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死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

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第四十五話(最終話):微かな笑み

 病院のロビーは、朝の、穏やかな光に満ちていた。


 高い天井から吊るされた観葉植物の葉が、空調の微かな風に揺れている。

時折、白い制服に身を包んだ看護師が、静かな足音で通り過ぎていく。

コーヒーの香ばしい匂いと消毒液の清潔だがどこか無機質な匂いが、混じり合っている。


 それは、生命とそしてそのすぐ隣にある死が、日常として存在するありふれた空間だった。


 恵は、ロビーの隅に設えられた、応接セットの硬いソファに腰を下ろしていた。


 向かいには、二人の刑事が座っている。年配の物腰は柔らかいが目の奥に鋭い光を宿した刑事。

そして、その隣で緊張した面持ちで熱心にメモを取る若い刑事。


 テーブルの上には自動販売機で買った、紙コップのお茶が三つ、置かれている。

恵の分はもうほとんど中身はなかった。


「……それで、佐々木さん」

 年配の刑事が重々しく口を開いた。

彼の視線は手元の手帳と恵の顔とを慎重に行き来している。


「先ほどもお伝えしましたが、高橋健太さんの死亡時の状況は極めて……特異です。

我々もこれまでに数多くの現場を見てきましたが、今回のようなケースは前代未聞と言っていい」


 恵は黙って刑事の言葉に耳を傾けていた。


 その表情はまるで能面のように何の感情も浮かんでいない。

ただ、その瞳だけが静かに刑事の顔を見つめている。


「まず現場となった、ホテルの部屋ですが……」


 刑事は一度言葉を切り、まるでそのおぞましい光景をもう一度頭の中で反芻するかのようにわずかに眉をひそめた。


「部屋全体が、水浸しになっていました。

水深は、足首まで。

しかし、調べたところ、水道管の破裂やスプリンクラーの作動といった物理的な原因は一切見つかりませんでした。

それに、その水も……

通常の水道水とは成分が大きく異なっていた。

不純物が多くひどい悪臭を放っていた、と」


 若い刑事がその言葉を聞きながら、ごくり、と、喉を鳴らすのが、分かった。


 恵は、無言だった。


 彼女の脳裏には、あの手水舎の黒く淀んだ水面が静かに、浮かび上がっていた。


 年配の刑事は、続けた。

その声はさらにトーンを落としていた。


「そして……

高橋さん、ご本人のご遺体です。

佐々木さん、これから少し辛いお話になりますが、捜査のためどうかお聞きいただきたい」


 恵は静かに、こくり、と頷いた。


「ご遺体は……

極度の、脱水症状を、示していました。

我々の言葉で言うなら……

そうですね、ミイラ化、と表現するのが、最も近いかもしれません。

全身の水分が完全に失われている。

法医学の医師もこれほど急激な全身の脱水は自然には起こり得ないと、首を傾げています」


 干からびた、健太の身体。


 生気を根こそぎ吸い取られた、あのおぞましいなれの果て。


 恵は、その光景を実際に見たわけではない。


 だが、刑事のその淡々とした描写だけで全てを鮮明に想像することができた。


 そして刑事はついに最後のそして最も不可解な核心部分へと触れた。


「ですが……

佐々木さん。

最も、奇妙なのは、そこからです」


 刑事は、一度、恵の目をまっすぐに射抜くように、見つめた。


「高橋さんの身体は、完全に、干からびていた。

にも、かかわらず……です」


「彼の、口元からは……」


「白く濁った、不気味な水の泡が、溢れ出ていたのです」


 その言葉が、刑事の口から発せられた瞬間だった。


 恵のそれまで能面のように固まっていたその表情に。


 ほんのわずかな、しかし確かな変化が訪れた。


 彼女の唇の、その片方の端が。


 くい、と。

ほんの数ミリだけ、引き上げられたのだ。


