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死に水  作者: 月影 朔
第二章:呪いの発現
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第七話:見落とされた真実

 夜の空気を吸い込んだ肺が、鉛のように重い。


 自宅アパートのドアを開け、中に滑り込むと、恵は鍵をかけるのも忘れ、そのまま壁に背中を預けてずるずるとその場に座り込んだ。ひんやりとしたフローリングの感触が、薄いワンピース越しに伝わってくる。


 しん、と静まり返った部屋。


 冷蔵庫の低いモーター音だけが、この空間に生命活動があることをかろうじて示していた。電気もつけない暗闇の中で、窓の外を通り過ぎる車のヘッドライトが、時折、天井を無言で撫でては消えていく。

 疲労が、泥のように身体の隅々にまで溜まっていた。


 だが、それ以上に心を蝕んでいたのは、希望という名の光が完全に消え去った後に訪れる、絶対的な暗闇と虚無感だった。


 健太の、あの力なく歩き去っていく背中が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 病院で見た、何も変わらない蓮の寝顔が、脳裏で何度も再生される。


『やっぱり、都市伝説は、ただの都市伝説なんだな』

 健太の吐き捨てるような言葉が、耳の奥で木霊する。


 そうだ。馬鹿だったのだ。自分も、健太も。追い詰められていたとはいえ、正体不明の、根も葉もない噂に本気で救いを求めようとした。その結果が、これだ。増幅された絶望と、どうしようもない無力感だけが、後に残った。


 恵は、重い身体を無理やり引きずるようにして立ち上がると、よろめきながらリビングのソファに倒れ込んだ。クッションに顔を埋める。涙は出なかった。あまりに心が乾ききって、涙さえも枯れ果ててしまったかのようだった。


 もう、どうすればいいのだろう。


 蓮の命の灯火は、日増しに弱くなっている。医学という、現代社会が築き上げた最も確かな砦は、息子の前では無力だった。そして、最後の望みを託そうとした超常的な奇跡もまた、ただの幻想に過ぎなかった。


 八方塞がり。


 その言葉が、これほどまでに重く、冷たい響きを持つものだとは知らなかった。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 意識が朦朧とする中で、恵は無意識に、ポケットからスマートフォンを取り出していた。冷たく滑らかな感触が、妙に現実的だった。


 何をするでもなく、ただ画面を点灯させる。SNSの通知、未読のメッセージ、どうでもいいニュース速報。そのどれもが、今の恵にとっては、遠い異国の出来事のように感じられた。


 指が、意思とは関係なく動く。


 ブックマークに登録していた、あの都市伝説系のスレッドのページを開いていた。


『成就の手水』


 自嘲的な笑みが、口元に浮かぶ。

もう意味がないと分かっているのに。これはただの作り話で、自分たちを弄んだだけの、悪質なフィクションだったと結論が出たばかりなのに。

なぜ、またこのページを開いてしまうのだろう。


 まるで、致命傷を負った獣が、自分を傷つけた罠の匂いを嗅ぎに戻るかのように。


 画面には、見慣れた書き込みが並んでいる。

「願いが叶った人、いる?」

「作法が複雑すぎるw」

「これって、どこにある神社なの?」


 恵は、感情のない目でそれらの文字列を追った。

数日前までは、この一つ一つの言葉に、蓮を救うためのヒントが隠されているのではないかと、必死で食らいついていた自分が滑稽に思える。


 ページを一番下までスクロールし、更新ボタンを押す。

新しい書き込みはない。当たり前だ。こんな掃き溜めのような場所で、日々何かが劇的に変わるわけがない。


 もう閉じよう。そう思った時だった。

ふと、ある一つの返信レスが、恵の目に留まった。


 それは、スレッドのかなり初期の方にあった、古い書き込みに対する返信だった。

日付は、つい昨日のものになっている。以前、自分がこのスレッドを隅々まで読み漁った時には、間違いなく存在しなかったものだ。


 ハンドルネーム:名無しの観測者

『Re: 121 成就の手水について』


『これ、願いが叶うって話だけが独り歩きしてるけど、一番ヤバい部分が語られてないよな』


 恵の指が、ぴたりと止まった。


 ヤバい、部分……?


 心臓が、小さく嫌な音を立てる。


『続きがあるんだよ、この話には。本当は、そっちがメインなんだ』


 恵は、唾を飲み込んだ。

部屋の空気が、急に密度を増したように感じる。指先が、わずかに冷たくなっていく。


 スクロールすると、その「名無しの観測者」の書き込みが続いていた。

『あの儀式、九つの手順があるだろ?

