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死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

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第四十一話:恐怖の襲撃

 時間が、引き伸ばされていた。


 ホテルの一室の隅で、健太は、死の化身と、ただ、対峙していた。

一秒が、一分に。一分が、一時間に。

その、永遠にも感じられる静寂の中で、健太の思考は、恐怖と混乱の濁流に飲み込まれていた。


 水子。


 なぜ。

どうして、ここに。

呪いは、解けたはずではなかったのか。

恵の、あの儀式は、一体、何だったというのだ。


 疑問が、次から次へと湧き上がる。

だが、答えを与えてくれる者は、どこにもいない。

目の前に立つ、この、濡れた女の姿が、全ての答えだった。


 それは、紛れもない、失敗の証明。

そして、これから訪れる、確定した、死の宣告。


 水子は、動かない。

ただ、そこに立ち、その虚無の瞳で、健太を、じっと、見つめているだけ。

その、何のアクションも起こさないという事実が、逆に、健太の恐怖を、じわじわと、際限なく増幅させていった。


 嵐の前の、不気味な静けさ。

早く、沙織が、帰ってくれば。


 ドアが開き、彼女が、この異常な光景を目にすれば、きっと、悲鳴を上げて、誰かを呼んでくれる。

そうすれば、助かるかもしれない。

そんな、儚い、あまりにも儚い希望が、健太の脳裏をよぎる。


 だが、心のどこかで、分かっていた。

もう、誰も、助けには来ない。

たとえ、沙織が戻ってきたとしても、彼女に見えるのは、この世の者とは思えない、恐怖の光景だけだろう。

そして、彼女もまた、この呪いに、巻き込まれてしまうかもしれない。


 その時だった。


 それまで、石像のように、微動だにしなかった水子の、足元で。

床のカーペットに、水滴を滴らせていた、濡れた黒髪の、その先端が。

ぴくり、と、動いた。

それは、まるで、冬眠から目覚めた、一匹の蛇のようだった。


 健太は、息を呑んだ。

髪の毛の一筋が、まるで、意思を持ったかのように、するり、と、床の上を這い始めたのだ。

それは、ただ、伸びているのではなかった。

生き物のように、蠢き、進んでいく。

音もなく、滑るように、カーペットの上を、健太に向かって。


 一筋だけではない。

水子の、全身を覆う、無数の髪の毛が、次から次へと、生命を宿し、床へと流れ落ち、そして、四方八方から、健太に向かって、這い寄り始めた。

それは、まるで、黒い、おぞましい、蛇の巣。


 「……ひっ……」

健太の喉から、引きつった、かすかな音が漏れた。


 彼は、壁に背中を押し付けたまま、もう、一ミリたりとも、動くことができない。

黒い、濡れた髪の毛の津波が、ゆっくりと、しかし、確実に、自分へと迫ってくる。

その光景は、悪夢以外の、何物でもなかった。


 最初に、足に、触れた。

ひやり、とした、氷のような冷たさ。

そして、ずしりとした、水を含んだ、重み。


 一筋の髪の毛が、彼のズボンの裾に触れ、そして、まるで蔦が木に絡みつくように、するすると、足首に巻き付いていく。


「やめ……

やめろ……っ!」

健太は、最後の抵抗を試みた。


 足を、ばたつかせる。

だが、その髪の毛は、見た目からは想像もできないほどの、強靭な力で、彼の足首を締め付けていた。びくともしない。

それどころか、彼の抵抗に呼応するかのように、他の、無数の髪の毛が、一斉に、彼の身体に、襲いかかった。


 両足に、両腕に、胴体に。

濡れた、冷たい、重い髪の毛が、幾重にも、幾重にも、絡みついてくる。

それは、もはや、拘束ではなかった。

水死体を、川底の藻が、優しく、しかし、決して離さぬように、抱きしめているかのようだった。


 そして、ついに、数本の髪の毛が、彼の首筋を、這い上がってきた。

耳元で、ぽたり、と、水滴が落ちる音がする。

腐った水の匂いが、鼻腔を、直接、刺激する。

健太の全身が、総毛立った。

髪の毛は、彼の首を締め上げることはしなかった。

ただ、その冷たい感触で、彼の肌を撫で、そして、ゆっくりと、顔の方へと、その先端を進めていく。


 頬を、撫でる。


 顎を、なぞる。


 そして、ついに。

彼の、口と、鼻を、分厚く、濡れた、髪の毛の塊が、完全に、覆い尽くした。


「んんっ……!

