第五話:健太の異変
恵は、スマートフォンの画面に映る「成就の手水」の情報を熱心に読み漁っていた。
休憩時間が終わり、フロアに戻ってからも、その興奮は冷めやらなかった。客のオーダーを取りながらも、頭の中では、手水舎の古びた写真と、そこに書かれた九つの作法がぐるぐると渦巻いている。蓮の病が治る。その一筋の光が、恵の心を希望で満たしていた。
普段なら退屈に感じるカフェの仕事も、その日は不思議と苦にならなかった。むしろ、この仕事が、蓮を救うための軍資金を稼ぐ手段なのだと、改めて恵は決意を固めていた。疲労は身体に刻まれているが、心はかつてないほどに研ぎ澄まされている。
その日の夜、恵は自宅に戻ってからも、ひたすら「成就の手水」について調べ続けた。インターネット上のあらゆる情報を収集し、古びたウェブサイトや、個人ブログの隅々まで目を通した。都市伝説とはいえ、ここまで具体的に手順が記されていることに、恵はただならぬものを感じていた。
特定の作法を完璧に守ること。
その点が、どの情報源でも強調されていた。恵は、手書きで九つの手順をノートに書き写し、何度も読み返した。一字一句、間違えることのないように。まるで、それが蓮の命運を分けるかのように、恵は真剣だった。
夜が更け、外は静寂に包まれていた。恵は、自分の部屋で一人、手帳を広げ、作法を指でなぞりながら、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。水を掬い、手を清め、口をゆすぐ。すべての動作を、心の中でゆっくりと、そして正確に実行する。
疲労のせいで、瞼が重くなり始める。しかし、恵は寝るのが惜しかった。一刻も早く、この儀式を試したい。そして、蓮の病が奇跡的に回復することを、心から願っていた。
数日が過ぎた。恵は相変わらずカフェで働きながら、空いた時間を見つけては都市伝説について調べていた。蓮の容態は相変わらずで、良くなる兆しは見えない。病院からの連絡も、いつも恵を不安にさせるものばかりだった。蓮の小さな身体は、日に日に痩せ細っていくように見える。恵の焦りは募る一方だった。
そんなある日の午後、カフェでいつものように働いていると、一本の電話が恵のスマートフォンに入った。見慣れない病院の番号。
恵の心臓がドクリと跳ねる。嫌な予感がした。
「佐々木恵様でいらっしゃいますか?」
受話器から聞こえてきたのは、看護師の落ち着いた声だった。
「はい、佐々木です」
恵は、平静を装って答えた。
「あの、蓮君のお父様でいらっしゃる高橋健太様が、先ほど蓮君の病室で倒れられまして……」
看護師の言葉に、恵の頭は真っ白になった。
健太が、倒れた?
蓮の病室で?
「え……健太さんが?
大丈夫なんですか?」
恵は、動揺を隠しきれずに尋ねた。
「はい、意識はすぐに戻られましたが、念のため検査を受けていただいております。
ただ、極度の脱水症状との診断でして……」
脱水症状?
恵は首を傾げた。
健太が倒れたことに驚きと不安を抱えながらも、恵はすぐにマネージャーに事情を話し、早退の許可をもらった。
カフェの制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。恵の心は、激しく波打っていた。健太と別れてから、もう半年以上が経つ。彼の身に何かあったのだろうか。
そして、なぜ蓮の病室で?