あれ、一つでも順番を間違えたり、作法通りにやらなかったり、何か一つでもミスったら、どうなるか知ってるか?』


『願いが叶わない、だけじゃないんだ』


 心臓の鼓動が、少しずつ速度を上げていくのが分かった。


『「死に水」の呪いにかかるんだよ』


 その言葉を見た瞬間、背筋を氷の指でなぞられたような、強烈な悪寒が走った。


 死に水。


 その、不吉な響きを持つ言葉。それは、故人の口を水で潤す、あの厳かな儀式の名称ではなかったか。なぜ、それがこんなところに。


 恵は、画面に吸い付くようにして、続きの文章を読んだ。


『呪いにかかったら、最後だ。儀式をやってから、きっかり一ヶ月後。必ず、死ぬ』


 全身の血が、急速に温度を失っていく。


 死ぬ?


 何を言っているんだ、この男は。


 恵は、荒唐無稽な話だと、頭の中で必死に否定しようとした。だが、指は意思に反して、さらに下へと画面を滑らせていた。


『しかも、その死に方が異様なんだ。最近、ニュースになってるだろ?

あの、干からびた変死体が見つかってるってやつ』


 脳天を、鈍器で殴られたような衝撃。


 あのニュース。


 休憩中に見た、不気味な見出し。干からびた遺体。口元から溢れる、水の泡。


『あれだよ。

あれが、「死に水」の呪いで死んだ人間の末路だ。

全身の水分を根こそぎ奪われて、ミイラみたいになる。

なのに、口元だけが濡れて、泡を吹いてる。

古い水の匂いがする、って話も聞いたことがあるな』


 間違いない。自分が数日前に読んだニュース記事の内容と、完全に一致している。


 偶然?

いや、偶然にしては、あまりに符合しすぎている。


 恵の呼吸が、浅く、速くなる。

ソファのスプリングが軋む音も、外を走る車の音も、もう何も聞こえない。

ただ、スマートフォンの画面だけが、暗闇の中で青白い光を放ち、彼女の世界のすべてとなっていた。


 そして、恵の視線は、決定的な一文を捉えた。


『呪いには、前兆があるらしい。

最初に現れる症状は、極度の喉の渇き。突然意識を失うほどの、激しい脱水症状、

そして、身体に青い水痕が浮かび上がるそうだ』


 ――極度の、脱水症状。


 その文字列が、網膜に焼き付く。


 刹那、恵の脳裏に、病院で見た光景が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。

 点滴のチューブが繋がれた、健太の青白い腕。


「極度の脱水症状との診断でして……」

冷静に告げた、医師の言葉。


 蓮の病室で倒れ、床に横たわっていたという、元夫の姿。


 パズルのピースが、恐ろしい音を立てて嵌っていく。

なぜ、健太は倒れたのか。

なぜ、よりにもよって、極度の脱水症状だったのか。


 それは、体調不良などではなかった。

あれは、呪いの、始まり――。


「あ……」


 声にならない声が、喉の奥で潰れた。


 全身から、急速に血の気が引いていく。指先は氷のように冷たくなり、小刻みに震え始めた。心臓が、胸郭の内側で暴れ狂い、耳元で自分の血流がごうごうと音を立てている。


 まさか。


 そんなはずがない。


 健太が?

あの、健太が? 呪われた?


 儀式を、間違えた……?


 恵は、震える手で、以前自分がノートに書き写した「九つの掟」のページを必死で思い返した。


 右手で柄杓を取り、水を掬う。

 掬った水で左手を清める。

 柄杓を左手に持ち替え、右手も清める。


 ……緻密で、厳格な手順。その一つ一つに、意味があるかのようだった。

健太は、この手順のどこかを、ほんの些細な部分を、間違えてしまったというのか。


 背中を、びっしょりと冷たい汗が伝う。


 呼吸が苦しい。空気を吸い込んでも、酸素が脳まで届かない。

 部屋の暗闇が、もはや単なる光の欠如ではなく、意思を持った何かのように感じられた。それは、じわりじわりと恵を取り囲み、その輪を狭めてくる、得体の知れない恐怖そのものだった。


 スマートフォンが、手から滑り落ちる。


 カタン、と軽い音を立てて、フローリングに転がった。

青白い光を放つ画面には、今もなお、あの絶望的な文字列が映し出されている。


『儀式から、きっかり一ヶ月後。必ず、死ぬ』


 恵は、両手で口を覆った。

止めようとしても、歯の根がカチカチと鳴って止まらない。


 落胆。失望。無力感。


 先ほどまで心を支配していたそれらの感情は、今や、もっと根源的で、圧倒的な恐怖の前に、跡形もなく消し飛んでいた。


 健太は、ただ願いが叶わなかっただけではなかった。

彼は、自ら、死の扉を開けてしまったのだ。


 そして、その死へのカウントダウンは、もう、始まっている?!

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