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死に水  作者: 月影 朔
第二章:呪いの発現

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第九話:迫りくる死期

 深夜のファミリーレストランの記憶は、現実感を失い、まるで悪夢の一場面のように脳裏にこびりついていた。


 どうやってあの店を出て、どうやって家に帰り着いたのか、恵の記憶は曖昧だった。


 ただ、健太の腕に浮かび上がった、あの不気味な青い水痕の感触だけが、幻覚ではない確かな現実として、指先に残っている。


 結局、その夜は一睡もできなかった。


 ベッドに横になっても、心臓が激しく波打ち、全身の神経が逆立っているのがわかる。目を閉じれば、呪いの詳細を語る匿名の書き込みと、絶望に歪む健太の顔が交互に浮かび上がった。


 夜が明けるのを待って、恵は健太のアパートへ向かった。


 昨夜、彼が口走った「嘘だと言ってくれ」という懇願が、耳から離れなかったのだ。一人でいさせてはいけない。そんな、ほとんど強迫観念に近い思いに突き動かされていた。


 呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、重い足音と共にドアが開いた。


「……恵か」

 そこに立っていた健太の姿を見て、恵は息を呑んだ。


 たった一晩で、彼は別人のようにやつれていた。

目の下には隈が深く刻まれ、頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。生気のない虚ろな目で恵を見ると、よろめくようにして部屋の中へと戻っていった。


 部屋の中は、荒れ果てていた。


 テーブルの上には飲み干されたペットボトルが無数に転がり、コンビニの弁当の容器がそのまま放置されている。空気が淀み、吐き気を催すような、濃密な絶望の匂いが満ちていた。


「……喉が、渇いて仕方ないんだ」


 健太は、キッチンで新しいペットボトルのキャップを震える手で開けながら、うわごとのように呟いた。


 そして、まるで獣のように、がぶがぶと喉を鳴らして水を飲み干していく。しかし、その行為が彼の渇きを癒しているようには到底見えなかった。むしろ、飲めば飲むほど、さらに強い渇きに襲われているかのようだ。


「健太、腕を……見せて」


 恵が声をかけると、健太はびくりと肩を震わせた。まるで、その言葉を聞くのを何よりも恐れていたかのように。ゆっくりとこちらを向いた彼の瞳には、純粋な恐怖の色が浮かんでいた。


 彼は、何も言わずに、おずおずと右腕の袖を捲り上げた。


 恵は、息を止めた。


 昨夜、ファミレスの照明の下で見た時よりも、それは明らかに濃くなっていた。


 皮膚の下で、青黒いインクがさらに広範囲に滲んだかのように、水痕はその領域を広げている。よく見ると、シミの中心部はより深い青色に変色し、そこから幾筋もの細い線が、まるで毛細血管をなぞるように、じわりじわりと皮膚の下を這い始めている。


 それは、生きているかのようだった。


 健太の生命力を養分にして、呪いが着実に成長し、その身体を内側から侵食していく。その、おぞましい過程が、目に見える形で進行していた。


「……濃く、なってる……」


 健太が、自分の腕を見つめながら、呻くように言った。


「ああ……昨日よりも、ひどい……」


 その事実が、二人に死のリアリティを容赦なく突きつける。


 一ヶ月。

残された時間は、三十日もない。


 その死へのカウントダウンが、今、この瞬間も、健太の腕で刻まれているのだ。


「もう……終わりだ……」


 健太は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


「俺は、死ぬんだ。

あんな、馬鹿なことをしたせいで……蓮に、会う顔がない……」


 彼は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。


 その姿は、恵が知っている、かつての少し強気で、見栄っ張りな健太の面影など微塵も感じさせなかった。ただ、死の恐怖を前に、なすすべもなく打ちのめされた、一人の弱い人間がいるだけだった。


 恵は、そんな彼の前に、静かにしゃがみ込んだ。


 同情、憐れみ、そして、言いようのない怒り。様々な感情が、胸の中で渦を巻く。


「泣いてる場合じゃないでしょ!」


 恵の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして鋭かった。


 健太が、はっとしたように顔を上げる。その涙に濡れた瞳が、驚いたように恵を見つめた。


「何よ、その顔!

あなたが死んだら、蓮は、どうなるの?

父親が、都市伝説を信じて勝手に呪われて死にました、なんて、あの子にどう説明すればいいのよ!」


 言葉が、堰を切ったように溢れ出す。

「いつもそうなのよ、あなたは! 昔から!

大事なことを勝手に決めて、一人で突っ走って! 蓮の治療の時だってそうだったじゃない!

