第五章節 過去、今、未来
ゆうりと出会って三日。はじめは怪しい相手でしかなかったが、約束したのに破ると言うのも気が乗らず、なんやかんやで話し続けている。その中で、色々とわかったことがある。
まず、年は十九歳。少年なんて呼んでしまっていたけど、意外なことに年上だった。本人に伝えると声が高いことを気にしているようだったので、あまり触れないでおく。私はあの声がわりと好きだったが、わざわざ伝えることでもないだろう。
次に、食べ物の好き嫌い。肉と甘いお菓子が好きで、野菜が苦手らしい。……やっぱり少年でいいかもしれない。野菜も食べられないわけではないらしいが。最近は村が経営難であまり肉が買えないらしく、畑で採れる野菜を主に食べているらしい。悲愴感が漂い過ぎて、声だけなのに耳としっぽを垂れ下がらせた大型犬の幻覚が見えた。
そして、ゆうりの作る曲の歌詞は全て外国語ということ。英語かとも思ったのだが、学校で習ったことのある単語が一つも出てこないところからして違うのだろう。出会った次の日に言葉について指摘してみたら、考えるように黙り込んでしまったので、あまり触れないようにしている。言語がどうあれ、ゆうりの歌は好きなので、聞ければそれでいいのだ。
他にも色々あるが、長くなりそうなので割愛させてもらう。こうして考えると、たかが三日されど三日。たったの三日間で私はこの声しか知らない相手と、半年近く過ごしてきたクラスメイトよりよほど仲良くなっていたらしい。いや、むしろ声しか知らないから、変に顔色を窺わなくてもいいからこそ、ここまで親しくなれたのかもしれない。
「——!——お!朝顔!」
「え?」
「え?じゃないよもー!何回呼んだと思ってんの?」
葵の言葉に、周りを見渡す。賑やかな朝の教室。どうやら考え事に夢中になるあまり、葵の挨拶に気づけなかったらしい。
「ごめん、集中してて聞こえてなかった」
「いやいいよ。むしろ楽しそうだったのに中断させちゃってごめんね」
「え……」
たのしそう……楽しそう…………楽しそう?
「誰が?」
「だれ?えーっと、朝顔楽しそうに見えたんだけど、違った?」
どうやら私は楽しそうだったらしい。ゆうりの歌は綺麗だから、思い出すうちに自然と顔が緩んでいたのかもしれない。今後は気をつけよう。一人でにやけてる変なやつになってしまう。
「朝顔?」
「あぁ、ごめん。なんにもないよ。それで、何かあったの?」
「うーん、何かあったとかではないんだけど、ここ二、三日いつもより機嫌が良さそうに見えててさ。今日はさらに楽しそうだったから、気になっちゃって。よかったら話聞かせてよ」
機嫌が良さそうということは、普段は機嫌が悪そうに見えているのだろうか。そんなつもりはないんだけど。いや、今はそんなことはどうでもいい。ここ二、三日での大きな変化というと、ゆうりと出会ったことくらいだろう。ゆうりとの出会いが、私にここまでの影響を与えているとは。
「………………ひみつ」
何かあったのか、と聞かれたら実際”何か”はあった。正直に話そうかとも思った。だけど、葵は話を聞かせてとしか言っていない。それになんとなく、特に理由なんてないけど、このことは——ゆうりとの時間は、誰かに教えたくないと思ってしまった。まぁそもそも、木の洞から声が聞こえるなんて話しても信じてもらえなかったと思うけど。
「そっか、じゃあ気が向いた時にでも教えてよ。またね」
いつのまにか朝礼の時間になっていたようでチャイムが鳴り、葵が席へと戻っていく。担任が入ってきて、ホームルームを始める。今日も私の日常は続いている。
放課後になり、帰り支度をする。リュックを背負って歩き出す。今日は珍しく葵が話しかけてこない。いや、別に話しかけて欲しいというわけじゃないけど、いつもあるのがないと落ち着かないというか。でもまぁいいか。もしかしたらこれを機に私に話しかけるのをやめるかもしれないし。そんなことを考えているうちに、駅に着く。改札を抜ける。電車に乗る。スマホを開く。家の最寄駅に着く。降りる。いつも通りの日常。改札を抜ける。ちょっと歩く。家への道からそれる。いつも通りの日常。例の公園に着く。”あの木”に向かう。いつも通りになりつつある日常。
「ゆうり、いる?」
木の洞に向かって話しかける。はたから見れば滑稽な行動だろう。でも、私は知っている。必ず返事が返ってくると。
「アサガオ、おかえり」
「ただいま。いつも待たせてごめんね」
ゆうりは毎回、私よりも先に来ている。木が家のすぐ近くにあるからと言っていたが、それはそれで誰かに見られたりしないのだろうか。
「本読んでたから、あっという間だったよ。にしても、戦記物って今まで読んだことなかったけど、結構面白いな」
「でしょ?戦闘パートの緊迫した感じはかっこいいし、日常パートの優しい感じとかは、これを守るために戦ってるんだなぁってなんかこう、穏やかな気持ちになれるし」
「あー、確かに」
この三日間で、ゆうりのことだけでなく、私のことも色々話した。本が好きなこと、本だけでなく映画や舞台、ゲームのストーリーなど、物語が好きなこと。昨日話題にしたばかりの戦記物を早速読んでくれているとは思わなかったけど。そこでふと疑問が湧いたので、口にしてみた
「ていうか、昨日話したばっかりなのに、もう買いに行けたの?ゆうりの住んでるあたりって、近くにあんまりお店がないって言ってなかったっけ」
「あぁ、買いに行ったわけじゃないんだ。さすがに遠いし。うちの村の村長が読書家でさ、家にたくさん本置いてんだけど、ちゃんと伝えて、本を大切に扱うなら自由に借りていいことになってるんだ」
「なるほど」
ゆうりの答えで納得がいく。たしか、村人同士での物の貸し借りはよくあることだと言っていた。
「他にもおすすめとかあったら教えてくんない?俺あんまり本とか読んでこなかったから、色々知りたいんだ」
「いいよ!私ももっと色々話したかったん——え、うわっ」
