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死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

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第四十話:水子の再臨

 ぽつ……。


 静寂に支配された、だだっ広いホテルの一室。


 その静寂を、針で突き刺すかのように、その音は響いた。


 健太は、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、音のした方へと、恐怖に引きつった顔を向けた。


 気のせいだ。


 そう、必死に自分に言い聞かせようとした。

エアコンの、あるいは、ミニバーの冷蔵庫の、何かの作動音だろう。


 だが。


 ぽつ……。ぽつ……。


 音は、一つではなかった。

 不規則に、しかし、着実に、その間隔を狭めながら、部屋のあちこちから、響き始める。


 それは、水滴が落ちる音だった。


 健太は、よろめきながら立ち上がった。

焼けるような喉の渇きと、全身を襲う倦怠感。

それでも、彼は、この異常事態の原因を突き止めなければ、という一心で、部屋の中を見回した。


 バスルームか?

いや、ドアは固く閉ざされている。


 では、どこから?

彼は、スマートフォンのライトをつけ、床を照らした。


 厚く、柔らかな高級カーペットには、どこにも、濡れた染みは見当たらない。


 だが、空気は、明らかにおかしい。


 沙織が部屋を出て行った、ほんの数分前まで、ここは、乾燥した、快適な空間だったはずだ。


 それが今では、どうだ。


 まるで、梅雨時の、締め切った地下室にでもいるかのように、じっとりとした、不快な湿気が、肌にまとわりついてくる。


 窓ガラスが、内側から、白く曇り始めている。


 磨き上げられていたはずの、テーブルの表面も、指でなぞれば、水分が筋を描くほどに湿っていた。


 そして、匂い。


 沙織の残していった、甘い香水の香りも、シャンパンの芳醇な香りも、全て、どこかへ消え失せていた。


 代わりに、鼻をつくのは、あの匂い。


 あの、忌まわしい廃神社で嗅いだ、古い水の、淀んだ匂い。


 黴と、腐葉土と、そして、長い間、光の当たらなかった場所特有の、陰鬱な匂い。


「……なんだよ……これ……」

 健太は、呻いた。


 喉の渇きが、一層、激しくなる。


 それは、もはや、単なる渇きではなかった。


 身体中の水分が、この、異常な湿度を帯びた空気に、逆流するように吸い出されていくような、恐ろしい感覚。


 彼は、自分の右腕を、強く掴んだ。


 服の上からでも、分かる。

朝、確かに薄れていたはずの、あの青い水痕が、再び、その存在を主張し始めている。


 皮膚の下で、呪いが、再び、脈打ち始めているのだ。


 呪いは、解けてなどいなかった。

恵の、あの儀式は、失敗したのだ。


 いや、あるいは。


 健太の脳裏に、あの時の、恵の、感情の読めない、複雑な表情が蘇る。


 あの表情は、一体、何だったのか。


 ぽつ……。


 ぴちゃ。


 今度は、すぐ近くで、はっきりとした音がした。

 健太が、弾かれたように、音のした方を見る。


 部屋の中央。


 豪華なシャンデリアの真下の、カーペットの上。

そこに、黒い、染みができていた。


 最初は、十円玉ほどの大きさだったそれが、まるで、意思を持った生き物のように、じわり、じわりと、その範囲を広げていく。


 カーペットが、水を吸っているのではない。

その染みの中心から、水が、湧き出しているのだ。


 ぽつ、ぽつ、と、天井から水が滴っているわけでもない。


 カーペットそのものが、この部屋の空気が、悲鳴を上げるように、涙を流している。


 染みは、見る見るうちに、大きくなっていく。

それは、やがて、黒く、淀んだ、水たまりを形成した。


