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死に水  作者: 月影 朔
第一章:不穏な兆し
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第六話:告白と落胆

 病院のロビーに響く、空調の低い唸り。消毒液の匂いが混じった生温かい空気が、二人の間に淀んでいた。


 恵が放った「成就の手水」という言葉。それは、暗闇に投じられた小さな石のように、健太の心の水面にかすかな波紋を広げたようだった。彼の視線が揺れ、何かをためらうように唇がわずかに開く。


「……知ってるのか、じゃないんだ」

 健太は、絞り出すような、掠れた声で言った。


「俺は……昨日、そこへ行ってきたんだ」

 その言葉が意味するものに、恵の思考は一瞬、完全に停止した。


 行ってきた?


 どこへ。あの、廃れた神社へ?


「……え?」


 やっとのことで漏れた自分の声が、やけに間抜けに響いた。信じられない、という感情が、驚きよりも先に全身を駆け巡る。


「昨日…?」


「ああ。昨日の夜だ」

 健太は力なく頷き、視線を落とした。その横顔は、病的な青白さの中に、深い疲労の色を浮かべている。


「俺も、ネットで見たんだ。

蓮を……蓮を助ける方法はないかって、必死で探していて。

そうしたら、その都市伝説に行き着いた」

 健太の声は淡々としていた。


 しかし、その抑揚のない響きの中に、彼がどれほどの思いでその情報に辿り着いたのかが、痛いほど伝わってきた。自分と同じだ。医学に見放され、藁にもすがる思いで、非科学的な奇跡に望みを託そうとしたのだ。


「それで……

やったの? その、儀式っていうのを」

 恵は身を乗り出すようにして尋ねた。


 心臓が、期待と不安で激しく鼓動を打つ。

もし、健太が儀式を成功させていたとしたら?

もし、蓮の病が……。


「ああ。やったよ」

 健太は再び頷いた。


「この病院から、車で三十分くらいの山奥にあった。

もう誰も寄り付かないような、寂れた神社だったよ。鳥居は半分朽ちかけて、石段には苔が一面に生えていて……」


 健太は、まるで遠い日の出来事を思い出すかのように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


 夜の闇に包まれた山道。車のヘッドライトだけが頼りの暗い道を進み、ようやく見つけたという神社の入り口。携帯のライトを頼りに石段を登ると、木々のざわめきと、自分の荒い呼吸の音だけが聞こえる、完全な静寂に包まれた空間が広がっていたこと。


 そして、その奥にひっそりと佇んでいた、古びた手水舎。

「手水舎の水は、驚くほど澄んでいた。夜だっていうのに、底まで見えそうなくらいに。そこに書かれていた作法通りに……一つ一つ、やったんだ」


 健太の言葉を、恵は息を詰めて聞いていた。

自分の頭の中にあった、ぼんやりとした都市伝説のイメージが、健太の口を通して、生々しい現実の輪郭を帯びていく。


「それで……

それで、どうだったの?」

 恵はたまらずに聞いた。


 願いは、叶ったのか。


 健太は答えなかった。

ただ、力なく首を横に振る。


「儀式を終えて、いったん家に帰ってから今日、また病院に来たんだ。蓮の様子を見たくなって……。

それであいつの顔を見ようと病室に入ったら、急に目の前が暗くなって……気づいたら、俺は床に倒れていた」

 それが、健太が倒れた経緯の全てだった。


 恵の頭の中で、点が線で結ばれていく。

 健太が儀式を行った。そして、蓮の病室で倒れた。


 だとしたら、蓮は?

蓮の身体には、何か変化が起きているのではないか?


「蓮のところに行こう!」


 恵は弾かれたように立ち上がった。逸る気持ちを抑えきれない。


「さっき、看護師さんから熱が少し下がったって聞いたけど、もしかしたら……

もしかしたら、儀式が効いてるのかもしれない!」


 希望が、乾いた心に染み渡るようだった。そうだ、きっとそうだ。

健太の行動が無駄なはずがない。あの都市伝説は、本物だったのだ。


 健太は、恵のその勢いに戸惑ったような表情を浮かべたが、黙って立ち上がり、後に続いた。

 二人は、早足で小児病棟のフロアへと向かう。


 静かな廊下に、二人の足音だけが響く。恵の胸は、期待で張り裂けそうだった。扉の向こうに、奇跡が待っている。病から解放され、健やかな笑顔を見せる息子の姿が、瞼の裏に鮮明に浮かんだ。