返事をしかけたそのとき、私の目の前を何かがすごい勢いで通り過ぎていく。そして、右肩にある何者かの気配。
「アサガオどうした?大丈夫か?」
ゆうりが心配している声がする。
「なぁ、アサガオ?」
早く返事をしないと。そう思うのに、恐怖で声が出ない。
「返事が出来ないのか?何か、音だけでも出せないか?」
ゆうりはこちらには来られない。だから助けを求める事も、今のところ無事だと安心させることもできない。はやく、早くどうにかしないと——そう思ったとき。
「ぴーぴー!」
私の耳元で、鳥の鳴き声がした。
「なんだ鳥かぁ」
一気に体から力が抜ける。見ると、小鳥が肩に止まっただけらしい。怖がって損した。
「え、鳥?どういうこと?無事なのか?」
ゆうりの戸惑う声が聞こえる。そうだ、大丈夫だと伝えないと。
「肩に小鳥が止まっただけだった。心配かけてごめんね」
「肩に、小鳥?……あーよかったぁ」
ゆうりの安心したような声が聞こえる。とても不安にさせてしまったようだ。
「心配させちゃってごめんね」
小鳥くらいでここまで心配させてしまったのが申し訳なくなり、もう一度謝る。
「いや、無事だったならそれでいいよ。にしても、ずいぶん人懐っこい鳥だな。肩に止まるなんて」
確かにと思い、小鳥の方を見る。小鳥もこちらを見る。目があう。本当に人に慣れている。もしかして、どこかで飼われていたのが脱走したとかだろうか。そんなことを思いながら小鳥を見つめ続けていると、少しづつ違和感が芽生えてくる。
「ん?」
「どうかしたのか?」
「なんかこの小鳥、普通じゃない気がして」
見た目はすずめのようなのに、羽……というより羽毛で覆われている部分全てが、鮮やかな緑色をしている。こんなに目立つ色で他の動物に狙われたりしないのだろうか。森で暮らしているとこうなるとか?それに、すずめにしては大きい。小さめの鳩と言われたほうがまだ信じられる。もろもろの違和感をゆうりに伝えると、ゆうりも不思議そうにしている。
「すずめっぽいけど緑色で、小さい鳩くらいの大きさ?……俺も別に鳥に詳しいわけじゃないけど、聞いたことはないな」
「だよね。どうしよ、どこかで飼われてたとかなら、警察とかに届け——」
「ぴー!ぴー!」
「……警察はだめなの?」
「ぴぴ」
鳴きながら首をたてに振られた。だめらしい。というかこの子賢くない?
「あなた、どこかで飼われてたりした?」
「ぴー」
今度は首を横に振られた。相当賢い小鳥らしい。じっと見つめてみる。小鳥も見つめ返してくる。
「……まぁいいか」
「なにが?」
「この子、さすがに飼うとかは無理だけど、ここにいる間肩に止めておくくらいならいいかなって」
とくに害はないだろうし。それに何かあった時にこの子が声を出してくれれば、多少はゆうりを安心させられるだろう。さっきの原因はこの子だったけど。
「なるほど。じゃ、名前でもつける?」
名前……たしかに、一緒にいるのにずっとこの子とか小鳥とかだと呼びづらいかもしれない。
「そうしようかな」
小鳥を見つめる。
「鳥さん……ぴー……スズメちゃん……うーん」
「少年(仮)聞いた時も思ったけど安直すぎない?」
「だって思い浮かばないし。それに分かりやすいほうがいいじゃん」
小鳥を見つめる。ふと、その羽の鮮やかな色に目が留まる。
「よし、決めた。君は今からみどりだ」
小鳥を見つめる。小鳥は心なしか驚いているように見えた。しかしすぐにこちらを見つめ返してくる。
「ぴぴ!」
どうやら小鳥……いやみどりのお眼鏡に適ったようだ。
「結局安直なのになった。でもスズメちゃんとかよりはましか」
「別にいいじゃん。みどりも納得してるし。ねー、みどり」
「ぴぴ」
「ほら」
「ほらって言われても」
その後はしばらく話してからいつも通り解散になった。みどりは帰る時間だと伝えると木の枝へと移ってくれた。話の途中でも相槌を打っていたし、本当に賢い子だ。私の変わることのなかった日常が、また変わった。でも不思議と不快感はなくって、むしろ心地いい。この変わった日常が、変わらない日常になってくれたら。そんな取り留めのないことを考えながら、今日も帰路につく。
「……驚いたな」
枝が揺れる。
「まさかあの名で呼ばれる日がまた来ようとは」
木々がさざめく。
「なぁ、——。」
愛おしむような音色で。
ゆうりと出会って五日、みどりとは二日。二人のことを考えながら、終礼が終わるのを待つ。今日はどんなことを話そう。どんな話が聞けるだろう。
「連絡は……よし、これで以上だな。ああそれと、もう終業式が明後日だからもう一度言っとくぞ。進路希望は始業式に提出、オープンキャンパスに行くやつは、日時や実際に行った感想などを記録に残しておくこと。わかったな」
進路希望、オープンキャンパス。その言葉が耳に入り、心が急速に冷えていく。周りでクラスメイトがざわざわと話しているが、そのどれもうまく理解できない。
「せんせーそれ十回目」
目があう。葵だ。無意識のうちに葵の方を向いていたらしい。見ないふりしていた劣等感が顔を出す。そんなはずはないのに、責められているような気分になる。
「大事なことだから何回も言ってんだよ。じゃ、号令」
「きりーつ、きをつけー、れーい」
「ありがとうごさいましたー」
みんなが立って、視界が遮られる。息をつく。いつからだろう。劣等感に苛まれるようになったのは。いつからだろう。ごまかすようにそっけない態度をとるようになったのは。いつからだろう。自己嫌悪に陥ったのは。いつからだろう。いつだったんだろう。私は、いつどこでなにを間違えたのだろう。
「朝顔?」
ああ、葵だ。きれいな、まっすぐな目でこちらを見ている。
「大丈夫?」
やめて、やめてよ。心配そうに見つめないでよ。私は心配されるほどの人間じゃないから。
「顔色悪いね。家まで送るよ」
ここ数日話しかけてこなかったのに、なんで今日話しかけてくるの?
