第四十三話:ホテルの発見
沙織は、両手に提げたビニール袋の重みを感じながら、ホテルの長い廊下を、少しだけ早足で歩いていた。
袋の中では、冷たいペットボトル同士がぶつかり合い、カコン、と、乾いた音を立てている。
健太さんの、あの、尋常じゃない苦しみよう。
大丈夫だろうか。ただの、飲み過ぎならいいのだけど。
彼女の心の中は、心配と、そして、ほんの少しの苛立ちが入り混じっていた。
せっかくの、久しぶりの再会だったのに。
甘い夜を、一緒に過ごせると思っていたのに。
彼の、あの、異常なまでの喉の渇きと、苦悶の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
廊下の、柔らかな絨毯が、足音を吸収する。
壁に飾られた、趣味の良い抽象画も、磨き上げられた、ルームナンバーのプレートも、全てが、非日常的な、高級感を醸し出している。
その、完璧に管理された、静かな空間を歩きながら、沙織は、先ほどの、部屋の中での出来事だけが、まるで、質の悪い、悪夢の一場面のように感じられた。
部屋の前に、たどり着く。
ハンドバッグから、カードキーを取り出し、センサーにかざす。
ぴっ、という、電子音と共に、緑色のランプが点灯した。
「健太さん、お水、買ってきたわよ。
大丈夫?」
彼女は、ドアノブに手をかけながら、明るい声を作って、中に呼びかけた。
返事はない。
きっと、ベッドで、ぐったりしているのだろう。
沙織は、小さく溜息をつくと、ドアを開けた。
その、瞬間だった。
ぶわり、と。部屋の中から、凄まじい悪臭が、彼女の鼻腔を、暴力的に、襲った。
「……うっ!?」
思わず、顔をしかめ、鼻を覆う。
なんだ、この匂いは。
それは、都会の、高級ホテルには、およそ、存在するはずのない匂い。
長い間、放置された、沼。
あるいは、水が腐った、古い、下水道。
黴と、ヘドロと、そして、何かが、決定的に、腐敗したような、甘く、吐き気を催す、死の匂い。
そして、彼女は、気づいた。足元に、冷たい、感触。
視線を、下に、落とす。
「……え?」
声が、漏れた。
部屋の、ドアの、その隙間から。
黒く、濁った水が、じわり、と、廊下の絨毯へと、染み出してきている。
何?
水漏れ?
お風呂の水を、出しっぱなしにでもしたのだろうか?
沙織の頭の中は、混乱していた。
しかし、まだ、この時点では、彼女の思考は、あくまで、常識の範囲内にあった。
彼女は、意を決して、ドアを、完全に、開け放った。
そして、そこに広がっていた光景を、目にした。
「………………………」
言葉が、出なかった。
声も、出ない。
呼吸さえも、止まっていた。
思考が、完全に、停止する。
目の前に、広がっていたのは。
もはや、自分たちが、さっきまで、愛を語り合っていた、あの、豪華な部屋では、なかった。
そこは、水底だった。
黒く、濁った、淀んだ水が、部屋の、全てを、覆い尽くしていた。水深は、足首ほどだろうか。
その、不気味な水面には、ひっくり返ったテーブルの脚や、ルームサービスの皿、シャンパンのボトル、そして、沙織が、彼のために、と、買ってきたばかりの、オリーブの実が、ぷかぷかと、虚しく、浮かんでいる。
壁紙は、水を吸って、醜く膨れ上がり、ところどころ、剥がれ落ちている。
窓ガラスは、内側から、びっしょりと濡れ、その向こう側に広がるはずの、美しい夜景を、歪んだ、悪夢の景色へと、変貌させていた。
何が、起きたのか。
理解が、追いつかない。
頭が、理解することを、拒絶している。
「……けんた、さん……?」
震える声で、呼びかけた。
彼の名前を呼ぶことが、この、悪夢のような光景の中に、唯一の、現実のアンカーを見つけ出すための、最後の、試みだった。
返事は、ない。
沙織は、無意識に、一歩、部屋の中へと、足を踏み入れていた。
履いていた、お気に入りの、ハイヒールが、ちゃぷん、と、冷たい、汚水に、沈む。
その、不快な感触で、ようやく、彼女の、麻痺していた感覚が、少しだけ、戻ってきた。
彼女は、濁った水の中を、ゆっくりと、進んだ。
水は、氷のように、冷たかった。
そして、ついに、彼女は、それを見つけた。
部屋の、隅。
窓際に、打ち上げられるようにして、横たわっている、何か。
それは、一見すると、人間のようには、見えなかった。
まるで、どこかの、博物館から盗み出してきたかのような、古い、古い、ミイラ。
あるいは、打ち捨てられた、マネキン人形。
細く、枯れ枝のようになった、手足。
ありえない角度に、捩じ曲がった、身体。
その身体に、まるで、ゴミのように、張り付いている、高価だったはずの、シャツと、スラックス。
沙織は、恐る恐る、それに、近づいた。
心臓が、警告の鐘を、乱打している。逃げろ、と。見るな、と。
だが、彼女の足は、まるで、金縛りにあったかのように、動かなかった。
そして、彼女は、その、顔を、見てしまった。
皮膚は、完全に、水分を失い、干からびて、ひび割れている。
その色は、土気色を通り越し、まるで、燻された、木材のようだった。
頬は、極限までこけ、その下の、骨の形が、くっきりと、浮かび上がっている。
目は、深く、深く、落ち窪み、その奥で、二つの、乾ききった、くすんだ、光のない球体が、虚空を見つめている。
その、人間離れした、あまりにも、おぞましい、死の造形の中で。
唯一、生々しい、何かを、湛えている場所があった。
口元だ。
ひび割れた、唇の、その隙間。
そこから、白い、粘着質の、泡が、いくつも、溢れ出していた。
それは、まるで、彼が、その最後の瞬間に、石鹸でも、食わされたかのようだった。
沙織は、その、顔を、じっと、見つめた。
そして、理解した。
この、干からびた、化け物が。
数十分前まで、自分を、優しい声で、抱きしめていた、恋人なのだ、と。
高橋健太、その人、なのだ、と。
理解した、瞬間。
彼女の、喉の奥から、ついに、声が、ほとばしり出た。
「ああああぁぁぁぁーーー!!」
しばらくして、少し意識を取り戻した彼女は、震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出した。
指先が、冷たくて、なかなか画面をスワイプできない。
何度も試み、ようやく、緊急電話の番号を呼び出す。
「……警察……警察ですか?!
た、助けてください……!」
彼女の声は、恐怖と混乱で震え、まともに言葉にならない。
「ホテルで……部屋が……
水が……人が……人が、干からびて……!」
ホテルの一室から、女性の悲鳴と、支離滅裂な叫び声が、夜の廊下に虚しく響き渡った。




