16. 馬車の中で
「若様、そろそろ時間です。馬車にお戻りください。」
少年が走り去るのを見届けると、直ぐにロキシード様の従者が静かに近づき、そう耳打ちをした。
いつの間にか私たちが許可された外出時間は過ぎていたのだ。
「そうか、もうそんな時間か。……アディ、名残惜しいけれどもそろそろ帰らなくてはいけないみたいだ。家まで送るよ。」
「……ありがとうございます」
ロキシード様はすっかりいつもの感じに戻っていて、従者から自由な時間の終わりを告げられると、柔らかい笑みを浮かべて私に手を差し伸べた。
あんな出来事があったというのに、彼は普段の様子と全く変わらなかった。
――対して私は、全然駄目だった。
あの少年の向けた憎悪の眼差しが胸に刺さったままで、心はまだざわついていた。
けれども私はこれでも淑女教育を受けている令嬢だ。動揺を悟られまいと重たい気持ちを必死に押し隠し、平然を装って差し出されたロキシード様の手を取った。
(そうよ……淑女なら、これくらいの事で動揺してはいけないわ)
私は努めていつも通りにっこり笑った。
これなら誰にも不安を悟られない。そう思っていた。
なのに――。
「アディ、大丈夫?」
ロキシード様は、私の手を包み込みながら、心配そうに覗き込んできたのだ。
まるで、私の心の揺れをすべて見透かしているかのようだった。
「えっ?、だ……大丈夫ですわ!」
「そう?手が冷たいままだし、無理しなくてもいいんだよ。」
「お……お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですわ!」
咄嗟に私は強がって、なんでもないフリをしてしまったが、言葉とは裏腹に、私は無意識にロキシード様の手をぎゅっと強く握っていた。
口では大丈夫だと言っていても、こんなに強く握ってしまっては、動揺が伝わらないはずがない。
けれどロキシード様は、それ以上何も言わなかった。
その沈黙が、優しさそのものに感じられて、私は少しだけホッとしていた。
「帰ろうか、アディ」
「……はい」
ロキシード様は、私の手を優しく引きながら、馬車の停めてある場所へと歩いた。
その間、私は何も話せなかった。
本来なら王太子殿下との交流が目的なのだから、何か話題を振るべきなのに――
胸の奥がまだざわついていて、言葉がうまく出てこなかったのだ。
私が黙っていると、ロキシード様も黙って歩いた。
来た時とはまるで正反対で、私たちは静かに、ゆっくりと馬車へ向かった。
***
「……あの、ロキシード様。私の対応は間違っていたのでしょうか?」
帰りの馬車の中。私は向かいに座るロキシード様に思い切って問いかけた。
あの少年に向けられた強い敵意がどうしても自分の中で消化出来なくて、聡明なロキシード様なら、私の行動が正しかったかどうか、答えをくれるのではないか――そう思ったのだ。
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「どれのことについて?」
「どれって……っえ?!私そんな何個も間違えてたんですか?!」
「……うん、良いね。やっぱりアディはそうでなくっちゃ。うん。気にしなくていいよ。」
そう言ってロキシード様は楽しそうに笑ったが、私は全く腑に落ちなかった。
一体、私が何をそんなに間違えたというのか。
釈然としなかったが、私は気を取り直してもう一度尋ねた。
「そうじゃなくてですね、私があの少年を庇ったのは、正しかったのでしょうか?」
私が真面目にもう一度質問をすると、今度はロキシード様も真剣な表情になり、丁寧に答えてくれたのだった。
「それは難しい質問だね。司法の観点で言えば、正しくなかったと思うよ。けれども、人道的には間違ってなかったんじゃないかな。」
その言葉に、私は少しだけ救われた気持ちになった。
けれど――それならどうして、あの子はあんなに怒っていたのだろうか。いよいよ分からなくなってしまった。
「でもロキシード様、あの子とても怒っていましたわ。」
「あの子が怒っていたのは、アディに対してじゃないよ。あれは、王侯貴族……というより金持ち全般に向けた感情だよ」
「そんな……」
そんな感情をこちらにぶつけてくるのは、何とも理不尽ではないか。
そんなことを言いたかったけれども、私は上手く言葉に表せずに口籠った。
すると、ロキシード様はそんな私の目を真っ直ぐに見ながら静かに問いかけたのだった。
「……アディは、あの少年に怒りをぶつけられて怖かった?」
「そ……れは……」
先ほど“大丈夫”と言ってしまった手前、今さら怖かったとは言いづらかった。
けれど、ロキシード様の声はずっと優しく、私を気遣ってくれていて――
その想いに触れて、私は強がるのをやめた。
「……正直に言うと、怖かった……です。」
私は、正直に話した。
生まれて初めて他者から露骨に憎悪をぶつけられて、率直に言って怖かったし、それを平気なフリするのも辛かったのだ。
膝の上で手をぎゅっと握りしめながら、私は胸の内を素直に打ち明けた。
するとロキシード様は、普段は見せたことのない表情で、静かに謝罪の言葉を口にしたのだった。




