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死に水  作者: 月影 朔
第二章:呪いの発現
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第八話:呪いの確信

 時間の感覚が麻痺していた。


 どれくらいの間、床に転がったスマートフォンを眺め、恐怖に身を縮めていただろうか。一分か、あるいは一時間か。暗闇に慣れた目が捉える部屋の輪郭は、もはや安息の場所ではなく、得体の知れない何かが潜む巣窟のように思えた。


『儀式から、きっかり一ヶ月後。必ず、死ぬ』


 その一文が、脳の中で無限に反響する。


 健太が死ぬ。

 蓮の父親が。

 自分のかつての夫が。


 その事実が、凍り付いた思考を無理やりこじ開け、恵の全身を凄まじい焦燥感で満たした。


 ダメだ。

こんなところで、固まっている場合じゃない。


 これは、ただのネットの書き込みかもしれない。悪質ないたずらかもしれない。でも、もし、万が一、これが真実だとしたら? 健太が倒れた、あの異常な脱水症状。偶然にしては、出来過ぎている。


 確認しなければ。

健太は、本当に儀式を間違えたのか。


 震える手で、床に落ちていたスマートフォンを拾い上げる。

画面の光が、目に痛い。アドレス帳を開き、「高橋健太」の名前を探し出す。指が、自分のものとは思えないほど不器用に動き、何度もタップを誤った。


 ようやく発信ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てる。


 コール音が、やけに大きく、そして長く感じられた。

心臓が、その無機質な音に合わせて、破裂しそうなほど激しく脈打つ。


 深夜だ。

こんな時間に電話をかければ、非常識だと思われるだろう。

でも、そんなことはどうでもよかった。一刻も早く、彼の声を聞き、そして、伝えなければならない。


 数回のコールの後、不意に音が途切れ、眠たげな健太の声が聞こえた。


「……もしもし? 恵か?

どうかしたのか、こんな時間に……

蓮に何かあったのか!?」


 彼の声は、一瞬で覚醒し、緊張を帯びた。


「ううん、蓮は……蓮は大丈夫。

ごめんなさい、こんな夜中に……

でも、どうしても、話さなきゃいけないことがあるの」


 恵の声は、恐怖で震えていた。

冷静に話そうとすればするほど、言葉が上滑りしていく。


「話?

何だよ、今すぐじゃなきゃダメなのか?」


 いぶかしむような声色。当然の反応だった。


「ダメなの!

お願い、今すぐじゃなきゃダメなの!」


 ほとんど悲鳴に近い声が出た。


「健太……

あの、神社のこと、覚えてる?

手水舎の……儀式のこと……」


「あ?

ああ……それがどうしたんだよ。

結局、何の効果もなかっただろ」


 電話の向こうで、健太が億劫そうに寝返りを打つ気配がした。彼の落胆も分かる。

だが、今はそんな場合ではなかった。


「効果がなかった、

だけじゃないかもしれないの!」


 恵は、スマートフォンの画面を睨みつけながら、必死で言葉を紡いだ。


「あの都市伝説には、続きがあったの。恐ろしい、続きが……。

もし、儀式を間違えていたら……」


「……何言ってんだよ、

恵。疲れてるんじゃないのか?」


 健太の声に、憐れむような響きが混じる。

その同情が、恵の焦りをさらに加速させた。


「お願いだから、信じて!

会って話がしたい。今すぐ!」


 恵の切羽詰まった声に、さすがの健太もただ事ではないと感じたようだった。長い沈黙の後、深いため息と共に、承諾の言葉が返ってきた。


「……分かったよ。

近くのファミレスでいいか。三十分くらいで着く」


 電話が切れると同時に、恵はアパートを飛び出した。

着替える余裕も、鍵をかけたか確認する余裕もなかった。ただ、健太の元へ急がなければ、という一心だった。


 深夜のファミリーレストランは、まばらな客が気怠い時間を過ごしていた。

一番奥のボックス席に、健太はすでに着いていて、テーブルに肘をつきながら、怪訝な顔で恵を待っていた。


「で、一体何なんだよ。

そんなに慌てて」


 席に着くなり、健太が問い詰める。

その顔には、睡眠を妨げられた不機嫌さと、拭いきれない疲労が滲んでいた。


 恵は、言葉を発する前に、自分のスマートフォンをテーブルの中央に滑らせた。

画面には、あの呪いの詳細が書かれたスレッドが表示されている。


「これを、読んで」


 健太は、訝しげに眉をひそめながらも、画面に視線を落とした。


『死に水』

『一ヶ月後に死ぬ』

『干からびた変死体』


 彼の目が、不吉な単語を一つ一つ追っていく。


 最初は、馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。だが、読み進めるうちに、その表情が徐々に強張っていくのを、恵は見逃さなかった。


