第四十一話:恐怖の襲撃
時間が、引き伸ばされていた。
ホテルの一室の隅で、健太は、死の化身と、ただ、対峙していた。
一秒が、一分に。一分が、一時間に。
その、永遠にも感じられる静寂の中で、健太の思考は、恐怖と混乱の濁流に飲み込まれていた。
水子。
なぜ。
どうして、ここに。
呪いは、解けたはずではなかったのか。
恵の、あの儀式は、一体、何だったというのだ。
疑問が、次から次へと湧き上がる。
だが、答えを与えてくれる者は、どこにもいない。
目の前に立つ、この、濡れた女の姿が、全ての答えだった。
それは、紛れもない、失敗の証明。
そして、これから訪れる、確定した、死の宣告。
水子は、動かない。
ただ、そこに立ち、その虚無の瞳で、健太を、じっと、見つめているだけ。
その、何のアクションも起こさないという事実が、逆に、健太の恐怖を、じわじわと、際限なく増幅させていった。
嵐の前の、不気味な静けさ。
早く、沙織が、帰ってくれば。
ドアが開き、彼女が、この異常な光景を目にすれば、きっと、悲鳴を上げて、誰かを呼んでくれる。
そうすれば、助かるかもしれない。
そんな、儚い、あまりにも儚い希望が、健太の脳裏をよぎる。
だが、心のどこかで、分かっていた。
もう、誰も、助けには来ない。
たとえ、沙織が戻ってきたとしても、彼女に見えるのは、この世の者とは思えない、恐怖の光景だけだろう。
そして、彼女もまた、この呪いに、巻き込まれてしまうかもしれない。
その時だった。
それまで、石像のように、微動だにしなかった水子の、足元で。
床のカーペットに、水滴を滴らせていた、濡れた黒髪の、その先端が。
ぴくり、と、動いた。
それは、まるで、冬眠から目覚めた、一匹の蛇のようだった。
健太は、息を呑んだ。
髪の毛の一筋が、まるで、意思を持ったかのように、するり、と、床の上を這い始めたのだ。
それは、ただ、伸びているのではなかった。
生き物のように、蠢き、進んでいく。
音もなく、滑るように、カーペットの上を、健太に向かって。
一筋だけではない。
水子の、全身を覆う、無数の髪の毛が、次から次へと、生命を宿し、床へと流れ落ち、そして、四方八方から、健太に向かって、這い寄り始めた。
それは、まるで、黒い、おぞましい、蛇の巣。
「……ひっ……」
健太の喉から、引きつった、かすかな音が漏れた。
彼は、壁に背中を押し付けたまま、もう、一ミリたりとも、動くことができない。
黒い、濡れた髪の毛の津波が、ゆっくりと、しかし、確実に、自分へと迫ってくる。
その光景は、悪夢以外の、何物でもなかった。
最初に、足に、触れた。
ひやり、とした、氷のような冷たさ。
そして、ずしりとした、水を含んだ、重み。
一筋の髪の毛が、彼のズボンの裾に触れ、そして、まるで蔦が木に絡みつくように、するすると、足首に巻き付いていく。
「やめ……
やめろ……っ!」
健太は、最後の抵抗を試みた。
足を、ばたつかせる。
だが、その髪の毛は、見た目からは想像もできないほどの、強靭な力で、彼の足首を締め付けていた。びくともしない。
それどころか、彼の抵抗に呼応するかのように、他の、無数の髪の毛が、一斉に、彼の身体に、襲いかかった。
両足に、両腕に、胴体に。
濡れた、冷たい、重い髪の毛が、幾重にも、幾重にも、絡みついてくる。
それは、もはや、拘束ではなかった。
水死体を、川底の藻が、優しく、しかし、決して離さぬように、抱きしめているかのようだった。
そして、ついに、数本の髪の毛が、彼の首筋を、這い上がってきた。
耳元で、ぽたり、と、水滴が落ちる音がする。
腐った水の匂いが、鼻腔を、直接、刺激する。
健太の全身が、総毛立った。
髪の毛は、彼の首を締め上げることはしなかった。
ただ、その冷たい感触で、彼の肌を撫で、そして、ゆっくりと、顔の方へと、その先端を進めていく。
頬を、撫でる。
顎を、なぞる。
そして、ついに。
彼の、口と、鼻を、分厚く、濡れた、髪の毛の塊が、完全に、覆い尽くした。
「んんっ……!
