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死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

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第四十三話:ホテルの発見

 沙織は、両手に提げたビニール袋の重みを感じながら、ホテルの長い廊下を、少しだけ早足で歩いていた。


 袋の中では、冷たいペットボトル同士がぶつかり合い、カコン、と、乾いた音を立てている。

健太さんの、あの、尋常じゃない苦しみよう。

大丈夫だろうか。ただの、飲み過ぎならいいのだけど。


 彼女の心の中は、心配と、そして、ほんの少しの苛立ちが入り混じっていた。

せっかくの、久しぶりの再会だったのに。

甘い夜を、一緒に過ごせると思っていたのに。


 彼の、あの、異常なまでの喉の渇きと、苦悶の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。


 廊下の、柔らかな絨毯が、足音を吸収する。

壁に飾られた、趣味の良い抽象画も、磨き上げられた、ルームナンバーのプレートも、全てが、非日常的な、高級感を醸し出している。


 その、完璧に管理された、静かな空間を歩きながら、沙織は、先ほどの、部屋の中での出来事だけが、まるで、質の悪い、悪夢の一場面のように感じられた。


 部屋の前に、たどり着く。

ハンドバッグから、カードキーを取り出し、センサーにかざす。

ぴっ、という、電子音と共に、緑色のランプが点灯した。


 「健太さん、お水、買ってきたわよ。

大丈夫?」


 彼女は、ドアノブに手をかけながら、明るい声を作って、中に呼びかけた。

返事はない。

きっと、ベッドで、ぐったりしているのだろう。


 沙織は、小さく溜息をつくと、ドアを開けた。


 その、瞬間だった。


 ぶわり、と。部屋の中から、凄まじい悪臭が、彼女の鼻腔を、暴力的に、襲った。


 「……うっ!?」


 思わず、顔をしかめ、鼻を覆う。

なんだ、この匂いは。


 それは、都会の、高級ホテルには、およそ、存在するはずのない匂い。

長い間、放置された、沼。

あるいは、水が腐った、古い、下水道。

黴と、ヘドロと、そして、何かが、決定的に、腐敗したような、甘く、吐き気を催す、死の匂い。


 そして、彼女は、気づいた。足元に、冷たい、感触。


 視線を、下に、落とす。


 「……え?」

 声が、漏れた。


 部屋の、ドアの、その隙間から。

黒く、濁った水が、じわり、と、廊下の絨毯へと、染み出してきている。


 何?

水漏れ?

お風呂の水を、出しっぱなしにでもしたのだろうか?


 沙織の頭の中は、混乱していた。

しかし、まだ、この時点では、彼女の思考は、あくまで、常識の範囲内にあった。


 彼女は、意を決して、ドアを、完全に、開け放った。


 そして、そこに広がっていた光景を、目にした。


 「………………………」


 言葉が、出なかった。

声も、出ない。

呼吸さえも、止まっていた。

思考が、完全に、停止する。


 目の前に、広がっていたのは。

もはや、自分たちが、さっきまで、愛を語り合っていた、あの、豪華な部屋では、なかった。


 そこは、水底だった。


 黒く、濁った、淀んだ水が、部屋の、全てを、覆い尽くしていた。水深は、足首ほどだろうか。

その、不気味な水面には、ひっくり返ったテーブルの脚や、ルームサービスの皿、シャンパンのボトル、そして、沙織が、彼のために、と、買ってきたばかりの、オリーブの実が、ぷかぷかと、虚しく、浮かんでいる。


 壁紙は、水を吸って、醜く膨れ上がり、ところどころ、剥がれ落ちている。

窓ガラスは、内側から、びっしょりと濡れ、その向こう側に広がるはずの、美しい夜景を、歪んだ、悪夢の景色へと、変貌させていた。


 何が、起きたのか。

理解が、追いつかない。

頭が、理解することを、拒絶している。


 「……けんた、さん……?」


 震える声で、呼びかけた。

彼の名前を呼ぶことが、この、悪夢のような光景の中に、唯一の、現実のアンカーを見つけ出すための、最後の、試みだった。


 返事は、ない。


 沙織は、無意識に、一歩、部屋の中へと、足を踏み入れていた。

履いていた、お気に入りの、ハイヒールが、ちゃぷん、と、冷たい、汚水に、沈む。

その、不快な感触で、ようやく、彼女の、麻痺していた感覚が、少しだけ、戻ってきた。


 彼女は、濁った水の中を、ゆっくりと、進んだ。

水は、氷のように、冷たかった。


 そして、ついに、彼女は、それを見つけた。


 部屋の、隅。

窓際に、打ち上げられるようにして、横たわっている、何か。


 それは、一見すると、人間のようには、見えなかった。

まるで、どこかの、博物館から盗み出してきたかのような、古い、古い、ミイラ。

あるいは、打ち捨てられた、マネキン人形。


 細く、枯れ枝のようになった、手足。

ありえない角度に、捩じ曲がった、身体。

その身体に、まるで、ゴミのように、張り付いている、高価だったはずの、シャツと、スラックス。


 沙織は、恐る恐る、それに、近づいた。

心臓が、警告の鐘を、乱打している。逃げろ、と。見るな、と。


 だが、彼女の足は、まるで、金縛りにあったかのように、動かなかった。


 そして、彼女は、その、顔を、見てしまった。


 皮膚は、完全に、水分を失い、干からびて、ひび割れている。

その色は、土気色を通り越し、まるで、燻された、木材のようだった。

頬は、極限までこけ、その下の、骨の形が、くっきりと、浮かび上がっている。

目は、深く、深く、落ち窪み、その奥で、二つの、乾ききった、くすんだ、光のない球体が、虚空を見つめている。


 その、人間離れした、あまりにも、おぞましい、死の造形の中で。

唯一、生々しい、何かを、湛えている場所があった。


 口元だ。


 ひび割れた、唇の、その隙間。

そこから、白い、粘着質の、泡が、いくつも、溢れ出していた。

それは、まるで、彼が、その最後の瞬間に、石鹸でも、食わされたかのようだった。


 沙織は、その、顔を、じっと、見つめた。

そして、理解した。


 この、干からびた、化け物が。


 数十分前まで、自分を、優しい声で、抱きしめていた、恋人なのだ、と。


 高橋健太、その人、なのだ、と。


 理解した、瞬間。


 彼女の、喉の奥から、ついに、声が、ほとばしり出た。


 「ああああぁぁぁぁーーー!!」


 しばらくして、少し意識を取り戻した彼女は、震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出した。


 指先が、冷たくて、なかなか画面をスワイプできない。

何度も試み、ようやく、緊急電話の番号を呼び出す。


 「……警察……警察ですか?! 

た、助けてください……!」


 彼女の声は、恐怖と混乱で震え、まともに言葉にならない。


 「ホテルで……部屋が……

水が……人が……人が、干からびて……!」


 ホテルの一室から、女性の悲鳴と、支離滅裂な叫び声が、夜の廊下に虚しく響き渡った。

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