「立てる?腕つかんでいいよ」
「いい。大丈夫だからほっといて」
思っていたよりも低い声が出た。でもそれでいいかもしれない。中途半端に関わるよりも、初めから突き放したほうがいい。
「え、ちょっと朝顔?」
荷物を適当にリュックに詰め込んで、足早に教室を出る。だんだんと脚を出す速度が上がって、自然と駆け足になる。学校の最寄駅に着く頃には、息が上がっていた。
電車に乗り、息を整えながら考える。またやってしまった。本当に嫌になる。ちょっとしたことで心をかき乱されるのも。それで関係ない相手に強く当たってしまうのも。これだから嫌なんだ、人と関わるのは。あのときもそうだった。高校入学したてのあの頃。初めのうちは、周りとも関われていた。でも受験後の燃え尽き症候群のままだんだん授業に着いて行けなくなって、よくわからないまま焦りだけが募っていった。何かしないとと思うのに、どこがわからないのかさえもわからなくって。中学の頃勉強を教えていた葵は、いつのまにか私よりも成績がよくなってて。心の余裕がなくなって、話しかけてくれた子に冷たく返しちゃって。自己嫌悪で苦しくなって、無気力になった。そしてまた誰かに冷たく当たる。やっぱり私は、人を傷つけることしかできないから。誰とも関わるべきじゃないんだ。同級生とも葵とも……ゆうりとも——
「ぴぴぴ!」
「え」
みどり?周りを見渡す。あの公園の入り口のあたり。関わるべきじゃないなんて思いながら、私の脚はここ数日の習慣に抗えなかったらしい。
「ぴぴ!ぴぴ!」
「わ、みどりちょっとまって!」
袖をくわえて引っ張られる。意外と力が強い。正直今の状態でゆうりと話したくはない。だからといって、力任せに振り解いてはみどりの綺麗なくちばしに傷がついてしまうかもしれない。うだうだと考えているうちに、怪我をさせない程度の抵抗も虚しくあの木のところに連行されてしまった。
「ぴぴ」
「お、みどりか。足音がする感じアサガオもいるかな。二人ともおかえり!」
「ぴぴ!」
「……ただいま!」
いつも通りのゆうりの挨拶に、いつも通りの返しをする。声は震えてないだろうか。明るく聞こえているだろうか。ゆうりにばれていないだろうか。不安と共にゆうりの返事を待つ。
「なぁアサガオ。見当違いだったらごめんなんだけど……なんかあった?」
息を呑む。ばれてしまったのか、いや、まだ疑問系だ。ごまかせるかもしれない。
「べつに。なんでそう思ったの?」
やばい、絶対返し間違えた。いや、変に話題を逸らすよりましだと思おう。
「不自然に声が明るかったから。なんか隠そうとしてんのかなって」
なんでわかるの?鋭すぎやしないか?いや、そんなことよりごまかさないと。
「そっか。でも、べつになんにもないよ」
「ダウト」
間髪入れずに返される。これはたぶんもう確信している。これ以上ごまかしても無駄だろう。
「なぁアサガオ。話したくないことなら、無理に話せとは言わない。でも、なにかがあったのかは教えて欲しい」
心が揺らぐ。話してもいいのだろうか。あんな、暗くて重たくて、じめじめとしたつまらない話を。失望されないだろうか。あの日、誰かを助けられる方法を散々悩んで、素敵な夢を見つけたと語ったまっすぐな彼に。
「心配くらいはさせてよ」
暖かい、そう思った。彼は、あの歌を歌っていた時から変わらない。優しくて、暖かくて、寄り添ってくれる。あの話を彼にするのは、まっさらな紙に墨を掛けるような、なんとも言い難い心地がする。でもこんなにも優しい彼なら——ゆうりなら、受け止めてくれるような気がした。
「……わかった。聞いてて面白くない話だけど、よかったら聞いてくれる?」
「もちろん」
「ぴぴ」
これまで黙っていたみどりも返事をする。きっと邪魔にならないようにしてくれていたのだろう。つくづく賢い子だ。
「二人ともありがと。それじゃあ、どこから話そうかな」
そこから私は、電車の中で考えていたような、毎朝朝礼前に考えていたような、独りよがりで自分勝手な話をした。二人は私のまとまりのない話を最後まで聞いてくれた。
「——人と関わるのはしんどいなぁって。一言でまとめると、多分たったそれだけのことなんだけどね」
「そっか。……ずっと、辛かったな」
「ぴー……」
「二人ともありがとう。でも、辛いなんていう資格、私にはないよ。誰も大切にできなくて、何も大事にできるものがなくて、ただ息をしてるだけ。今日を生きられるかわからない人がたくさんいる世界で、今日を生きたいと思える理由を探してる。そんな罰当たりな私に辛いっていう資格なんてない」
「そんなわけ——」
「そんなはずないよ!」
ゆうりが何か言いかけたそのとき、聞き慣れたよく通る声が響いた。顔を上げると、遊歩道と繋がる獣道のほうに、葵が立っていた。
「葵、なんで」
「勝手に話聞いてごめん。朝顔の様子が変だったから追いかけてたら、話しかけるタイミングを見失っちゃって。すぐに離れようと思ったんだけど——」
「それはもういいよ。聞いちゃったものは仕方ないし。それで?」
声が低くなる。でも、これはしょうがないと思う。だって全部聞かれてしまったのだ。葵への劣等感も、私の自己嫌悪も、惨めな部分を、全部。
「さっき辛いっていう資格がないって言ってたけど、資格なんていらないよ。苦しいときはいつだって助けを求めていいんだよ?」
まっすぐな瞳が私を射抜く。
「でもそれって綺麗事じゃん。助かる保証もないのに助けを求めろって?」
「一人で悩み続けるよりも、みんなで考えたほうがいい考えが浮かぶかもしれないじゃん」
綺麗な言葉が私に突き刺さる。
