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死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

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第三十九話:ホテルの一室

 眼下に広がる、宝石を散りばめたような東京の夜景。


 分厚いガラス窓は、地上の喧騒を完全に遮断し、部屋の中には、静かなジャズのBGMと、シャンパンの泡が弾ける、微かな音だけが流れていた。


 キングサイズのベッド、上質なリネン、間接照明が作り出す、甘美な光と影。


 ここは、現実から切り離された、欲望と安らぎのための空間。


「本当に、よかった。

もう会えないかと思った」


 健太の隣で、沙織が、潤んだ瞳でそう囁いた。

彼女の華奢な指が、健太の手にそっと絡みつく。


 シャンプーと、ほのかに甘い香水の匂いが、健太の理性を優しく麻痺させた。


「大げさだな。

ちょっと、体調をこじらせてただけだって、言っただろ?」


 健太は、格好をつけるように笑い、シャンパングラスを傾けた。

死の淵を彷徨っていたことなど、おくびにも出さない。


 あの忌まわしい一ヶ月は、もう、遠い過去の悪夢だ。


「でも、連絡も全然つかなかったし……

本当に、心配したんだから」


「悪かったよ。でも、もう大丈夫だ。

この通り、ピンピンしてる」


 健太は、沙織の肩を抱き寄せ、その唇に、軽いキスを送った。


 そうだ。これが、俺のいるべき場所だ。


 あの、薄暗いアパートでも、消毒液の匂いが充満する病院でも、ましてや、呪われた廃神社などでは断じてない。


 美しい女、上等な酒、そして、眼下に広がる、支配したかのような錯覚を覚える夜景。


 死の恐怖から解放された健太の心は、万能感と、抑えきれない高揚感で満たされていた。


「それにしても、一体、何があったの?

あなたが、あんなに音信不通になるなんて、初めてだったから」


 沙織が、テーブルに置かれたオリーブを一つ口に運びながら、尋ねた。


 その問いに、健太は、待ってましたとばかりに、少しだけ芝居がかった溜息をついてみせた。


「まあ、色々とな……。

実は、ちょっと、願掛けみたいなことをしてたんだよ」


「願掛け?」


「ああ。

『成就の手水』って、知ってるか?」


 健太は、酒の勢いも手伝って、饒舌に語り始めた。


 もちろん、呪いのことや、恵が儀式を行ったことなど、核心部分は全て伏せられている。

彼の物語の中では、主人公は、あくまで自分自身だった。


 病気の息子を憂う、心優しき父親。


 彼は、息子のために、わらにもすがる思いで、都市伝説として語られる、人里離れた神社へと赴いた。


 そこで、厳格な作法に従い、ただひたすらに、息子の回復を願ったのだ。


 その結果、心労がたたって、一時は体調を崩してしまったが、その甲斐あってか、息子の容態も、そして、自分の体調も、快方に向かっている――。


 我ながら、完璧なストーリーだった。


「へえ……そんな場所があるのね。

でも、危なくなかったの?

一人で、夜の神社なんて」


 沙織は、純粋な瞳で、健太を見つめている。

「まあな。でも、やるしかなかったんだよ」


 健太は、そこで、最も聞かせたい、物語の核心部分へと、巧みに話を進めた。


 彼は、沙織の手を、自分の両手で、優しく包み込んだ。


「……沙織。

俺が、なんで、そんなことをしたか、わかるか?」


「え……?