 そして、彼の視線が「初期症状は、極度の脱水症状」という一文に突き刺さった瞬間、健太の顔から、完全に血の気が引いた。


「……なんだよ、これ。

悪質ないたずらだろ」


 彼の声は、明らかに震えていた。

自分に言い聞かせるように、否定の言葉を口にしている。


「私も、そうであってほしいと思ってる」


 恵は、バッグから先日儀式の作法を書き写したノートとボールペンを取り出した。

「でも、確認させて。お願い。

あなたがやった儀式のこと、全部、細かく教えて」


 健太は、青ざめた顔で黙り込んでいたが、恵の鬼気迫るような眼差しに、やがて観念したように、小さく頷いた。


「……まず、右手で柄杓を取った?」

 恵は、ノートに記された第一項を指差しながら尋ねた。


「ああ……

それは、覚えてる。右手で取った」


「次に、その水で左手を清めた?」


「うん……

清めた、と思う」


 健太の記憶は、少し曖昧だった。

夜の闇と、焦り。その中で、全ての動作を正確に行うことなど、本当に可能だったのだろうか。


 恵は、一つ一つ、執拗に確認していく。

「柄杓を左手に持ち替えて、右手も清めた?」


「……たぶん」


「左の手のひらに水を溜めて、口に含んだ?」


「ああ」


「その時、柄杓に直接口はつけなかった?」


 恵がそう尋ねた瞬間、健太の動きが、ぴたりと止まった。

彼の視線が宙を彷徨い、記憶の糸を手繰り寄せているのが分かった。


「……どうだった?」

 恵は、乾いた唇を舐め、問いを重ねた。


「……いや……」

 健太が、か細い声で呟いた。


「暗くて……

手元がよく見えなくて……

もしかしたら、ほんの少し、唇が触れてしまった、かもしれない……」


 テーブルの下で、恵は自分の拳を強く握りしめた。

爪が、掌に食い込む。


「願い事は、心の中で一つだけ唱えた?」


「……ああ、蓮の病気が治るようにって……」


「口をゆすぐ時、音を立てなかった?」


 その質問に、健太はハッとしたように顔を上げた。

彼の顔は、もはや紙のように白い。


「音……」


 彼は、何かを思い出したように、絶望的な表情を浮かべた。


「……ダメだ。覚えてない。

でも……焦ってたから、静かに、なんて意識は、多分なかった……」


 もう、十分だった。

 完璧にこなさなければならない、九つの掟。その中で、健太はすでに、複数の過ちを犯している可能性があった。


 彼の詰めの甘さが、取り返しのつかない事態を招いたのだ。


 二人の間に、重く、息苦しい沈黙が落ちる。遠くの席で談笑する若者たちの声が、まるで異世界の響きのように聞こえた。


 恵は、震える声で、最後の問いを投げかけた。それは、スレッドの書き込みにあった、もう一つの呪いの兆候。


「……健太。腕、見せて」


「腕?」


「いいから、見せて。右腕」


 健太は、戸惑いながらも、言われた通りにワイシャツの袖を捲り上げた。


 そして、二人は、それを見た。


 健太の、病的に白い腕の内側。点滴の跡が残るその皮膚の下に、インクを滲ませたような、不自然な青いシミが、薄っすらと広がっていた。


 それは、ただの痣ではなかった。


 皮膚の表面にできたものではない。もっと内側から、血管が変色し、じわりと浮かび上がってきたかのような、不気味で、生々しい痕跡。


「……

なんだ、これ……」

健太が、呆然と呟いた。


 自分の腕に浮かんだそれを見て、まるで信じられないものを見るような目をしている。

彼は、その青い水痕を指で擦ってみるが、もちろん消えるはずもなかった。


『身体に青い水痕が浮かび上がるそうだ』


 スレッドの書き込みが、脳内で不気味にリフレインする。


 間違いだったかもしれない、儀式の手順。

符合しすぎる、脱水症状。

そして、決定的な、この青い水痕。


 もう、疑う余地はなかった。

悪質ないたずらでも、偶然でもない。


 これは、現実だ。

健太は、呪われたのだ。


 あの手水舎で、蓮を救いたいという願いと引き換えに、自らの命を差し出す契約を、知らぬ間に交わしてしまったのだ。


「……嘘だろ」


 健太の声が、絶望に震える。


「恵……

これ、嘘だと言ってくれ……」

彼は、助けを求めるように恵を見た。


 その瞳は、恐怖におびえる子供のように、ひどく頼りなかった。


 恵は、何も言うことができなかった。


 なんと声をかければいい? 「大丈夫よ」と気休めを言うのか?

「きっと何かの間違いよ」と、自分たち自身がもはや信じていない嘘をつくのか?


 そんな言葉に、何の意味があるというのだろう。


 恵は、ただ、向かいに座る元夫の顔を見つめ返すことしかできなかった。

 彼の命の砂時計は、もう、落ち始めている。


 一ヶ月。


 その、あまりに短く、そして、あまりに確定的な死の宣告。


 ファミレスの明るい照明が、二人の顔に落とす影を、より一層、濃く、深くしていた。

言葉を失った二人の間を、ただ、ドリンクバーの機械が水を注ぐ、無機質な音だけが、虚しく流れていった。

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