「そうかもね。でもそもそも、私を助けたいなんて思う人いるわけないでしょ」
「なんでそうなるの?私は——」
「ちょちょちょ、ストップストップ!アサガオもアオイさん?もヒートアップしちゃってるから!一旦落ち着いて」
ゆうりが仲裁に入る。ああ、本当にお人よしだなぁ。友達になったばかりのやつと、初対面の子の喧嘩に首突っ込むなんて。私が友達でいていいのか不安になるくらいまっすぐな人。葵だってそうだ。私なんかのためにこんなに必死になってくれる優しい子。みどりだって、さっき話していた間ずっと寄り添っていてくれた優しい小鳥さんだ。それに比べて、私は?心配してくれてる人に当たって、みっともなく感情的になって。バカみたいだなぁ。ああ、もういいかな。私は何も言わず、木々の向こうへと駆け出した。
「ぴー!」
朝顔が急に走り出し、その後ろを緑色の鳥が追っていく。私も追いかけないと。
「待って」
「え?」
「あれ、アサガオのこと追いかけようとしてると思ったんだけど、違った?」
振り返る。誰の姿もない。そういえば、さっきも朝顔しかいないのに、知らない声がしていた。誰が、どこにいるのだろう。朝顔は誰と話していたの?
「あ、俺は怪しいやつじゃないよ?アサガオの友達。木の洞越しでしか話せないけど」
きのほらごし?……意味がわからない。朝顔はこんな怪しい相手に悩みを打ち明けていたの?
「ていってもやっぱ怪しいよね。うーん、あ、そうだ。多分目の前に木があると思うから、その木の丁度いいくらいの高さにある洞に近づいて見てよ。声が近くなるはずだから」
怪しくはあるけど他にどうしようもないので、警戒しながら近づいていく。
「あー、あー。どう?声聞こえやすくなったでしょ?」
確かに近づくにつれて声が大きくなっていく。念の為洞の中を調べる。スピーカーやスマホの類もない。信じられないけど、本当に木の洞越しに話しているのかも。
「どう?しんじてくれた?」
「まぁ一応。でも、なんで追いかけるのを止めたんですか?」
「じゃあ逆に聞くけど、あのまま追いかけてたらどうなってたと思う?」
あのまま追いかけてたら……追いかけて、追いついて。話をして、それで。
「どう?また喧嘩になるところまで想像できたんじゃない?ここから離れてたら俺は止めに入れないし、そのまま喧嘩別れになるかもしれない。そしたらあの子はもうここに来なくなるかもしれない。それが嫌だから止めた。それだけだよ。みどりも着いて行ってたっぽいしね」
図星だった。あのまま追いかけても、また感情的になってしまっていただろう。そこでこの人の話に疑問を抱く。
「……止めた理由はわかりました。もう一つ聞いてもいいですか?」
この人は今、私たちが喧嘩することじゃなくて、それで朝顔が来なくなるのが嫌だと言った。この謎の人物は、朝顔とどういう関係なんだろう。
「いいよ。なんでも聞いて」
「あなたにとって、朝顔はなんなんですか。どういう存在なんですか?」
返答は、思ったより軽い調子だった。
「俺にとって?友達とかかな。ちょっとカッコつけると、大切な人、みたいな。でも、君にとってもそうなんじゃないの?」
そう問われて、改めて考える。私とあの子の関係性を。
「友達……って言っても、いいんですかね」
「俺に聞かれてもわからないけど。断言できない理由、なにかあるの?」
そう問われて、思いを馳せる。私たちの出会いに。私たちの亀裂に。始まりは突然だったのに、終わりはじわじわと、でも確実にヒビが入って行って。そんなのは嫌だと、必死に繋ぎ止める日々に。
中学一年の頃、勉強も運動も友達もできなくて、二学期に入る頃には出席より欠席の方が多くなっていた。必要な書類があるとかで週の真ん中の水曜日にわざわざ呼び出されて、なんとなく立ち寄った放課後の図書室。そこで朝顔に出会った。他に誰もいない図書室で、私が来たことにも気づかず勉強していた。衝撃だった。私には苦痛でしかない勉強に、楽しそうに取り組んでいた。今思えば、あの時の私は少しおかしかったのだと思う。しばらくまともに人と会ってなかったし、徹夜明けだったし。それでも、私がおかしかったとしても、あの出会いが私を変えた。
「ねぇ、それ楽しい?」
思わず聞いていた。
「え?だれ?」
当然の疑問だと思う。でも、当時の私はそんなことよりも自分の問いの答えが欲しくて仕方がなかった。
「いいから。それって楽しいの?」
「それ、って勉強のこと?うーん、楽しい時と楽しくない時があるけど、今は楽しいかな。この前読んだ歴史小説と、丁度同じくらいの時代だから。それに、知らないこと知るのって面白いし」
そう話した朝顔の顔は、キラキラと輝いて見えた。知らないことを知るのが面白い。それは、当時の私にはまだ理解できなかった。でも、朝顔が本当に楽しそうだったから、だからあんなお願いができたのだと思う。
「ねぇ、私に勉強教えてくれない?」
名乗る前にめんどくさいお願いをしてしまった私に、朝顔は一言
「いいよ」
とだけ言った。そうして私たちの交流は始まった。毎週水曜日の放課後、図書室での勉強会。初めの方はわからないところが多すぎて毎日に変えた週もあったけど。一回の説明では理解できなかった私に、朝顔はわかるまで根気強く教えてくれて、解けたら自分のことのように喜んだくれた。ある程度学力がついてから気づいたことだけど、朝顔の教え方は細かいところまで丁寧で、元々仲が良かったわけではない私のためにそこまでしてくれる、誠実な人柄が伝わってくるものだった。朝顔のおかげで少しづつ学力がついた私は、力試し感覚で小テストなどのある授業に参加するようになり、そこから少しづつ登校する日が増えていった。だめだめだった私が、授業についていけるようになった。このことに自信をもらい、他のことも頑張ってみた。スポーツの練習をしたり、人間関係に関する本を読んでみたり。運動はあまり上達しなかったけど、友達は何人かできた。クラス替えの時期だったのも大きいと思う。本を読んだり、新しい友達と話す時間が増えても、水曜日の放課後は朝顔との時間だった。と言っても、その頃にはもう各々自習をして、一緒に休憩をするだけだったけど。それでも私はこの時間が一番好きだった。