んぐっ……!」

息が、できない。


 必死に、空気を吸い込もうとしても、肺に入ってくるのは、黴臭い、冷たい、水気だけ。

そして、鼻腔と、口内を、ぬるりとした、髪の毛の感触が、蹂躙していく。


 窒息。


その、単純で、根源的な恐怖が、健太を支配した。

だが、彼を襲った苦痛は、それだけではなかった。

異常なまでの、喉の渇き。

身体中の水分が、全て、蒸発してしまったかのような、焼けるような、引き裂かれるような渇きが、窒息の苦しみと、同時に、彼を襲ったのだ。


 空気が欲しい。

 水が欲しい。


その、二つの、相反する、しかし、どちらも、生命維持に不可欠な欲求が、彼の体内で、激しく衝突し、彼の精神を、内側から、破壊していく。

溺れているのに、干上がっていく。

なんと、矛盾した、地獄だろうか。


 彼は、もがいた。

髪の毛に、完全に拘束された身体を、必死に、動かそうとした。


 だが、それは、呪いの力の前では、赤子の抵抗にも等しかった。

そして、その、肉体的な苦痛の、絶頂の中で。

彼の脳裏に、ある、映像が、鮮明な、水滴のように、フラッシュバックした。


――夜の、廃神社。


――闇の中で、ぼんやりと光る、手水舎。


――ひやりとした、石の感触。


 あの日の、記憶。

自分が、この地獄を、招き入れた、全ての元凶。

映像は、さらに、鮮明になる。


 自分の手が、右手で、柄杓を、取っている。

そして、左の手のひらに、水を、溜める。

その水を、口元へと、運んでいく。


 その、瞬間。


 彼の唇が、冷たい、竹の、柄杓の縁に、ほんの、わずかに、触れた。


――ダメだ、触れては、いけない――

頭の中で、誰かの、声がした。


 恵の声だろうか。

いや、違う。もっと、冷たい、響き。


 だが、その時の自分は、焦っていた。

暗闇と、一人きりの恐怖の中で、そんな、些細なことに、気づく余裕など、なかった。   


 そして、口に含んだ水を、ゆすぐ。

――音を、立てるな――

再び、声が響く。


 だが、その時の自分は、そんなこと、気にも留めなかった。

ごぷり、と、喉の奥で、確かに、音がした。

そして、吐き出した水が、ぴちゃり、と、音を立てて、地面を叩いた。


――ああ、間違えた――


――また、一人、間違えた――


 その声と同時に、目の前の、手水舎の水面が、ぐにゃり、と歪み、そこから、黒い髪の女が、浮かび上がってくる。


 「あああああっ!」

健太は、心の中で、絶叫した。


 なぜ、今、こんなにも、鮮明に、あの日の記憶が、蘇るのだ。

忘れたい、忘れてしまいたい、自分の、愚かな過ち。

それを、まるで、見せつけられているかのように、脳内で、何度も、何度も、繰り返し、再生される。


 柄杓が、唇に触れる感触。

水を、ゆすいだ、音。

その、一つ一つが、鋭い、氷の刃となって、健太の、後悔と、絶望を、徹底的に、抉り続けた。


 彼は、理解できないまま、苦しみ、もがいた。

この、フラッシュバックが、ただの記憶ではないことを。

これもまた、水子による、残忍で、冷徹な、攻撃の一部なのだということを。


 肉体を、渇きと窒息で苦しめながら。

精神を、後悔と絶望で、蝕んでいく。


 それが、「死に水」の呪いの、真の、恐怖。

やがて、健太の、もがく力は、徐々に、弱まっていった。


 肺の中の、最後の空気が、奪い尽くされる。


 意識が、遠のいていく。

薄れゆく、意識のその瞬間に。


 彼の脳裏に映ったのは。

自分の、愚かな過ちを、ただ、ひたすらに、繰り返し再生する、鮮明な、水滴の映像だけだった。

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