私の話を、ちゃんと聞いてくれたことがあった!?」


 過去の確執が、呪いという極限状況の中で、再び鎌首をもたげる。


 蓮の病が発覚した時、二人は治療方針を巡って激しく対立した。最新の外科手術に望みを託したい健太と、まだ幼い蓮の身体への負担を考え、内科的治療を続けたい恵。互いに、相手の考えを「蓮のためを思っていない」と断じ、溝は深まる一方だった。


「あの時だって……!」


 健太が、声を荒らげた。

「お前こそ、医者の言うことをただ鵜呑みにして!

何か他の方法があるかもしれないって、どうして考えなかったんだ!

俺は、ただ、あいつを助けたい一心で……!」


「私も同じよ!

誰よりも蓮のことを考えてる!

あなたのその、思い込みと、詰めの甘さが、いつも全てを台無しにするのよ!」


 売り言葉に、買い言葉。


 互いの心の傷を、抉り合うような、醜い口論。

 しかし、その言葉の応酬の果てに、二人は同時に気づいていた。


 今、こんなことを言い合っても、何の意味もないということに。


 そして、互いを責める言葉の根底にあるのが、蓮を愛するがゆえの、どうしようもない苦しみと絶望であるということに。


 激しい口論の後、部屋には重い沈黙が訪れた。聞こえるのは、健太の荒い呼吸と、壁の時計が時を刻む、冷たい音だけ。


 やがて、恵が静かに口を開いた。

「……ごめんなさい。

今、こんなことを言うべきじゃなかった」


 健太も、何も言わずに、ただ俯いていた。


 恵は、立ち上がると、健太の前に手を差し伸べた。

「立って、健太」


 健太は、戸惑いながらも、その手を取った。恵は、力強く彼を引き上げる。


「諦めるのは、まだ早い」


 恵は、健太の目を、まっすぐに見つめて言った。

その瞳には、先ほどまでの怒りの色は消え、代わりに、硬質な決意の光が宿っていた。


「まだ、死ぬって決まったわけじゃない。

呪いがあるなら、それを解く方法だって、どこかにあるはずよ」


「……方法なんて……あるわけないだろ……」

 健太は、力なく首を振った。


「探してもいないのに、どうしてないって言い切れるの?」


 恵は、さらに言葉を続けた。


「私たちは、まだ何も知らない。

あの神社のこと、手水舎のこと、『死に水』の呪いのこと。何一つ、分かっていないじゃない」


 そうだ。絶望するには、まだ早すぎる。

情報が、あまりにも少なすぎるのだ。


「探そう、一緒に。

どんな些細なことでもいい。手がかりになるものを、片っ端から集めるの」


 それは、希望というには、あまりにもか細く、不確かな光だった。だが、完全な闇の中に灯った、唯一の光でもあった。


 健太は、しばらくの間、何も言わずに恵の顔を見つめていた。彼の瞳の中で、深い絶望と、ほんのわずかな生への執着が、激しく揺れ動いているのが見て取れた。


 死にたくない。


 その、本能的な叫びが、彼の心を支配していた。蓮の顔が、脳裏をよぎる。まだ、あの子の成長を見届けていない。父親として、何もしてやれていない。こんな、馬鹿げた呪いで、死んでたまるか。


「……分かった」


 長い、長い沈黙の末、健太は、ようやく声を絞り出した。


「探そう。俺も……手伝う」


 その言葉を聞いて、恵は、固く結んでいた唇を、わずかに緩めた。


 過去の確執も、互いへの不満も、今は全て、この「死に水」という巨大な呪いの前に、些細なことのように思えた。


 目の前にいるのは、憎み合った元夫ではない。


 蓮の父親であり、そして、同じ絶望を共有し、これから共に闘う、唯一の協力者だった。


「まず、何から始める?」

 健太が尋ねた。


「もう一度、あのスレッドを徹底的に洗う。

書き込んだ『名無しの観測者』が、他に何か情報を出していないか。それから、神社の名前と場所は分かっているんだから、その地域の古い伝承や、郷土史を調べる。図書館や、役所の資料も当たる価値はあるかもしれない」


 恵は、淀みなく答えた。


 その頭脳は、恐怖を乗り越え、驚くほど冷静に、そして活発に動き始めていた。


 健太は、その姿に気圧されるように、ただ頷いた。


 彼は、自分の軽率さが招いた絶望の淵で、かつて自分が知っていた妻とは違う、別の何者かの姿を、佐々木恵の中に見ているような気がした。


 それは、目的のためならば、どんな手段も厭わない、鋼のような意志。


 蓮を守るため。

そして今、目の前の男を死なせないため。


 二人は、散らかった部屋の中央に置かれたローテーブルの前に座り、埃をかぶったノートパソコンを起動させた。


 青白いディスプレイの光が、二人の追い詰められた顔を照らし出す。


 死へのカウントダウンが続く中で、絶望に抗うための、二人の孤独な闘いが、今、静かに始まろうとしていた。

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