第四十話:水子の再臨
ぽつ……。
静寂に支配された、だだっ広いホテルの一室。
その静寂を、針で突き刺すかのように、その音は響いた。
健太は、喘ぐような呼吸を繰り返しながら、音のした方へと、恐怖に引きつった顔を向けた。
気のせいだ。
そう、必死に自分に言い聞かせようとした。
エアコンの、あるいは、ミニバーの冷蔵庫の、何かの作動音だろう。
だが。
ぽつ……。ぽつ……。
音は、一つではなかった。
不規則に、しかし、着実に、その間隔を狭めながら、部屋のあちこちから、響き始める。
それは、水滴が落ちる音だった。
健太は、よろめきながら立ち上がった。
焼けるような喉の渇きと、全身を襲う倦怠感。
それでも、彼は、この異常事態の原因を突き止めなければ、という一心で、部屋の中を見回した。
バスルームか?
いや、ドアは固く閉ざされている。
では、どこから?
彼は、スマートフォンのライトをつけ、床を照らした。
厚く、柔らかな高級カーペットには、どこにも、濡れた染みは見当たらない。
だが、空気は、明らかにおかしい。
沙織が部屋を出て行った、ほんの数分前まで、ここは、乾燥した、快適な空間だったはずだ。
それが今では、どうだ。
まるで、梅雨時の、締め切った地下室にでもいるかのように、じっとりとした、不快な湿気が、肌にまとわりついてくる。
窓ガラスが、内側から、白く曇り始めている。
磨き上げられていたはずの、テーブルの表面も、指でなぞれば、水分が筋を描くほどに湿っていた。
そして、匂い。
沙織の残していった、甘い香水の香りも、シャンパンの芳醇な香りも、全て、どこかへ消え失せていた。
代わりに、鼻をつくのは、あの匂い。
あの、忌まわしい廃神社で嗅いだ、古い水の、淀んだ匂い。
黴と、腐葉土と、そして、長い間、光の当たらなかった場所特有の、陰鬱な匂い。
「……なんだよ……これ……」
健太は、呻いた。
喉の渇きが、一層、激しくなる。
それは、もはや、単なる渇きではなかった。
身体中の水分が、この、異常な湿度を帯びた空気に、逆流するように吸い出されていくような、恐ろしい感覚。
彼は、自分の右腕を、強く掴んだ。
服の上からでも、分かる。
朝、確かに薄れていたはずの、あの青い水痕が、再び、その存在を主張し始めている。
皮膚の下で、呪いが、再び、脈打ち始めているのだ。
呪いは、解けてなどいなかった。
恵の、あの儀式は、失敗したのだ。
いや、あるいは。
健太の脳裏に、あの時の、恵の、感情の読めない、複雑な表情が蘇る。
あの表情は、一体、何だったのか。
ぽつ……。
ぴちゃ。
今度は、すぐ近くで、はっきりとした音がした。
健太が、弾かれたように、音のした方を見る。
部屋の中央。
豪華なシャンデリアの真下の、カーペットの上。
そこに、黒い、染みができていた。
最初は、十円玉ほどの大きさだったそれが、まるで、意思を持った生き物のように、じわり、じわりと、その範囲を広げていく。
カーペットが、水を吸っているのではない。
その染みの中心から、水が、湧き出しているのだ。
ぽつ、ぽつ、と、天井から水が滴っているわけでもない。
カーペットそのものが、この部屋の空気が、悲鳴を上げるように、涙を流している。
染みは、見る見るうちに、大きくなっていく。
それは、やがて、黒く、淀んだ、水たまりを形成した。
間接照明の、オレンジ色の光を、まるで深淵のように、吸い込み、反射しない、不気味な水鏡。
健太は、後ずさった。
背中が、壁に、ごつん、とぶつかる。
もう、逃げ場はない。
彼は、その水たまりから、目を離すことができなかった。
そして、その、黒い水鏡の中心が、もこり、と、静かに、盛り上がった。
水面に、波紋が広がる。
最初に、現れたのは、髪の毛だった。
水底から、まるで、溺れた人間の、最後の助けを求める手のように、何本もの、濡れた、黒い髪の毛が、ゆっくりと、姿を現した。
それは、水草のように、ゆらゆらと、水面を漂う。
健太の、喉が、ひゅっ、と鳴った。
声にならない、悲鳴。
髪の毛に続いて、水面が、さらに、大きく、盛り上がる。
青白い、何かが、ぬるり、と、その姿を現した。
それは、人間の、頭頂部だった。
水の中から、ゆっくりと、しかし、確実に、何者かが、生まれ出ようとしている。
黒髪が、その青白い顔に、べったりと張り付き、その表情を隠している。
やがて、肩が、腕が、胴体が、まるで、粘度の高い液体の中から、身体を引き剥がすように、現れ出た。
その全てが、異常に細長く、関節の位置がおかしい。
まるで、人間の骨格を、一度、バラバラにして、適当に繋ぎ合わせたかのような、歪なフォルム。
健太は、その場で、腰を抜かしていた。
恐怖で、全身の力が抜け、ただ、へたり込むことしかできない。
やがて、その人影は、完全に、水たまりの中から、立ち上がった。
それは、音もなく、滑るように、健太の前に、立った。
水子。
常に濡れた黒髪が、顔を、そして、身体の前面を、覆い隠している。
その隙間から、わずかに覗く肌は、人間とは思えないほど、青白く、透き通っているかのようだ。
その、青白い肌の上には、健太の腕にあるものと同じ、青黒い水痕が、不気味な紋様を描いて、脈打っていた。
身にまとっているのは、水に濡れて、身体に張り付いた、薄い、白衣のようなもの。
その、細長く、しなやかな四肢からは、ぽたり、ぽたりと、絶え間なく、水滴が滴り落ち、床のカーペットに、新たな染みを作っていく。
健太は、恐怖に震えながら、その顔を見上げた。
髪の毛の隙間から、目が、合った。
それは、目ではなかった。
光を、一切、吸い込まない、深い、深い、水底。
喜びも、悲しみも、怒りも、憎しみも、何もない。
ただ、どこまでも続く、冷たい、虚無。
その瞳に見つめられた瞬間、健太は、自分の魂が、その深淵に、引きずり込まれていくような、錯覚に陥った。
「あ……あ……」
健太は、何かを言おうとした。
助けを、乞おうとした。
だが、その言葉は、焼けるように乾いた喉に阻まれ、意味のない、かすれた音にしかならない。
彼は、後ずさった。
床にへたり込んだまま、両手両足を使って、必死に、その場から、逃れようとした。
だが、水子は、追ってこない。
ただ、その場に立ち尽くし、その虚無の瞳で、健太の、無様で、滑稽な動きを、じっと、見つめているだけだった。
健太の背中が、部屋の隅の、壁に、再び、ぶつかる。
今度こそ、本当の、行き止まり。
彼は、恐怖に歪んだ顔で、水子を見上げた。
助からない。
もう、逃げられない。
呪いは、解けてなど、いなかったのだ。
恵の儀式は、何の効果ももたらさなかった。
いや、もしかしたら、この、最悪の事態を、招き寄せるための、引き金に過ぎなかったのかもしれない。
健太の脳裏を、後悔と、絶望が、嵐のように駆け巡る。
なぜ、あんな、ふざけた気持ちで、儀式など、やってしまったのか。
なぜ、恵の忠告を、真摯に、受け止めなかったのか。
だが、もう、遅い。
目の前に立つ、静かな、死の化身が、その事実を、何よりも、雄弁に、物語っていた。