病院へ向かうタクシーの中で、恵は何度も健太の携帯に電話をかけたが、繋がらない。不安が募るばかりだった。
病院に着くと、恵は真っ直ぐに健太のいる病室へと向かった。小児病棟のフロアは、消毒液の匂いが漂い、子供たちの泣き声が時折聞こえる。
健太が運ばれた病室の前に立つと、恵は深呼吸をした。
扉を開くと、白いベッドに横たわる健太の姿があった。顔色は青白く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。点滴のチューブが彼の腕に繋がれていた。
「健太……」
恵は、そっと健太の顔を覗き込んだ。
健太はゆっくりと目を開け、恵の顔を見上げた。
「恵……
来てくれたんだ」
健太の声は、か細かったが、いつもの健太の声だった。恵は、少しだけ安堵した。
「もう、本当にびっくりしたんだから。
何があったの? 蓮は?」
恵は、心配そうに尋ねた。
「蓮は大丈夫だよ。心配をかけてしまってごめん。」
健太は、申し訳なさそうに言った。
恵は健太の隣の椅子に座り、蓮の様子について尋ねた。健太は、蓮のベッドの傍で、蓮が眠っている姿を眺めていたという。蓮の顔は、苦しそうで、熱にうなされているようだった、と。
蓮の病状が、健太の心をどれだけ深く傷つけているか、恵は痛いほど分かった。健太もまた、蓮のことが何よりも大切だったのだ。だからこそ、二人は別々の道を歩むことになった。蓮を救いたいという思いは同じなのに、そのアプローチが異なったために、二人の関係は崩壊してしまったのだ。
「それにしても、脱水症状ってどういうこと?
何か変なものでも食べたの?」
恵は、健太の体調を気遣うように尋ねた。
健太は、少し困ったような顔をして、視線を逸らした。
「いや……
昨日の夜から、少し喉が渇くなとは感じてたんだ。
でも、まさかこんなことになるとは思わなくて……」
健太は、途切れ途切れに話した。
恵は、そんな健太の様子を見て、何か隠していることがあるのではないかと感じた。だが、今は何も追求せず、健太の回復を待つことにした。
しばらくして、健太の容態が落ち着き、医師から退院の許可が出た。恵は、健太と一緒に病院を出た。蓮の病室に立ち寄り、眠っている蓮の顔をそっと撫でた。蓮の呼吸はまだ荒いが、少しだけ熱が下がったように感じられた。
病院の廊下を歩きながら、健太は蓮の病状について、恵に尋ねた。
「蓮の様子は、どうなんだ?
良くなったのか?」
健太の声には、切実な響きがあった。
「うーん、まだ熱は下がりきってないけど……
でも、少しは落ち着いたみたい。
でも、根本的な解決にはなってないのよ」
恵は、正直に答えた。
健太の顔に、諦めと疲労の色が浮かんだ。
恵は、そんな健太の姿を見て、胸が締め付けられるような思いがした。
二人は、病院のロビーのソファに腰を下ろした。久しぶりに二人きりで話す時間だった。蓮のこと以外で、話すことはもうあまり残っていなかったが、それでも、沈黙が訪れることはなかった。
恵は、ふと、先日ミキから聞いた都市伝説のことを思い出した。蓮を救うための、最後の希望。健太も蓮のことを心から心配しているのだから、この話をして、一緒に調べてみようか。
「ねえ、健太。最近、変な都市伝説を知ったんだけど……」
恵は、おずおずと切り出した。
「え、都市伝説?」
健太は、少し驚いたような顔をした。
「うん。『成就の手水』って言ってね。廃れた神社の手水舎で、特定の作法に従って清めると、どんな願いでも一つだけ叶うらしいの」
恵は、都市伝説の内容を健太に説明した。
健太は、恵の話を真剣な表情で聞いていた。恵は、健太が興味を持ってくれていることに、少しだけ嬉しさを感じた。
「蓮の病気が治ることを願って、私も試してみようかと思って。
もう、医学だけではどうしようもないから……」
恵は、健太の顔を見つめて言った。その声には、切実な願いが込められていた。
健太は、恵の言葉に、何も答えなかった。ただ、じっと恵の顔を見つめている。その目に、恵は何か普段と異なる光を感じた。
「どうしたの?
健太も、信じない?」
恵は、尋ねた。
健太は、ゆっくりと口を開いた。
「恵、その『成就の手水』のことだけど……」
恵の心臓が、再び大きく跳ね上がった。
健太が、この都市伝説を知っていた?
「えっ?もしかして、健太も知ってるの?」
恵は、ほとんど息を潜めるように尋ねた。
健太は、ゆっくりと頷いた。
そして恵は、健太の言葉の続きを待った。