んぐっ……!」
息が、できない。
必死に、空気を吸い込もうとしても、肺に入ってくるのは、黴臭い、冷たい、水気だけ。
そして、鼻腔と、口内を、ぬるりとした、髪の毛の感触が、蹂躙していく。
窒息。
その、単純で、根源的な恐怖が、健太を支配した。
だが、彼を襲った苦痛は、それだけではなかった。
異常なまでの、喉の渇き。
身体中の水分が、全て、蒸発してしまったかのような、焼けるような、引き裂かれるような渇きが、窒息の苦しみと、同時に、彼を襲ったのだ。
空気が欲しい。
水が欲しい。
その、二つの、相反する、しかし、どちらも、生命維持に不可欠な欲求が、彼の体内で、激しく衝突し、彼の精神を、内側から、破壊していく。
溺れているのに、干上がっていく。
なんと、矛盾した、地獄だろうか。
彼は、もがいた。
髪の毛に、完全に拘束された身体を、必死に、動かそうとした。
だが、それは、呪いの力の前では、赤子の抵抗にも等しかった。
そして、その、肉体的な苦痛の、絶頂の中で。
彼の脳裏に、ある、映像が、鮮明な、水滴のように、フラッシュバックした。
――夜の、廃神社。
――闇の中で、ぼんやりと光る、手水舎。
――ひやりとした、石の感触。
あの日の、記憶。
自分が、この地獄を、招き入れた、全ての元凶。
映像は、さらに、鮮明になる。
自分の手が、右手で、柄杓を、取っている。
そして、左の手のひらに、水を、溜める。
その水を、口元へと、運んでいく。
その、瞬間。
彼の唇が、冷たい、竹の、柄杓の縁に、ほんの、わずかに、触れた。
――ダメだ、触れては、いけない――
頭の中で、誰かの、声がした。
恵の声だろうか。
いや、違う。もっと、冷たい、響き。
だが、その時の自分は、焦っていた。
暗闇と、一人きりの恐怖の中で、そんな、些細なことに、気づく余裕など、なかった。
そして、口に含んだ水を、ゆすぐ。
――音を、立てるな――
再び、声が響く。
だが、その時の自分は、そんなこと、気にも留めなかった。
ごぷり、と、喉の奥で、確かに、音がした。
そして、吐き出した水が、ぴちゃり、と、音を立てて、地面を叩いた。
――ああ、間違えた――
――また、一人、間違えた――
その声と同時に、目の前の、手水舎の水面が、ぐにゃり、と歪み、そこから、黒い髪の女が、浮かび上がってくる。
「あああああっ!」
健太は、心の中で、絶叫した。
なぜ、今、こんなにも、鮮明に、あの日の記憶が、蘇るのだ。
忘れたい、忘れてしまいたい、自分の、愚かな過ち。
それを、まるで、見せつけられているかのように、脳内で、何度も、何度も、繰り返し、再生される。
柄杓が、唇に触れる感触。
水を、ゆすいだ、音。
その、一つ一つが、鋭い、氷の刃となって、健太の、後悔と、絶望を、徹底的に、抉り続けた。
彼は、理解できないまま、苦しみ、もがいた。
この、フラッシュバックが、ただの記憶ではないことを。
これもまた、水子による、残忍で、冷徹な、攻撃の一部なのだということを。
肉体を、渇きと窒息で苦しめながら。
精神を、後悔と絶望で、蝕んでいく。
それが、「死に水」の呪いの、真の、恐怖。
やがて、健太の、もがく力は、徐々に、弱まっていった。
肺の中の、最後の空気が、奪い尽くされる。
意識が、遠のいていく。
薄れゆく、意識のその瞬間に。
彼の脳裏に映ったのは。
自分の、愚かな過ちを、ただ、ひたすらに、繰り返し再生する、鮮明な、水滴の映像だけだった。