「朝顔何読んでんの?」
朝顔は休憩の時間によく本を読んでいた。読み進める中で表情がころころと変わるから見ていて飽きない。
「これ。ずっと追ってた恋愛もののシリーズなんだけど、新刊が出てたから」
「ああ、前言ってたやつか」
「うん。葵は?」
「ん」
本の題名を言うのが気恥ずかしくて、表紙だけ見せる。
「『職業シリーズ〜教師への道編〜』?葵、教師になりたいの?」
「まあ、まだ考えてるだけだけど」
端的に返す。朝顔に憧れて、というのは伏せたまま。朝顔に貰った知らないことを知る面白さを、多くの人に伝えたい、そんな思いも、隠したまま。
「そっか、いいね」
そう言った朝顔は穏やかで優しい表情をしていた。
二人での勉強会は受験の時期も変わらず続き、二人とも無事に第一志望校に合格できた。
「やった!高校も一緒に通えるよ」
「うん、よかった。クラス一緒だといいね」
「ね。あそうだ、勉強会どうする?卒業したら図書室使えなくなっちゃうけど」
「うーん、春休みの間は一旦お休みにして、高校の図書室のルールとかがわかった頃に再開するのは?」
「それがいいかもね」
このときのことを、今でも考えている。勉強会をやめなければ、なにかが変わったのかな。朝顔の様子に気を配っていれば、今でも仲良く過ごせていたのかな。自信を持って、私たちは友達だと言えたのかな。どれだけ悩んだところで、後の祭りだ。結局それ以降勉強会は一度もしていない。一年生はクラスが別だったなりに、休み時間に会いに行ったり、一緒に帰ったりしていた。でも、朝顔はだんだんと冷たくなって、苦しそうな顔をすることが増えて行って。中学に入りたての私を見ているようで、あの頃の朝顔のように何かをしてあげたいと思いながら、私はただ話しかけ続けることしかできなかった。
「——い。おーい!」
「え?」
意識が引き戻される。目の前に木がある。そうだ、謎の人物と話している途中だった。
「よかったまだいた。質問した後急に返事がなくなるから、怒って帰っちゃったかと思ったよ」
「そんな失礼なことしませんよ。というか、質問ってなんでしたっけ」
「えーっと、君があの子と友達だって断言できない理由。なにかあるの?言いづらいなら言わなくてもいいけど」
言ってもいいのだろうか。でも、言ったところで、朝顔との関係がなにか変わるわけでもない。だったら、別に言ってもいいか。なんとなく、誰かに聞いて欲しいような気もするし。
「深い理由はないですよ。ただ、私はあの子からたくさんのものを貰ったのに何一つ返せてないっていう、ただそれだけのことですから」
言葉にすると、その一言で終わる。たったそれだけのことなのに、私には解決する術がない。その事実が心に重くのしかかってくる。
「ふーん。それじゃあさ、協力しない?」
「は?」
協力……何に?何がそれじゃあなの?
「君はあの子を助けたいんでしょ?俺も助けたい。目的は一緒だし、協力した方がいいと思わない?」
確かに、同じ目的なら、協力した方がいいかもしれない。でも、この人は本当にあの子を助けたいと思っているのだろうか。
「その前に、質問していいですか」
わからないことは素直に聞く。そういえば、これも朝顔が教えてくれた勉強のコツだった。
「いいよ。なに?」
「あなたはなんであの子を助けたいんですか」
「俺も君と似たようなもんだよ?俺が思い詰めてたときに、話を聞いてくれた。初対面だったのに。だから今度は俺が力になりたいだけ」
その声は。言葉は。あの子が大切だと語りかけてくるようで。暖かな情感がこもっていて。この人は信頼できる。そう思わせる何かがあった。
「わかりました。協力しましょう」
「おっけー、交渉成立ね。あそうだ、ずっと思ってたけど、敬語じゃなくていいよ」
「わかった。それで、何か考えでもあるの?」
協力を持ちかけてきたということは、何か作戦のようなものがあるのかもしれない。
「うーんと、考えって程のものでもないけど、一旦聞いてくれる?」
「うん」
一年くらいの間なにもできなかった身としては、出来ることがあるならなんでもしたい。そんな思いを込めてうなずく。
「まず大前提として、俺たちに出来ることは多くない。それはわかる?」
「うん」
この一年で、何度も実感してきたこと。それはやっぱり変わらないらしい。
「で、ここからはあくまでも俺の考えとしてあの子の苦しみについて考えてみたんだけど、一番根本的な問題は、あの子が——アサガオが、救われることを望んでないことかなって思うんだ」
救われることを望んでない。頭の中で繰り返す。それでもよくわからない。
「それって、どういうこと?」
「えっと、なんて言えばいいのかな。あの子の悩みって、最初は多分シンプルなものだったじゃん?勉強のやる気が出ない、授業についていけないっていう」
「そうだね」
「でも、そこに焦りで人に冷たくしてしまったっていうのが加わった。そしたら優しいあの子はどうなると思う?」
「……冷たくした相手に対して罪悪感をもつ?」
