大声で呼ぶような輩は、この学校には巧以外にいないはずだ。
僕たちは辺りを見回しながら声の主を探す。
「あ、あそこ」
僕は二階の教室から外に視線を移す。視線の先には校門があり、下校する生徒やランニングをするバスケット部員が校外から出たり入ったりしていた。
その校門のほぼ中央に、大手を振っている生徒がいた。
「あれって…一組の和泉恵理子だよな」
「知ってるの?」
「有名でしょ。サッカー部の有名人と双璧だからね。ちなみに彼女のニックネームはオールマイティ恵理子」
僕は吹き出してしまった。
「何だよ? そのあだ名。漫画じゃあるまいし」
「俺がつけたんだけどさ、結構浸透力あって。なかなか他の人にも通じるんだよね、これが」
「オール、マイティ…なんでもこなせる人、ね」
「嘘だと思うだろ」
「そんな人間いるわけない」
吹奏楽部の演奏が途切れる。続いて合唱部の声が静かに聞こえ始めた。吹奏楽部の演奏に隠れていたのか、まったく聞こえてこなかった。そこが、廃部寸前の部に漂う悲壮感だった。
「ところが、俺たちに見えているところは、まったくもってオールマイティなのさ。学年で三本の指に入る成績、身体能力テストでは並み居る運動部員を破っての堂々一位。おまけに最上級の美人。街中を一人で歩くと、たいてい男に声をかけられる。まさに才色兼備。ドラマとか、漫画の世界から、そのまま飛び出してきたかのような存在だね。…そうだった、総、この前勧誘されてただろ。覚えてるぞ、俺は」
「そう、だったかな」
「肯定なのか、名前なのか、紛らわしいな」
「総、かよ」
「そう、だよ」
「……」
「つまらん」
気付けば、オールマイティ恵理子が僕たちの真下にいる。腰に手を当てて、今にも怒号が聞こえてきそうだ。
「やあ」
「やあ、じゃない!」
怒号が耳にこだました。思わず僕は首をすくめた。
「気付いたのなら、手ぐらい振るべきでしょう!」
僕は、怒声を張り上げる恵理子に手を振った。
「いまさら遅いだろ」
巧が僕のほうを見て、ぼそっとつぶやく。
「今からそっち行くから!」
周囲を気にせず二階に向かって大声をあげると、玄関口のほうへ歩き出した。こちらをちらちらと窺っているのは、僕が逃げ出すのではないかという危惧からだろう。
「ところで。お前、やっぱり知り合いなんだ?」
「まぁ…ちょっと」
巧が僕の首を腕でぐいっと引き寄せる。
「ちょっと、っていうのが気になるな〜、真面目な文学青年であるはずの総君も、面食いなんだねぇ…」
夢の中で聞いたことのある言い回しだった。雅がクラスに転入してきて、見とれていた僕に対して巧が発した言葉だったはずだ。
それにしても、夢のことなのにここまで覚えているのは不思議だ。
「そういえば俺の情報網だと、彼女はただ一人の文学部だったような…。あ、そうか、そういうつながりか。とすると総、お前文学部に入ったのかよ?」
「誘われたけど、断った」
「元文学部なのに?」
「元文学部だからって、高校でも文学部に入らなくちゃいけない道理はないだろ」
「ま、それはそうだ」
つっけんどんな対応に、巧は詮索をやめたようだ。僕の不可侵領域に触れたのが分かったからだろう。
「とにかく、うらやましいのはあるな」
「そうかな」
「そうかな、ってあの容姿を見て何も思わないのかよ。彼氏として隣を歩いているところを想像してみろ。おそらく、俺だったら天にも昇る心地だね。それでもって、家に呼んで、二人きりになってみろ、狼のような心地だぞ。そしてあの体を…」
「巧、下ネタに走るな」
反射的にたしなめていた。
…が、確かに巧の言う通りなのかもしれない。
校門のところで手を振って僕の名を呼んでいた彼女を、何人の男子生徒が振り向いていたことだろう。そして、彼女の手を振る先が僕だと分かった時の、男子の舌打ちの表情のすさまじさは、筆舌に尽くしがたい。語るもおぞましいほどだ。
「それとも、総、誰か気になる人でもいるのか?」
「ど、どうしてそうなるんだよ」
「怪しいな〜、その反応…」
トンボの目でも回すかのように、指を僕の目前でくるくる回す。巧の表情はなんともいやらしい。
「言っちゃえよ、総。誰が気になるんだ?」
「いいじゃないか、そんなこと」
「じゃあヒントだけ教えてくれよ。そうだ…この高校の人?」
「…違うんじゃないかな、多分。どこの高校に行ったのか知らないから。ただ、県内の人だよ」
「年は?」
「同い年だった。…はい、ここまで」
「何だよ、水臭いな。それじゃあ全然ヒントになってないじゃん。な、もう一つだけ」
せがむ巧は、両手を合わせて拝むように目をつぶる。
「その子に出会ったのは、昔?」
「うん、一度だけなんだけど、忘れられないんだ…って」
「あ、和泉恵理子」
手を合わせたままの巧が、間の抜けた声を上げた。僕は、ついつい巧の言葉と思って即答してしまった。
「その忘れられない子っていうのは、中学校三年のときに出会った子じゃないの? 文学部員の子で、授賞式のときに一緒になった…」
「何なの、何だっていうの」
巧の視線が、僕と和泉恵理子を行きつ戻りつし、和泉恵理子は、僕ににじり寄ってくる。そのどこか鬼気迫るものに、僕は気圧されていた。
「違う、違うよ」
僕はとっさに否定した。ただ、その否定は、質問に対してではなく、確信をつかれたためにあわてて否定したものだった。
「本当に違うの?」
残念そうな声と表情が、視界いっぱいに広がる。僕は、これ以上その表情に耐えられなかった。
「ところで、何だよ。ぼ…俺を呼んでいたじゃないか」
つい、僕、と言いそうになる。
「あ…」
自分の興奮に改めて気付いたのか、にじり寄っていた体を元に戻すと意気消沈したように言葉を詮索し始めた。
「文学部への勧誘を、しようと思って」
「それは断っただろ」
「でも、入部して欲しい」
「別の奴に頼めよ」
「…そんな人いない」
「なら、色気でも何でも使って、意地でも勧誘すればいいだろ」
僕は言葉の切っ先が鋭くなっていくのを感じた。
自分でもどうしてこんなにむきになってしまうのか分からなかった。雅と話しているときのような落ち着いた気持ちにはなれない。それどころか自分でもおかしいぐらい冷徹になってしまう。
僕の今の言葉は、まるで軽蔑するような色に満ちていた。
「俺、入ってもいいよ」
「巧…」
僕は巧を驚嘆の声と眼差しで凝視した。
「和泉の望むような文学活動はできないかもしれないけど、努力はする。それに、こんな俺でも部員の人数にはなるし。もしかしたら幽霊部員になるかもしれないけどね」
巧が和泉恵理子に笑いかける。その笑顔に和泉恵理子もつられて微笑む。
「…じゃあ、書類渡しますから、部室まで来てくれますか」
「もちろん」
僕は朴念仁と化していた。この会話に入る余地が見つからなかった。それ以前にこの場にいるべきではないような気がしてきた。
「そうと決まれば、今すぐ俺の気の変わらないうちに行こう。俺、秋の空のように気が変わるからさ」
そう言いながら巧は、和泉恵理子の肩を軽く叩いた。先に教室を出る巧につられて和泉恵理子も廊下につま先を向けた。
僕は最後までその場に存在しないように無視されていた。
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