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死に水  作者: 月影 朔
第一章:不穏な兆し

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第四話:都市伝説の囁き

 蓮の病室を出た恵は、重い足取りで病院の廊下を歩いていた。


 蓮の熱はまだ下がりきらず、呼吸も荒いままだった。幼い息子が苦しむ姿を見るたび、恵の心は深くえぐられる。何とかして、蓮をこの苦しみから救い出してやりたい。そのためなら、どんなことでも、どんな手段を選んででも、と恵は心に誓っていた。


 その決意は、もはや彼女の生活の全てであり、生きる意味そのものとなっていた。


 病院を出ると、冷たい夜風が恵の頬を撫でた。都会の喧騒が遠く聞こえる。空には月がぽっかりと浮かび、その光はどこか頼りなく、恵の心をさらに沈ませた。


 翌日、恵はカフェのシフトに入っていた。いつものように同僚と雑談をしながら、コーヒー豆を挽く。芳醇な香りが店内に広がり、客たちの話し声がBGMのように流れていく。表面上は穏やかな日常。しかし、恵の心は、蓮の病のことでざわめき続けていた。


 休憩時間になり、恵はバックヤードのパイプ椅子に腰を下ろした。疲労感が全身を包み込む。スマートフォンの画面を開き、蓮の写真をもう一度眺めた。病室で、か細い呼吸を繰り返す蓮。その小さな命が、今まさに危機に瀕している。


 恵は、蓮の治療のために、できることはすべてやったつもりだった。有名な病院をいくつも巡り、名医と呼ばれる医師にはすべて会った。高額な治療費を捻出するため、休みなく働き続けた。しかし、蓮の病は一向に好転しない。むしろ、悪化の一途を辿っているように思えた。


 手の施しようがない。


 その言葉が、恵の心に重くのしかかる。医学では、もう蓮を救えないのだろうか。そんな絶望が、恵の心を支配しそうになる。だが、恵は諦めなかった。まだ何か、できることがあるはずだ。


 そんなことを考えていると、カウンターから同僚のミキの声が聞こえてきた。


「恵、最近変な都市伝説知ってる?」


 ミキは、休憩中にいつもオカルト系のまとめサイトを見ている好奇心旺盛な同僚だった。普段なら、恵は適当に相槌を打つだけだが、今日のミキの声は、どこか不思議な響きを帯びていた。


「え、何?」


 恵は思わず聞き返した。


「なんかね、廃れた神社にひっそりと佇む手水舎があってさ。そこで特定の作法に従って清めると、どんな願いでも一つだけ叶うらしいよ」


 ミキの声は、まるで秘密を打ち明けるかのように、ひそやかだった。


 恵の心臓が、ドクリと大きく鳴った。


 廃れた神社。手水舎。特定の作法。どんな願いでも一つだけ叶う。


 その言葉が、恵の心に深く、深く突き刺さった。蓮を救いたい。ただその一心で、恵はあらゆる可能性を探っていた。医学的な治療が限界に近づいている今、藁にもすがる思いだった。


「それ、詳しく教えて」


 恵の声は、自分でも驚くほど真剣だった。ミキは恵の剣幕に少し驚いたようだったが、すぐに得意げに話し始めた。


「うん、それがね、けっこう有名な話みたいで、ネットでも話題になってるんだよ。

成就(じょうじゅ)手水(ちょうず)』って呼ばれててさ。

なんか、かなり昔から伝わってるらしいんだ。詳しい場所はちょっと分かりにくいんだけど、この辺りにも、それらしき廃れた神社があるらしいよ」


 ミキは、スマートフォンの画面を恵に向けて見せた。

そこには、都市伝説系のスレッドが表示されていた。スレッドのタイトルには、『奇跡の成就! 願いが叶う手水舎ちょうずしゃ』と書かれている。


 恵は、食い入るようにその画面を見つめた。

そこには、手水舎の古びた写真が何枚か貼られていた。どれもが、苔むした石造りの手水鉢ちょうずばちと、その奥に立つ朽ちかけた社殿を写している。寂れた雰囲気が漂う写真だが、恵の目には、希望の光が宿っているように見えた。


「作法もね、結構細かいんだよ。なんか九つの手順があって、それを一つずつ丁寧にやらないといけないらしい」


 ミキは指を折りながら説明する。恵は、ミキの説明を聞きながら、同時にスレッドの書き込みにも目を走らせた。


「本当に願いが叶った!」


「諦めていた病気が治った!」


「恋人ができた!」


「宝くじが当たった!」


 信じがたいような体験談が、いくつも書き込まれていた。

中には、まるで作り話のような大袈裟なものもあったが、恵の心には、それら一つ一つが、蓮を救うための可能性として映った。


 特に恵の目を引いたのは、「不治の病が治った」という書き込みだった。匿名での投稿だったが、その切実な文面は、恵の心に深く響いた。


 半信半疑。それが正直な気持ちだった。しかし、蓮の命がかかっている今、恵はどんな僅かな可能性も無駄にしたくなかった。都市伝説。オカルト。普段なら一笑に付してしまうような話だ。だが、今の恵にとっては、それが最後の希望の光に見えた。


「どこにあるか、分かる?」


 恵は、ほとんど無意識にミキに尋ねていた。


「えーとね、確かこの辺りの、ちょっと山の方だったと思うんだけど……。

地図アプリで検索すれば出てくるんじゃないかな? 