 それは、微笑みと呼ぶにはあまりに微かであまりに刹那的だった。


 だが、それは確かに、笑みだった。

悲しみでも、苦しみでもない。

恐怖でも、驚きでもない。


 まるで、パズルの最後のピースがカチリ、と、完璧に嵌まったのを確認したかのような。


 あるいは、長い時間をかけて練り上げた完璧な計画がその最終段階において寸分の狂いもなく成功したことを知ったかのような。


 深い、深い、満足感と、そして氷のような冷たい歓喜。


 その二つの感情が一瞬だけ彼女の口元に、ニヤリ、という歪んだ笑みの形となって現れ、そして、すぐに消えた。


 それはあまりにも一瞬の出来事だったため、目の前にいる二人の刑事でさえ気づかなかったかもしれない。


 あるいは気づいたとしても、極度のショックによる、顔の筋肉の無意識な痙攣だと判断しただろう。


 だが、それは間違いなく恵自身の意志を持った、表情の変化だった。


 恵は、すぐに静かで感情の読めない顔に戻ると、刑事の次の言葉を待った。


 刑事は、彼女のその刹那の変化に気づくこともなく、困惑したように話を続けた。

「我々も前例のないこの不可解な事件に、頭を悩ませています。

佐々木さん、何か高橋さんの身に変わったことはありませんでしたか?

誰か彼を恨んでいた人物に心当たりは?」


 警察の捜査。

それはもはや、この物語の本質とは何の関係もなかった。


 彼らがどれだけ科学的な調査を進めようとも、この事件の真相にたどり着くことなど決してありえないだろう。


「……さあ」

 恵は、ゆっくりと、首を横に振った。


「彼も、息子のことで、色々と、思い悩んでいたようでしたから……。

精神的に、かなり不安定になっていたのかもしれません」


 彼女は当たり障りのない、事実とも嘘とも取れる言葉を並べた。

それ以上、何も、語るつもりはなかった。


 結局、刑事たちは恵から何の有力な情報も得ることはできずに引き上げていった。


「また何か思い出したら、ご連絡ください」という、形式的な言葉を残して。


 一人ロビーに残された恵は、冷めてしまった紙コップのお茶を静かに飲み干した。

そして立ち上がると、エレベーターホールへと向かった。

蓮の病室へと、戻るために。


 病室のドアを、そっと開ける。


 蓮は、まだすやすやと、穏やかな寝息を立てて、眠っていた。

恵が部屋を出る前と、何一つ、変わらない、安らかな寝顔。


 いや、違う。


 恵は、ベッドの傍らに、歩み寄った。

そして、蓮のその小さな寝顔をじっと、見つめる。

彼の、頬が以前のような病的な青白さではなく、健康的なほんのりとしたピンク色に色づいている。


 苦しげに上下していた小さな胸も、今は深くそして穏やかなリズムを刻んでいる。

ベッドサイドに置かれた心電図のモニターが、表示する電子的な波形も、以前とは比べ物にならないほど力強く、そして、安定していた。


 恵はそっと蓮の小さな手に自分の手を、重ねた。


 温かい。

生きている人間の確かな温もり。


 恵は、その温もりを確かめるようにしばらくじっと、動かなかった。

彼女の視線は、愛おしい我が子の寝顔にただひたすらに注がれている。


 全ての、疑問は残されたままだ。


 健太の死。

そして、蓮のこの奇跡的な回復。


 一体、あの夜、あの手水舎で、何があったのか。

恵が心の中で唱えた、たった一つの願いとは何だったのか。


 彼女は、本当に九つの掟を完璧に成功させたのだろうか。

それとも、敢えて何かを間違えることで、別の何かを成就させたのだろうか。


 恐怖の先に、あったもの。


 それは、安堵か。

それとも、これから始まる新たな地獄の入り口か。

その答えを知る者はもう誰もいない。


 ただ。


 眠る我が子を見つめる恵のその口元に、誰にも、気づかれることなく、あの時と同じ微かな、しかし、確かな笑みが再び、ゆっくりと浮かび上がっていたことだけが、この物語の一つの真実だった。

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