 間接照明の、オレンジ色の光を、まるで深淵のように、吸い込み、反射しない、不気味な水鏡。


 健太は、後ずさった。


 背中が、壁に、ごつん、とぶつかる。

もう、逃げ場はない。


 彼は、その水たまりから、目を離すことができなかった。


 そして、その、黒い水鏡の中心が、もこり、と、静かに、盛り上がった。


 水面に、波紋が広がる。


 最初に、現れたのは、髪の毛だった。

水底から、まるで、溺れた人間の、最後の助けを求める手のように、何本もの、濡れた、黒い髪の毛が、ゆっくりと、姿を現した。


 それは、水草のように、ゆらゆらと、水面を漂う。


 健太の、喉が、ひゅっ、と鳴った。

声にならない、悲鳴。


 髪の毛に続いて、水面が、さらに、大きく、盛り上がる。


 青白い、何かが、ぬるり、と、その姿を現した。


 それは、人間の、頭頂部だった。

水の中から、ゆっくりと、しかし、確実に、何者かが、生まれ出ようとしている。


 黒髪が、その青白い顔に、べったりと張り付き、その表情を隠している。


 やがて、肩が、腕が、胴体が、まるで、粘度の高い液体の中から、身体を引き剥がすように、現れ出た。


 その全てが、異常に細長く、関節の位置がおかしい。


 まるで、人間の骨格を、一度、バラバラにして、適当に繋ぎ合わせたかのような、歪なフォルム。


 健太は、その場で、腰を抜かしていた。

恐怖で、全身の力が抜け、ただ、へたり込むことしかできない。


 やがて、その人影は、完全に、水たまりの中から、立ち上がった。

それは、音もなく、滑るように、健太の前に、立った。


 水子。


 常に濡れた黒髪が、顔を、そして、身体の前面を、覆い隠している。


 その隙間から、わずかに覗く肌は、人間とは思えないほど、青白く、透き通っているかのようだ。


 その、青白い肌の上には、健太の腕にあるものと同じ、青黒い水痕が、不気味な紋様を描いて、脈打っていた。


 身にまとっているのは、水に濡れて、身体に張り付いた、薄い、白衣のようなもの。


 その、細長く、しなやかな四肢からは、ぽたり、ぽたりと、絶え間なく、水滴が滴り落ち、床のカーペットに、新たな染みを作っていく。


 健太は、恐怖に震えながら、その顔を見上げた。

髪の毛の隙間から、目が、合った。


 それは、目ではなかった。


 光を、一切、吸い込まない、深い、深い、水底。

喜びも、悲しみも、怒りも、憎しみも、何もない。


 ただ、どこまでも続く、冷たい、虚無。


 その瞳に見つめられた瞬間、健太は、自分の魂が、その深淵に、引きずり込まれていくような、錯覚に陥った。


「あ……あ……」

 健太は、何かを言おうとした。


 助けを、乞おうとした。

だが、その言葉は、焼けるように乾いた喉に阻まれ、意味のない、かすれた音にしかならない。


 彼は、後ずさった。

床にへたり込んだまま、両手両足を使って、必死に、その場から、逃れようとした。


 だが、水子は、追ってこない。


 ただ、その場に立ち尽くし、その虚無の瞳で、健太の、無様で、滑稽な動きを、じっと、見つめているだけだった。


 健太の背中が、部屋の隅の、壁に、再び、ぶつかる。


 今度こそ、本当の、行き止まり。

彼は、恐怖に歪んだ顔で、水子を見上げた。


 助からない。

もう、逃げられない。


 呪いは、解けてなど、いなかったのだ。

恵の儀式は、何の効果ももたらさなかった。


 いや、もしかしたら、この、最悪の事態を、招き寄せるための、引き金に過ぎなかったのかもしれない。


 健太の脳裏を、後悔と、絶望が、嵐のように駆け巡る。

なぜ、あんな、ふざけた気持ちで、儀式など、やってしまったのか。

なぜ、恵の忠告を、真摯に、受け止めなかったのか。


 だが、もう、遅い。


 目の前に立つ、静かな、死の化身が、その事実を、何よりも、雄弁に、物語っていた。

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