でも、かなり分かりにくい場所みたいだよ」


 ミキは、曖昧な返事をした。恵はすぐにスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。

「廃れた神社 手水舎」など、思いつく限りのキーワードで検索をかける。


 いくつもの検索結果が表示される。その中から、「成就の手水」という言葉が出てくるスレッドを片っ端から開いていく。その情報は、散在していたが、恵は必死にそれらを繋ぎ合わせようとした。


 特定の作法。


 恵は、スレッドに書かれた作法に関する記述を読み始めた。


 右手で柄杓ひしゃくを取り、水を掬う。

 掬った(すくった)水で左手を清める。

 柄杓を左手に持ち替え、右手も清める。

 右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに水を溜めて口に含む(柄杓には直接口をつけない)。

 口をゆすぐ前に、心の中で叶えたい願い事を一つだけ唱える。

 音を立てずに口をゆすぎ、手水舎の外に吐き出す。

 もう一度、左手を清める。

 柄杓の柄を垂直に持ち、椀部から柄を洗い流す。

 柄杓を元の位置に、椀が上になるように静かに戻す。


 九つの手順。


 恵はそれらを何度も読み返し、頭の中に叩き込んだ。

一つ一つの動作を、まるで自分がその場で儀式を行っているかのようにイメージする。


 水を掬う動作。手を清める動作。口を清める動作。すべてを完璧に、間違いなくこなす必要があると感じた。


 恵は、自分がこの儀式を完璧に成功させれば、蓮の病が治るのではないかという、根拠のない確信に囚われ始めていた。それは、理性を超えた、切実な願いが作り出した幻想なのかもしれない。だが、今の恵にとって、その幻想こそが、唯一の希望だった。


 スマートフォンの画面に映る、古びた手水舎の写真。恵は、その写真の奥に、蓮の元気な姿を重ね合わせた。走り回り、笑い、泥だらけになって遊ぶ蓮の姿を。


「成就の手水」


 その言葉が、恵の心に深く、深く刻み込まれていく。


 恵は、夢中になって都市伝説系のスレッドを読み続けた。そこには、儀式を行った人々の喜びの声が溢れていた。ある人は、何年も患っていた難病が完治したと書き込み、またある人は、絶望的な状況から一転して、人生が好転したと綴っていた。


 恵は、それらの書き込みを貪るように読みながら、興奮と期待で胸が高鳴るのを感じていた。

 蓮を救うための道が、ここにあるのかもしれない。


 それは、カフェの喧騒とはかけ離れた、全く別の世界だった。現実の厳しさから逃れるかのように、恵はその情報にのめり込んでいく。


 もし、もしこれが本当なら……。


 恵の脳裏に、様々な可能性が閃いた。蓮が完治し、退院してくる日。一緒に公園でピクニックをする日。幼稚園に通い、友達と笑い合う日。


 恵は、希望の光を見出したかのように、その情報に没頭していった。時間はあっという間に過ぎ去り、休憩終了のチャイムが鳴ったことにも気づかないほどだった。


「恵ー、休憩終わりだよー!」


 ミキの声が、恵を現実へと引き戻した。恵は慌ててスマートフォンをポケットにしまい、立ち上がった。


「ごめん、ちょっと夢中になっちゃって」


 恵は笑顔で答えたが、その目はまだ、都市伝説の輝きを宿しているようだった。


 フロアに戻り、客の注文を取る。いつもの日常が、まるで別世界のように感じられた。恵の心は、もはやカフェの仕事にはなかった。彼女の頭の中は、「成就の手水」と、その九つの作法でいっぱいだった。


 今日の仕事が終わったら、もっと詳しく調べよう。地図アプリで、神社の場所を特定しよう。


 恵の心は、新たな目標に向かって突き進んでいた。それは、蓮を救うためならば、どんなことでもするという、彼女の固い決意の表れだった。


 カフェの窓から差し込む午後の光が、恵の顔を明るく照らしていた。

しかし、その光の影で、不穏な物語が静かに、そして確実に動き始めていた。

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