15. 少年の怒り
ロキシード様の命令を受け、少年を押さえていた護衛は手を放したが、自由になったはずの少年は、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。
解放されたという実感が追いつかず、ただ呆然と目を泳がせているのだ。
そんな少年に向けて、ロキシード様はすっと手を差し伸べ、にっこりと微笑んだ。
「ほら、君。アディの巾着を拾ってくれてありがとう。こちらで受け取るよ」
その笑顔は、どんな相手にも変わらず向けられる“王子様の微笑み”だった。
つい先ほどまでの鋭い眼光も、冷たい声音も跡形もなく、完璧なロキシード様へと戻っている。
――切り替えの早さに、私は思わず戸惑ってしまった。
上に立つ者として必要な資質だと頭では分かっている。
けれど、あまりにも自然に、あまりにも滑らかに表情を変えるその姿に戸惑って、私は複雑な顔でロキシード様を見つめた。
そして――私以上に複雑な顔をしているのは、ほかでもない少年だった。
警戒と困惑と恐怖が入り混じった瞳で、ロキシード様をじっと見つめている。
「さぁ、巾着をこちらに渡して」
柔らかな笑みを浮かべたまま差し出される右手。
けれど少年は、まるで罠を疑う小動物のように身を固くしていた。
その戸惑いは、傍から見ても痛いほど伝わってくる。
「あ……貴方、ここは逆らわずに巾着を渡した方が身の為ですわよ」
どうしていいか分からず固まっている少年があまりにも不憫で、私は思わず助言を口にしていた。
その一言が背中を押したのか、少年はしばらく眉を寄せて考え――
そして、不服そうに顔を歪めながら、巾着を乱暴に叩き返した。
「これでいいんだろっ!!」
睨みつけるように吐き捨てる少年。
だけれどもロキシード様は、まるで気にも留めていないように穏やかな笑みを崩さず、叩きつけられた巾着を受け取った。
そして今度は私の方へ向き直り、丁寧に一言添える。
「ごめんね、アディ。中を開けるよ」
「え? えぇ、どうぞ?」
突然の問いかけにびっくりしたし、ロキシード様の意図は分からなかったが、見られて困るものは入っていないので、私は素直に頷いた。
「な、なんだよ! 何も盗ってねぇよ!! 疑ってんのかよ!!」
「疑ってなんかいないよ」
少年の荒い声を軽く受け流しながら、ロキシード様は巾着の中を探り――さっき買った乾燥チェリーを半分と、数枚の銅貨を取り出すと、それらを少年の手にそっと乗せたのだった。
「ほら、拾った人へのお礼だよ。礼儀だからね」
ロキシード様は柔らかな微笑みで慈悲を与えた。
けれども少年は、まるで理解が追いつかないといった顔で固まってしまった。
「……どうして……」
少年は震える声で呟き、私とロキシード様の顔を交互に見比べる。
無理もない。捕まると思っていたはずが、まさか“お礼”を渡される展開になるなんて、想像すらしていなかっただろう。
「どうして、か……そうだね。どうして彼を許したんだい?」
ロキシード様は、少年の疑問をそのまま私へと投げかけた。彼が少年を罪人にしなかったのは、私が願ったからで、その理由を私に問うのは当然だった。
突然の質問に少し驚きつつも、私は素直に自分の心を答えた。
「どうしてって……鞭で打たれるなんて可哀想だから。それに、妹さんがいるのに離れ離れになるのも、かわいそうだと思ったの」
「だ、そうだよ」
ロキシード様がにこやかに私の言葉を少年へと伝える。
けれども少年は、その言葉に感謝するでもなく、むしろ顔を歪めたのだった。
「……なんだよ、金持ちが気まぐれで同情かよ……」
吐き捨てるような声。
その瞳には、はっきりとした怒りと憎しみが宿っていた。
こんなにもあからさまな敵意を向けられたのは初めてで、私は言葉を失ってしまった。
けれどロキシード様は、怯むことなく静かに言葉を重ねる。
「そうだね。でも、その気まぐれのおかげで君は助かったのだから、彼女に感謝するんだね」
しかし、その言葉も少年の心には届かなかった。
「感謝なんかしねーよ!大体、俺たちがこんな暮らしなのは金持ちのせいなんだからな!!金持ちばっか良い暮らししやがって!!むしろお前たち金持ちが、俺らに感謝しろよっ!!!」
少年は怒りをぶつけるように叫び、悔しげに顔を歪めると、そのまま背を向け、全力で駆け出していったのだった。
私は、走り去る背中に何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
そんな中、私の横でロキシード様が小さく呟いた声が聞こえた。
「……ごめんね」
その声は、風に溶けてしまいそうなほど小さくて、きっと私にしか聞こえていない。
(ロキシード様……どうして謝るの……?)
王族が平民に謝るなんて、本来あり得ないことだ。
だからこそ、その一言の意味が分からず、胸の奥がざわついた。
私は横目でロキシード様を盗み見る。
彼の横顔は、どこか悲しげで……その理由を知りたいと思ったけれど、聞く勇気は出なかった。
私は、殿下と二人で遠ざかっていく少年の背中を黙って見送った。