「そ。自分だけの問題だったのに、人に当たってしまったって。で、罪悪感って下手に赦そうとするよりも、自分を責め続けてたほうが楽みたいなところあるじゃん?」
「まぁたしかに」
「だからあの子は、こう思ってるんじゃないかな。『私のせいで、何も悪くない人を傷つけてしまった。勉強もできないし、他に打ち込めることもない、誰かを傷つけることしかできない私が、救われていいはずがない』って——」
「そんなわけない!」
大きな声が出る。でも、これが予想でしかないとしても、あの子にそんなことを思って欲しくなかった。
「うん、俺もそんなわけないって思う。でも多分、この考えは当たらずも遠からずって感じだと思うよ。さっきも辛いって思う資格がないなんて言ってたし」
受け入れたくない。受け入れたくはないけど、納得して、先に進まないといけない。あの子は今この瞬間も、苦しんでるだろうから。
「そこまではわかった。でも、救われたくないって思ってるあの子を、どうやって助けるの?」
「問題はそこなんだよね。今のところの考えでは、俺たちがアサガオに救われたっていうことを伝えて、これ以上苦しまなくてもいいんだよって、自分で自分を赦せるようにすることだと思うんだけど……」
「けど?」
「そうしたら多分、あの子は苦しみの原因と……過去の自分と向き合わないといけなくなる。そもそも救いたいっていうのだって俺たちのエゴで、あの子の意思じゃない。それなのに、あの子に今以上の苦しみを味わせるかもしれない。そんなリスクがあっても、君はあの子に伝えたいって思う?『君に救われた』って」
考える。朝顔がこれ以上苦しんでもいいかと言われたら、そんなはずはない。でも、元気になってもらうにはそれが必要で。目を閉じる。これまで朝顔と過ごした日々が浮かんでは消えていく。そして最後に映ったのは、あの夕暮れ時の図書室で見た、キラキラとした笑顔だった。
「それでも私は、あの子に元気になって欲しい。だから伝えるよ。私は朝顔に救われたんだって」
「そっか。じゃ、決まりだね。俺もあの子には笑顔でいて欲しいから」
「声しか聞こえないのに?」
「声しか聞こえないからだよ」
それは、心の底から愛おしむような声だった。
「ふーん」
「なに?」
「べっつにー?」
その後私たちは、細かい計画を詰めていった。
「明日はあの子にここにくるよう伝えたほうがいい?」
「いや、大丈夫」
「でも、来ないかもしれないんじゃ……」
「きっと来るよ。優しいから、あの子。俺に別れも告げずに来なくなるなんてことは、多分しない」
確信を持っているような響きに、これ以上は野暮だなと口を閉じる。この二人にはこの二人の、積み重ねた時間があるのだろう。あの子が優しいのは本当のことだし。
「わかった。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
明日、あの子に伝えよう。あなたに救われたって。あなたが大切だって。これまで伝えられなかった分も、全部
「はぁ」
おもわずため息がこぼれる。昨日は結局走り去ったまま、みどりの静止も聞かずに家に帰ってしまった。ゆうりは怒っていないだろうか。いや、あのくらいで怒るような人じゃないとわかってはいるけど。それに、葵に関しても。朝学校に来てから終礼中の今まで、まったく話しかけてこなかった。やっぱり、呆れられたのかな。当然か。葵は心配してくれてただけなのに、あんな態度をとっちゃったし。
「明日は終業式だから、ロッカーと引き出しの中空にして帰れよ。じゃ、号令」
「きりーつ、きをつけー、れーい」
「ありがとうございましたー」
考え事をしているうちに、先生の話は終わっていたようだ。どうしよう、あの木のところに行くのは気が重い。でも、何も言わずに行かなくなるのもなぁ。そんなことを考えながらちらりと葵の席の方を見るが、もう姿はない。珍しく友達と話すことなくすぐに帰ったらしい。帰り道で鉢合わせるのも嫌だし、ゆっくりと帰ろう。行くか行かないかは帰りながら考えればいいし。
木々が揺れる音が聞こえる。初夏の日差しに照らされた葉が青々と茂っている。悩みながらも、結局公園の入り口まで来てしまった。
「ぴぴ」
「みどり。昨日はごめんね、無視して帰っちゃって」
「ぴー」
きにするな、と言うふうに肩に乗って頬に擦り寄ってくる。
「昨日のこと謝りたいんだけど、ゆうりってもう来てた?」
「ぴぴ」
どうやら来ているらしい。肩にみどりを乗せたまま話しながら、いつもの木の方へ向かう。木に近づくと、人影が見えてくる。…………人影?おかしい、そんなはずはない。あの後ろ姿は。バレてないうちに急いで踵を返そうとする……が。
「ぴぴ!」
「ちょっみどり!」
仕方ない、ここはもう走るしかない。そう思って走り出そうとしたとき。
「待って!」
葵に腕を掴まれる。一歩遅かった。振り払って怪我をさせるわけにもいかず、おとなしく立ち止まる。
「昨日のこと、謝りたいと思って。ごめん。盗み聞きした上に、自分の考え押し付けようとして」
そう言って葵は、深く頭を下げた。葵は悪くないのに、謝らせてしまった。早く返事をしないと。
「いや、私のほうこそごめん。感情的になっちゃって」
私の言葉を聞いて頭を上げた葵は、何かをためらうように目線を彷徨わせた。
「それから、その」
普段わりとはっきりものを言う葵にしては珍しく、何かを言い淀んでいる。
「どうしたの?」
「私とあの木の人から、言いたいことがあって」
あの木の人……おそらくゆうりのことだろう。葵とゆうりから、私に言いたいこと?疑問を抱きつつも、手を引かれるままいつもの木の下に向かう。
「おかえり、アサガオ」
「……ただいま」