それは、もちろん、蓮くんのために……」


「もちろん、蓮のためだ。

でもな、それだけじゃないんだ」


 健太は、真剣な、そして、どこか甘い響きを声に乗せて、言った。


「蓮が、このまま元気になってくれないと、俺、お前と、心から幸せになれないだろ?」


「え……?」


「いつまでも、あの子に対する罪悪感が、心のどこかに、ずっと付きまとうんだよ。

そんな気持ちを抱えたままじゃ、お前のことを、100パーセント、愛してやれない。

だから、早く、スッキリさせたかったんだ。

あいつには、早く元気になってもらって、俺は俺で、お前との新しい人生を、心置きなく、スタートさせたかった。

……まあ、そんな、軽い気持ちでやったんだけどな」


 彼は、それを、究極の愛情表現であり、誠実さの証であるかのように語った。


 そして、その言葉は、沙織の心に、健太が意図した通りに、深く、甘く、突き刺さった。


「……健太さん……」

 沙織の瞳が、感動に潤む。


「そんな……

私のことまで、考えてくれてたなんて……。

あなたは、本当に、優しい人なのね」


「当たり前だろ」

 健太は、満足げに微笑んだ。


 そうだ。

俺は、優しい男なのだ。


 別れた妻との間の子供のことも、そして、新しい恋人のことも、両方、真剣に考えている。


 その、自己陶酔に満ちた感傷に浸っていた、その時だった。


 健太は、ふと、喉に、奇妙な乾きを覚えた。


 最初は、酒のせいだと思った。シャンパンを、一気に飲み干す。


 だが、乾きは、消えない。


 それどころか、まるで、口の中に、乾いた砂を詰め込まれたかのように、渇望感は、急速に、その強度を増していく。


「……ん?」

 健太は、眉をひそめ、テーブルの上に置かれていた、ミネラルウォーターのグラスを手に取った。


 それを、一息に飲み干す。


 冷たい液体が、喉を滑り落ちていく。

しかし、それは、乾ききった大地に、ほんの数滴の雨が染み込むようなもので、全く、潤いをもたらさない。


「どうしたの、健太さん?」

 沙織が、心配そうに顔を覗き込む。


「いや……なんだか、やけに、喉が渇いて……」

 健太は、笑ってごまかそうとした。


 だが、その笑顔は、ひどく、引きつっていた。


 忘れかけていた、あの感覚。


 呪いの初期症状として現れた、異常な喉の渇き。

その、おぞましい記憶が、脳裏をよぎる。


 バカな。


 気のせいだ。呪いは、解けたはずだ。

恵が、成功させてくれたじゃないか。


 腕の水痕だって、薄くなっていた。

健太は、平静を装いながら、自分の右腕を、テーブルの下で、そっと擦った。


 服の上からでは、分からない。

だが、何かが、おかしい。


 渇きは、もはや、我慢できるレベルを超えつつあった。

舌が、上顎に、ねっとりと張り付くようだ。


 呼吸をするたびに、乾いた空気が、喉をひりつかせる。


「健太さん、本当に、顔色が悪いわよ……?」

 沙織の声が、どこか遠くに聞こえる。


 健太は、必死で、水分を求めた。


 グラスに残っていた、沙織の分のシャンパンまで、奪うようにして飲み干す。


 しかし、アルコールは、渇きを癒すどころか、むしろ、火に油を注ぐだけだった。


「はぁ……はぁ……み、ず……」

 健太の額に、脂汗が、びっしりと浮かび上がる。


 目の前の、きらびやかな夜景が、ぐにゃり、と歪み始めた。


「だ、大丈夫!?

ちょっと、しっかりして!」

 沙織は、完全に狼狽していた。


 さっきまで、愛を囁き合っていた男が、突然、目の前で、苦しみだしているのだ。


「お、お水……!

そうだ、お水、買ってくる!

すぐそこのコンビニで、たくさん買ってくるから!

ここで、待ってて!」


 彼女は、そう言うと、ハンドバッグを掴み、慌てて部屋の出口へと向かった。


「だ、大丈夫だ……

すぐに、治る……」


 健太は、強がるように言ったが、その声は、もはや、まともに音になっていなかった。


 バタン、と、重いドアの閉まる音が、部屋に響く。


 その瞬間。

健太は、一人になった。


 しん、と静まり返った、豪華なホテルの一室。


 テレビの音も、ジャズのBGMも、いつの間にか、消えていた。

聞こえるのは、自分の、荒く、喘ぐような呼吸音だけ。


 そして、健太は、気づいた。


 部屋の、空気が、変わった。

エアコンが効いているはずなのに、じっとりとした、不快な湿気が、肌に、まとわりついてくる。


 それは、まるで、あの神社の境内で感じた、重く、淀んだ空気。


 健太は、喘ぎながら、部屋を見回した。


 間接照明が作り出す、甘美だったはずの影が、今は、まるで、意思を持った生き物のように、部屋の隅で、蠢いているように見えた。


 喉が、焼けるように熱い。

彼は、助けを求めるように、ドアの方を見た。


 早く、戻ってきてくれ、沙織。


 一人に、しないでくれ。

その、心の叫びが、声になることはなかった。


 彼の耳が、静寂の中に、ある、微かな音を捉えたからだ。


 ぽつ……。


 それは、どこか、遠くで、水滴が落ちるような音だった。


 ぽつ……。

 

 ぽつ……。


 バスルームからだろうか?

いや、違う。

 

 もっと、近く。


 すぐ、この部屋の、どこかから。


 健太は、恐怖に引きつった顔で、音のする方を探した。


 そして、気づいた。

その音は、どこからか、聞こえてくるのではない。

 部屋の、空気が、泣いているのだ。


 重く、湿気を帯びた空気が、凝縮し、目に見えない水滴となって、床の分厚いカーペットに、染みを作っている。


 部屋の空気が、徐々に、しかし、確実に、あの手水舎の水で、満たされていこうとしていた。

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