第七話:見落とされた真実
夜の空気を吸い込んだ肺が、鉛のように重い。
自宅アパートのドアを開け、中に滑り込むと、恵は鍵をかけるのも忘れ、そのまま壁に背中を預けてずるずるとその場に座り込んだ。ひんやりとしたフローリングの感触が、薄いワンピース越しに伝わってくる。
しん、と静まり返った部屋。
冷蔵庫の低いモーター音だけが、この空間に生命活動があることをかろうじて示していた。電気もつけない暗闇の中で、窓の外を通り過ぎる車のヘッドライトが、時折、天井を無言で撫でては消えていく。
疲労が、泥のように身体の隅々にまで溜まっていた。
だが、それ以上に心を蝕んでいたのは、希望という名の光が完全に消え去った後に訪れる、絶対的な暗闇と虚無感だった。
健太の、あの力なく歩き去っていく背中が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
病院で見た、何も変わらない蓮の寝顔が、脳裏で何度も再生される。
『やっぱり、都市伝説は、ただの都市伝説なんだな』
健太の吐き捨てるような言葉が、耳の奥で木霊する。
そうだ。馬鹿だったのだ。自分も、健太も。追い詰められていたとはいえ、正体不明の、根も葉もない噂に本気で救いを求めようとした。その結果が、これだ。増幅された絶望と、どうしようもない無力感だけが、後に残った。
恵は、重い身体を無理やり引きずるようにして立ち上がると、よろめきながらリビングのソファに倒れ込んだ。クッションに顔を埋める。涙は出なかった。あまりに心が乾ききって、涙さえも枯れ果ててしまったかのようだった。
もう、どうすればいいのだろう。
蓮の命の灯火は、日増しに弱くなっている。医学という、現代社会が築き上げた最も確かな砦は、息子の前では無力だった。そして、最後の望みを託そうとした超常的な奇跡もまた、ただの幻想に過ぎなかった。
八方塞がり。
その言葉が、これほどまでに重く、冷たい響きを持つものだとは知らなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
意識が朦朧とする中で、恵は無意識に、ポケットからスマートフォンを取り出していた。冷たく滑らかな感触が、妙に現実的だった。
何をするでもなく、ただ画面を点灯させる。SNSの通知、未読のメッセージ、どうでもいいニュース速報。そのどれもが、今の恵にとっては、遠い異国の出来事のように感じられた。
指が、意思とは関係なく動く。
ブックマークに登録していた、あの都市伝説系のスレッドのページを開いていた。
『成就の手水』
自嘲的な笑みが、口元に浮かぶ。
もう意味がないと分かっているのに。これはただの作り話で、自分たちを弄んだだけの、悪質なフィクションだったと結論が出たばかりなのに。
なぜ、またこのページを開いてしまうのだろう。
まるで、致命傷を負った獣が、自分を傷つけた罠の匂いを嗅ぎに戻るかのように。
画面には、見慣れた書き込みが並んでいる。
「願いが叶った人、いる?」
「作法が複雑すぎるw」
「これって、どこにある神社なの?」
恵は、感情のない目でそれらの文字列を追った。
数日前までは、この一つ一つの言葉に、蓮を救うためのヒントが隠されているのではないかと、必死で食らいついていた自分が滑稽に思える。
ページを一番下までスクロールし、更新ボタンを押す。
新しい書き込みはない。当たり前だ。こんな掃き溜めのような場所で、日々何かが劇的に変わるわけがない。
もう閉じよう。そう思った時だった。
ふと、ある一つの返信レスが、恵の目に留まった。
それは、スレッドのかなり初期の方にあった、古い書き込みに対する返信だった。
日付は、つい昨日のものになっている。以前、自分がこのスレッドを隅々まで読み漁った時には、間違いなく存在しなかったものだ。
ハンドルネーム:名無しの観測者
『Re: 121 成就の手水について』
『これ、願いが叶うって話だけが独り歩きしてるけど、一番ヤバい部分が語られてないよな』
恵の指が、ぴたりと止まった。
ヤバい、部分……?
心臓が、小さく嫌な音を立てる。
『続きがあるんだよ、この話には。本当は、そっちがメインなんだ』
恵は、唾を飲み込んだ。
部屋の空気が、急に密度を増したように感じる。指先が、わずかに冷たくなっていく。
スクロールすると、その「名無しの観測者」の書き込みが続いていた。
『あの儀式、九つの手順があるだろ?