こんな状況でもいつも通りの挨拶をしてくるゆうりに、戸惑うような安心するような不思議な感覚になる。
「それで、話って?」
何を言われるのか。そんな恐怖をひた隠しにしながら、平静を装って尋ねる。
「そんなに警戒しなくても、獲って食ったりしないよ。まぁとりあえず、アオイさんからどうぞ」
ゆうりの言葉を受けて、葵の足元をじっと見つめる。目を合わせる勇気はない。
「私は、朝顔がいたから今の学校に通えてる」
突然の言葉に、パッと顔を上げる。
「急になに?」
「学校だけじゃない。教師になりたいって夢も、人と関わる勇気も、朝顔がいたから手に入れられた。」
「は?」
そこから葵は、思い出を話しながら私のことを褒めちぎった。勉強を教えていた頃のことや、おすすめの本を教えた時のことなど、よくそんなこと覚えていたなっていうレベルで。
「わかった、わかったって。恥ずかしいからもうやめて。」
「まだまだ話し足りないんだけど……じゃあ、最後にこれだけ言わせて」
だいぶ早口だった葵の口調が、落ち着きのあるものに変わる。
「なに?」
「人を傷つけることしかできない、なんて言わないで。朝顔に救われた人が一人、ここにいるんだから」
「それは……」
葵の言葉に、心が揺れる。さっき褒めちぎっていた時、嘘を言っているようには見えなかった。私にも、人を傷つける以外のことができるのかもしれない。——ほんとうに?本当にできると思う?葵はちょっと盲目的になってるだけかもよ?友達だった子達のあの表情を忘れたの?……ネガティブな自分からの問いかけに、何も反論できない。やっぱり、私は……
「葵さんの気持ちは伝えられたっぽいし、今度は俺の気持ち、伝えてもいい?」
考え込んでいると、ゆうりから話していいか聞かれる。どうしよう。葵と違って出会って日が浅い分、何を言われるかまったく見当がつかない。
「無言は肯定ってことで、話すよ?俺はねー、アサガオが話聞いてくれたから、夢ともう一度向き合えた」
迷っているうちに、話し始めてしまった。でも、どういうことだろう。
「出会った日のことなら、話聞いただけで何にもしてないよ」
「それがすごいんだよ。初対面の、しかも木から声だけが聞こえてくるだけの怪しいやつの話なんて、普通聞きたくないだろ?」
そう言われて、考える。確かに私も、ゆうりと話す前にあの歌を聞いていなかったら、謎の声が聞こえた時点で逃げていたかもしれない。
「村だともっとちゃんとした仕事につけ!って言われるばっかりだし、ルカはルカで大変そうだから相談できないしで、もうやめようかなって思ってたんだ」
あのときのゆうりが追い詰められていたのは知っていたけど、まさかそこまでだったとは。あの日話を聞いていて本当によかった。
「でも、アサガオが俺の話を否定せずに、最後まで聞いてくれたからさ、俺は歌が好きだって思い出せて、ごちゃごちゃ考えすぎだったってわかったんだ」
あの歌を歌うときのような優しい声で言う。
「俺は……いや、俺も。アサガオに救われたんだ。アサガオは、人を大切にできる、優しい人だよ。ね、もう自分を責めるのはもう十分でしょ?そろそろ赦してあげようよ」
いいんだろうか。赦しても。焦りとか、劣等感とか、そういうくだらない感情で人を傷つけてしまった私を。いや、いいはずがない。私なんかが、赦されていいはずが。
「でもやっぱり——」
「でももだってもない!」
「うわっ」
言いかけたそのとき、葵が私のほっぺたをガッと掴んで目を合わせてきた。
「ちょっとアオイさん!?今アサガオ何か言いかけてなかった?」
「うるさいっ!とにかく、朝顔は考えすぎなの!だいたい誰も傷つけずに生きられる人なんていないって」
「状況はわからないけど、俺もアオイさんの意見に賛成かな。現にさっきうるさいって言われて傷ついちゃったし」
「それはごめん」
「いいよん」
「なにそれ」
「ふ、ふふ、あっはは!」
二人の会話に、思わず笑う。
「あ、笑った!朝顔が笑った!」
「え、まじで?」
「ははっ……はー。二人とも、ありがとう。私、少し考えすぎてたかも」
「そうそう、そこまで考えなくても、さっきみたいにごめんね、いいよでいいんだから」
「少しって言うか、だいぶ考えてたけどね」
「まあ、細かいことはいいじゃん。アサガオが元気になれたならさ」
「それもそうか」
「……葵」
「ん?なに?」
二人のおかげで、過去の自分を赦せた。ここからは、自分でケジメをつけないと。
「ずっと、冷たい態度をとって、ごめんなさい。もしかしたらまた、余裕がなくなって酷いこと言っちゃうかもしれないけど……葵さえ良ければ、これからまた仲良くして欲しい、です」
頭を下げて、返事を待つ。心臓の音がいつもよりはっきり聞こえる気がする。
「もちろん!」
「うわ」
返事と共に、葵が私に抱きついてくる。
「私こそなにもできなくてごめんね?これからもよろしく!」
「うん」
葵には、一年位ずっと心配させてしまった。その感謝と謝罪を込めて、ぎゅっと抱きしめ返す。これからまた、仲良くできたらいいな。ちゃんと、大切にしていきたいな。
「やっぱり、仲がいいのがいちばんだよな」
「……なんか木の人じじくさい」
「え、どのへんが?っていうかそろそろ木の人よびやめない?」
「じじくさいと言うかなんだろ。校長先生が言ってそう」
「呼び名についてはスルー?」
「ははっ」
大切な二人が、仲良くなっている。その事実に、心が暖かくなる。
——ズキっ
「?」
なんだろう。少しだけ、ほんの少しだけ、胸が痛んだような気がした。
「仲良きことは、美しきかな」
枝が揺れる。
「この平穏が、続けばよいのだが」
