第四十二話:奪われた生気
健太の意識は、薄れゆく光だった。
暗く、冷たい水底へと、ゆっくりと、しかし、抗いようもなく沈んでいく。
肉体を苛むのは、窒息と渇きという、相反する、しかし、どちらも究極の苦痛。
精神を蝕むのは、自らが犯した、取り返しのつかない過ちの、無限ループ。
もはや、もがく力は、残されていなかった。
全身に絡みついた、水子の濡れた髪の毛は、彼の四肢から、完全に力を奪い去っていた。それは、もはや、単なる拘束具ではない。
健太は、その時、感じていた。
自分の身体から、何かが、急速に、吸い上げられていくのを。
髪の毛の一本一本が、まるで、無数の、細い、冷たいストローのように、彼の皮膚に突き刺さり、その内側にある、生命の源そのものを、じゅるり、と、音を立てて、啜っている。
それは、水分だった。
血液、リンパ液、細胞を満たす、ありとあらゆる液体。
人間という存在を、瑞々しく、生きたものとして成り立たせている、全ての「生気」。
水子は、それを、健太から、水と共に、回収していたのだ。
彼の命を、奪い去る。
その行為は、殺意や憎しみといった、熱い感情の発露ではなかった。
ただ、冷徹に、淡々と、必要なものを「回収」していく、システムの一部。
まるで、乾いたスポンジが、水を吸い上げるように、あまりにも、自然で、不可逆的な、現象だった。
健太の身体が、見る見るうちに、変化していく。
最初に、皮膚が、その弾力を失った。
潤いを奪われた肌は、急速に縮み、まるで、鞣される前の、生皮のように、硬く、強張っていく。
指先から、足先から、末端という末端が、急速に、その色を失い、土気色へと変わっていく。
次に、筋肉が、悲鳴を上げた。
水分を失った筋繊維は、激しく痙攣し、そして、硬直する。
それは、まるで、強い電流を流されたかのように、彼の身体を、ありえない角度へと、捩じ曲げていった。
指は、苦痛に歪み、鉤爪のように、内側へと曲がり込む。
足は、つっぱり、背中は、大きく、反り返った。
ぎしり、と、骨がきしむ、おぞましい音が、彼自身の耳に、聞こえた。
そして、顔。
ふっくらとしていたはずの頬は、急速にこけ、眼窩は、深く、深く、落ち窪んでいく。
眼球そのものが、水分を失い、萎んでいくのだ。
もはや、その瞳に、恐怖の色はなかった。
ただ、乾ききった、二つの、くすんだビー玉が、虚空を、見つめているだけ。
髪に覆われた口元が、わずかに、開く。
そこから漏れ出るのは、もはや、喘ぎ声ではない。
ぱさぱさ、と、乾いた、紙が擦れるような音だけだった。
全身に広がっていた、あの、青黒い水痕は、この、急激な身体の変化の中で、最後の、不気味な輝きを放っていた。
呪いが、その宿主の、最後の生命力を、根こそぎ、吸い尽くす。
その、祝祭のように。
水痕は、一瞬、燃え上がるような、深い、深い、藍色に輝き、そして、身体全体の水分が、完全に失われるのと同時に、その色を、急速に、失っていった。
それは、まるで、インクで描かれた紋様が、強い光で、焼き尽くされていくかのようだった。
健太の身体は、ほんの、数十秒の間に、生きた人間のそれから、完全に、変質してしまった。
それは、まるで、何百年も、砂漠の砂の中に、埋められていたかのような、ミイラ。
干からび、ひび割れた、褐色の皮膚が、骨の形を、くっきりと、浮かび上がらせている。
その身体からは、もはや、生命の気配など、微塵も、感じられなかった。
しかし、その、乾ききった、死のオブジェの中で唯一、生々しい「濡れ」を、湛えている場所があった。
口元だ。
ひび割れた、唇の、その隙間から。
ぷくり、と、一つの、泡が、生まれた。
それは、透明な、水の泡ではなかった。
粘度が高く、白濁した、不気味な泡。
ゆっくりと、その形を保ったまま、唇の上を、滑り落ちる。
そして、また一つ、ぷくり、と、新たな泡が、生まれる。
彼の、身体の、最後の、最後の水分。
呪いによって、汚染され、変質した、死の泡。
それが、彼の、最後の呼吸の代わりに、口元から、不気味に、そして、静かに、溢れ出していた。
その泡からは、あの、古い水の、淀んだ匂いが、微かに、漂っていた。
水子は、その様子を、ただ、じっと、見つめていた。
健太に絡みついていた、濡れた黒髪が、するり、と、その役目を終えたかのように、干からびた身体から、離れていく。
そして、健太の口元から、最後の、ひときわ大きな泡が、ぷくん、と生まれ、音もなく、弾けた、その瞬間。
ゴオオオオオオオオッ!
水子の、身体から。
その、青白い、細長い、人ならざる者の、全身から。
大量の、水が、噴出した。
それは、もはや、噴出という、生易しいものではない。
決壊、あるいは、爆発。
凄まじい勢いで、黒く、淀んだ水が、部屋中に、叩きつけられた。
天井に、壁に、床に。
豪華だったはずの、ホテルの一室が、一瞬にして、濁流に飲み込まれる。
水は、冷たく、そして、重かった。
それは、ただの水ではない。
健太から吸い上げた、生気。
そして、それまでに、この呪いで命を落とした、数えきれないほどの、犠牲者たちの、無念と、絶望が、凝縮された、呪いの奔流。
テーブルが、なぎ倒される。
シャンパングラスが、粉々に、砕け散る。
ベッドの、上質なリネンが、汚水を吸い込み、鉛色に、変色していく。
部屋の中は、あっという間に、足首まで、水に浸かった。
そして、その水面には、倒れた調度品や、食べかけの料理が、ぷかぷかと、虚しく、浮かんでいる。
健太の、干からびた、ミイラのような身体も、その、濁流に、なすすべもなく、押し流された。
彼は、まるで、一本の、枯れ枝のように、水面を漂い、そして、部屋の隅の、壁際に、ごつん、と、軽い音を立てて、打ち上げられた。
その、口元からは、未だに、不気味な、白い泡が、ぷくぷくと、溢れ続けている。
水子は、その、全てが、水浸しになった、部屋の、中央に、まだ、立っていた。
彼女の身体からは、もう、水は噴き出してはいない。
だが、その輪郭が、徐々に、曖昧になっていく。
まるで、水の中に、インクを垂らしたかのように、その、青白い身体が、周囲の、黒い水へと、溶け込んでいくのだ。
実体を失い、色を失い、形を失い。
やがて、彼女は、完全に、この、部屋を満たす、呪いの水そのものと、同化した。
後に、残されたのは、水浸しになり、高級ホテルの面影など、どこにも残っていない、墓場のような、一室。
そして、その、水面に、虚ろな、乾ききった目で、天井を見上げる、一体の、ミイラだけ。
部屋の中には、ただ、ちゃぷん、ちゃぷん、という水が揺れる音と、古い、古い、水の匂いだけが、満ちていた。




