大地
かつて、苗という少女がいた。
苗は家族でもあり、恋人でもあった異形の怪物と、共に生きた。
やがてその正体を知り、愛する怪物を自らの手で浄化した。
命を削り、毒を花へと変える力を持つ少女。
__だが、あの頃の少女はもう、どこにもいない。
苗は、小さな神として、旅立つ。
「…先生、わたし、もういくね……。」
苗は一輪だけ大きく咲いた花にそう言い残し、背を向けた。
初めて見た大きな世界は、まだ毒の霧に覆われていた。
山は崩れ、森は黒く爛れ、川は一滴の水もない。命の気配はほとんど失われている。時折動くものがあるとしても、それはすでに人でも獣でもなく、毒と一体となった歪な影にすぎなかった。
苗は歩いていた。
腐敗しかけた足を包帯で覆いながら、一歩ごとに花を咲かせる。白銀の花は、大地にぽつぽつと散るように咲いた。やがて霧をわずかに払い、色を取り戻した土を見せるが、その花の周囲に寄り添う生き物はなかった。花はただ、風のない空気の中に静かに揺れているだけだった。
食べ物はない。水もない。けれど苗の体は不思議と動いていた。華の心臓が胸の奥で脈を打ち、歩む力を与えていた。かつて人であった頃の感覚は薄れ、眠気も空腹も、次第に遠いものになりつつあった。
彼女は大地の声を聞く。
声は断片のように途切れ途切れで、彼女の耳に届く。呻き、嘆き、忘れられた命の記憶。ときに意味をなさぬざわめき。それらを聞きながら、苗は歩みを止めない。
街の跡を通ることもあった。崩れ落ちた石壁の陰に、人の形を模した骸がいくつも残っている。かつてここに暮らしたであろう人間のことを、苗は想像しようとはしなかった。苗は自分以外の人間を知らない。それにもう、すでに世界に人間はいない。
花を咲かせても、それを見てくれる者は誰もいなかった。
時の感覚は曖昧だった。
昼と夜の区別は霧の向こうで消え失せ、苗の旅は永遠に続くもののように思われた。足取りは重くとも、彼女は進み続ける。
かつて人間だった頃の自分を思い出すことはない。ただ、歩く。
毒を浄化し、花を咲かせ、また歩く。
そして__
気づけば、泥沼の上に築かれた街の前にいた。
街はこの終焉の世界とは無縁とばかりに、賑わっていた。
苗は黙って、その街を見つめていた。