あれ、一つでも順番を間違えたり、作法通りにやらなかったり、何か一つでもミスったら、どうなるか知ってるか?』
『願いが叶わない、だけじゃないんだ』
心臓の鼓動が、少しずつ速度を上げていくのが分かった。
『「死に水」の呪いにかかるんだよ』
その言葉を見た瞬間、背筋を氷の指でなぞられたような、強烈な悪寒が走った。
死に水。
その、不吉な響きを持つ言葉。それは、故人の口を水で潤す、あの厳かな儀式の名称ではなかったか。なぜ、それがこんなところに。
恵は、画面に吸い付くようにして、続きの文章を読んだ。
『呪いにかかったら、最後だ。儀式をやってから、きっかり一ヶ月後。必ず、死ぬ』
全身の血が、急速に温度を失っていく。
死ぬ?
何を言っているんだ、この男は。
恵は、荒唐無稽な話だと、頭の中で必死に否定しようとした。だが、指は意思に反して、さらに下へと画面を滑らせていた。
『しかも、その死に方が異様なんだ。最近、ニュースになってるだろ?
あの、干からびた変死体が見つかってるってやつ』
脳天を、鈍器で殴られたような衝撃。
あのニュース。
休憩中に見た、不気味な見出し。干からびた遺体。口元から溢れる、水の泡。
『あれだよ。
あれが、「死に水」の呪いで死んだ人間の末路だ。
全身の水分を根こそぎ奪われて、ミイラみたいになる。
なのに、口元だけが濡れて、泡を吹いてる。
古い水の匂いがする、って話も聞いたことがあるな』
間違いない。自分が数日前に読んだニュース記事の内容と、完全に一致している。
偶然?
いや、偶然にしては、あまりに符合しすぎている。
恵の呼吸が、浅く、速くなる。
ソファのスプリングが軋む音も、外を走る車の音も、もう何も聞こえない。
ただ、スマートフォンの画面だけが、暗闇の中で青白い光を放ち、彼女の世界のすべてとなっていた。
そして、恵の視線は、決定的な一文を捉えた。
『呪いには、前兆があるらしい。
最初に現れる症状は、極度の喉の渇き。突然意識を失うほどの、激しい脱水症状、
そして、身体に青い水痕が浮かび上がるそうだ』
――極度の、脱水症状。
その文字列が、網膜に焼き付く。
刹那、恵の脳裏に、病院で見た光景が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。
点滴のチューブが繋がれた、健太の青白い腕。
「極度の脱水症状との診断でして……」
冷静に告げた、医師の言葉。
蓮の病室で倒れ、床に横たわっていたという、元夫の姿。
パズルのピースが、恐ろしい音を立てて嵌っていく。
なぜ、健太は倒れたのか。
なぜ、よりにもよって、極度の脱水症状だったのか。
それは、体調不良などではなかった。
あれは、呪いの、始まり――。
「あ……」
声にならない声が、喉の奥で潰れた。
全身から、急速に血の気が引いていく。指先は氷のように冷たくなり、小刻みに震え始めた。心臓が、胸郭の内側で暴れ狂い、耳元で自分の血流がごうごうと音を立てている。
まさか。
そんなはずがない。
健太が?
あの、健太が? 呪われた?
儀式を、間違えた……?
恵は、震える手で、以前自分がノートに書き写した「九つの掟」のページを必死で思い返した。
右手で柄杓を取り、水を掬う。
掬った水で左手を清める。
柄杓を左手に持ち替え、右手も清める。
……緻密で、厳格な手順。その一つ一つに、意味があるかのようだった。
健太は、この手順のどこかを、ほんの些細な部分を、間違えてしまったというのか。
背中を、びっしょりと冷たい汗が伝う。
呼吸が苦しい。空気を吸い込んでも、酸素が脳まで届かない。
部屋の暗闇が、もはや単なる光の欠如ではなく、意思を持った何かのように感じられた。それは、じわりじわりと恵を取り囲み、その輪を狭めてくる、得体の知れない恐怖そのものだった。
スマートフォンが、手から滑り落ちる。
カタン、と軽い音を立てて、フローリングに転がった。
青白い光を放つ画面には、今もなお、あの絶望的な文字列が映し出されている。
『儀式から、きっかり一ヶ月後。必ず、死ぬ』
恵は、両手で口を覆った。
止めようとしても、歯の根がカチカチと鳴って止まらない。
落胆。失望。無力感。
先ほどまで心を支配していたそれらの感情は、今や、もっと根源的で、圧倒的な恐怖の前に、跡形もなく消し飛んでいた。
健太は、ただ願いが叶わなかっただけではなかった。
彼は、自ら、死の扉を開けてしまったのだ。
そして、その死へのカウントダウンは、もう、始まっている?!