木々がさざめく。
「……人の子らに、どうか幸せを」
愛おしむような音色で。
葵と仲直りができた日から二週間。夏休みに入ってからも、私たちの交流は変わらず続いていた。変わったことといえば——
「朝顔、木の人、みどり、おはよー」
「ぴぴ」
「葵おはよう」
毎週水曜日、葵がここに来て、一緒に勉強するようになった。昔とは反対で、私が教わる側だけど。
「おはよ、アオイさん。相変わらず木の人呼びなのな」
葵はゆうりをずっと木の人と呼んでいる。水曜日以外にも来ていいと言っているのに頑なに来ないし。もしかしてゆうりのことが苦手なんだろうか。
「朝顔、またなんか考えすぎてない?」
どうやら顔が強張ってしまっていたらしい。顔を覗き込まれる。心配をかけたくはないが、憶測でものを言うのもよくないだろう。何か誤魔化せるものはないかと地面に置いている教材に目を向ける。すると、丁度最近の悩みの種が目につく。
「えっと、進路について悩んでて」
「ぴぴぴ?」
「進路……あぁそっか、進路希望の提出って夏休み明けか」
「うん。なりたいものすらないのに、大学とか学部とか決められなくって」
「うーんそれはむずいよねー」
「ぴー……」
みんなが考えるように黙り込んでしまった。そこでふと、気になったことを口にしてみる。
「葵は今も教師?」
「うん、そのつもり」
「ゆうりはシンガーソングライターだったよね」
「え?うん」
二人とも、夢を持っている。なりたいものがある。私は、どうすればいいんだろう。
「なりたいものとか、やりたいことって、どうやって見つけたらいいんだろうね」
「うーん、そこまで難しく考えなくてもいいんじゃない?」
ゆうりにそう言われるが、よくわからない。
「どういうこと?」
「俺だって、きっかけは歌が好きなことだったからさ。アサガオも好きなこととか、ちょっとやってみたいこととか、最初はそんなんでいいんじゃない」
「たまにはいいこと言うじゃん」
「ぴぴ」
「たまには余計だっての。ってかみどりもそう思ってんの?ショック〜」
「でもま、私も木の人に賛成かな。なんかこう、ふわっとだけでもない?そういうの」
好きなこと。やってみたいこと。そう言われたら、思いつくものが一つずつあった。
「好きなことは読書で、やってみたいことは……人助け、かな」
「「人助け?」」
二人の声が重なる。確かに、これだけ聞いてもよくわからないだろう。
「私が悩んでたのを、二人が解決してくれたでしょ?それで、私も、苦しんでいる誰かの助けになれたらなって思って」
「朝顔らしいね」
「うん、すごくいいと思う」
「ぴぴ」
「ありがと。でも、読書と人助けだと、両方は難しいよね」
「わかんないよ?何かあるかも」
「とりあえず、考えてみよ。三人よれば文殊の知恵とか言うし」
「三人と一羽だけどな」
「ぴぴ」
読書と、人助け。読書だけなら、本屋さんとか図書館の司書さんとかが思いつくけど、人助けとなるとイメージが湧かない。みんなで黙って考えていると、ゆうりが口を開いた。
「関係ないかもしれないけどさ、俺がなりたいものについて考えてた最初の頃と似てるな、人助けって」
出会った日のゆうりの話を思い出す。幼馴染が怪我させられて、何かできるものはないかって悩んで、それで——
「うん、全然関係ないね」
「ぴぴ」
「だから関係ないかもっつったじゃん!」
三人が何か話しているが、耳に入らない。歌、世界は変えられなくても、人助け、伝える。頭の中を、たくさんの言葉が急速で流れていく。言葉、読書、思い、小説——
「二人とも俺の扱いひどくない?そろそろ泣いちゃ——」
「それだ!」
「え、え?なに?アサガオまで俺のこと雑に扱うの?」
「え、なんのこと?」
話を聞いていなかったせいで、よくわからない。困っていると、葵が質問してきた。
「それだって、なに?なんか思いついたの?」
「ぴぴ?」
二人に見つめられて、思いついた興奮そのままに話しだす。
「さっき、人助けをしたいって言うのがゆうりと似てるって話したでしょ?」
「うん」
「それで、ゆうりは歌で思いを伝えるって言ってたけど、私は文字で——小説で、思いを伝えて、誰かの助けになれないかなって」
みんなの反応を伺う。思いついたそのままを話してしまったけど、少し幼稚かっただろうか。
「小説家、てこと?」
葵が問いかけてくる。
「そうなるかな」
「いいじゃん、すっごくいい!朝顔にぴったりだよ」
「ぴぴ!」
二人にそう言われて、ほっとする。しかし、ゆうりからの反応がずっとないのが気になった。ゆうりの考えのパクリのようで、不快にさせてしまっただろうか。
「木の人もなんか言ったら?まさか、反対とかしないよね」
葵がゆうりに対して圧をかけ始めたので止めようとしたが、その前に返事が返ってきた。
「いや、反対なんてしないよ。アサガオならきっと素敵な小説家になれると思うし。ただ、その……」
言葉の続きをじっと待つ。ゆうりは、何を思ったのだろう。
「俺の話が、アサガオの助けになれたっていう喜びを噛み締めてて」
それを聞いた瞬間、なぜか胸が熱くなる。体温が、心拍数が、上がっていく。ゆうりが喜んでくれた。ただそれだけのことで、私も嬉しいような気持ちになる。
「木の人、なんかちょっと気持ち悪いよ?」
「ぴぴ」
「だから二人とも俺への当たり強いって!」
「ふふふ、あっはは!」
「ちょ、アサガオまで笑うなって!」
心が幸せで満ちていく。大切な人たちと、楽しい時間を過ごせる。こんな幸せが、ずっと続けばいいのに。
——このときの私は、浮かれる心のまま、そんなことを願っていた。幸せの脆さも知らずに。