 蓮の病室の前に立ち、恵は一度、深呼吸をした。隣に立つ健太も、固唾を飲んでいるのがわかった。


 ゆっくりと、音を立てないように扉を開ける。


 薄暗い病室。

カーテンの隙間から差し込む街の光が、白いシーツをぼんやりと照らしている。


 ベッドの上で、蓮は静かに眠っていた。

二人は、そっとベッドサイドに歩み寄る。


 そこにいたのは、いつもと何ら変わらない、小さな息子だった。

浅く、苦しそうな呼吸。時折、熱に浮かされたように身じろぎをする。


 額には汗が滲み、頬は赤く火照っている。腕に繋がれた点滴のチューブが、彼の生命がか細い糸で繋ぎ止められている現実を、無慈悲に示していた。


 ベッドの脇に設置されたモニターが、冷たい電子音と共に、蓮のバイタルサインを無機質に表示している。心拍数、血圧、血中酸素飽和度。そこに並ぶ数字は、昨日と、一昨日と、何も変わっていなかった。


 奇跡など、どこにも起きていなかった。


 恵の心の中で、膨らみきっていた希望の風船が、音もなく萎んでいく。全身から力が抜け、立っているのがやっとだった。


「……変わらない、な」

 健太が、絶望を押し殺した声で呟いた。


「うん……」

 恵は、それ以上、言葉を続けることができなかった。


 ただ、眠る息子の顔を見つめることしかできない。この小さな身体が、今も病魔と闘い続けている。自分たちが抱いた、束の間の身勝手な希望など、まるで意に介さないかのように。


 しばらく、どちらも動けずに、その場に立ち尽くしていた。


 重い沈黙を破ったのは、健太だった。

「……馬鹿みたいだったな、俺」

 その声は、自嘲に満ちていた。


「あんな……

あんな、ただの噂に、本気で期待して」

 恵は顔を上げ、健太を見た。


 彼の瞳は、深く、暗く淀んでいた。そこには、後悔とも、諦めともつかない、どうしようもない無力感が漂っている。


「そんなことないよ」

 恵は、かろうじて声を絞り出した。


「私も……

私も、本気で信じようとしてた。健太と同じだよ」


 二人は顔を見合わせた。


 かつては夫婦だった二人。息子の病が、その絆を引き裂いた。治療方針を巡って激しくぶつかり合い、互いを責め、傷つけ合った。その結果、別々の道を歩むことになった。


 だが、根底にある想いは同じだったのだ。

 蓮を救いたい。

 その一心で、それぞれが闇の中をもがき、そして、同じ一つの非現実的な光に手を伸ばそうとしていた。


 その結果が、これだ。

何も変わらない現実と、共有された、深い失望。


「……やっぱり、都市伝説は、ただの都市伝説なんだな」

 健太が、吐き捨てるように言った。


 恵は、何も答えられなかった。ただ、小さく頷くことしかできない。


 自分たちが信じかけた奇跡は、蜃気楼のように消え去った。残されたのは、以前よりももっと重く、もっと冷たい絶望感だけだった。


 二人は、これ以上ここにいても意味がないことを悟り、静かに病室を後にした。


 廊下を歩き、エレベーターに乗り、一階のロビーまで戻る。その間、二人の間に会話はなかった。どんな言葉も、今のこの空虚さを埋めることはできないように思えた。


 病院の自動ドアが、無感情に開く。

 外に出ると、むっとするような夏の夜の空気が、二人を包んだ。遠くで聞こえるサイレンの音が、やけに現実的に響く。


「……じゃあ、俺はこれで」

 健太が、力なく言った。


「うん……。今日は、ありがとう。気を付けて」

 恵も、当たり障りのない言葉を返す。


 かけるべき言葉も、交わすべき視線も見つけられないまま、二人は気まずく立ち尽くした。


 やがて、健太が先に背を向け、夜の闇の中へと歩き出す。その背中は、疲れきった敗残兵のように、小さく、頼りなく見えた。


 恵は、その姿が見えなくなるまで、ただ黙って見送っていた。


 心の中に、ぽっかりと大きな穴が開いたような感覚。

信じていたものが、音を立てて崩れ落ちた後の、静かで、冷たい虚無。


 結局、自分たち親子には、奇跡など訪れないのだ。

医学にも、そして、神様にも。


 恵は、重い足取りで、健太とは逆の方向へと歩き出した。自宅へと続く、いつもの道。

しかし、その足取りは、鉛を引きずるように、どこまでも重かった。

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