第三十八話:新たな生活へ
駅前の雑踏が、健太の姿を飲み込んでいく。
勝利者のように、軽い足取りで去っていった、かつての夫の背中。
恵は、その残像が消えた後も、しばらくの間、フロントガラスの向こう側を、ただ、ぼんやりと見つめていた。
エンジンは、低いアイドリング音を立て続けている。
車内には、健太が残していった、安堵と興奮の熱気が、まだ、生々しく漂っていた。
恵は、静かに目を閉じた。
瞼の裏に、先ほどまでの光景が、ゆっくりと逆再生されていく。
神社からの帰り道。
夜の闇が、朝の光に駆逐されていく、あの車の中。
最初は、ただ、恵への感謝と、生還できたことへの安堵を、壊れたレコードのように繰り返していた健太。
彼のその姿には、憐れみすら覚えた。
だが、腕の青い水痕が薄くなっていることを発見し、呪いが解けたと確信した、あの瞬間から。
健太の中の何かが、明らかに、変わった。
死の恐怖から完全に解放された彼は、まるで檻から放たれた獣のように、堰を切ったように、未来への希望を語り始めた。
「これからは、真面目に仕事を探すよ。
もう一度、ちゃんとする。
そして、蓮のそばにいてやりたいんだ。
父親らしいことを、何一つ、してやれていなかったからな」
「恵にも、迷惑をかけた。
本当に、すまなかったと思ってる。
これからは、もっと、頼ってくれていいからな」
その言葉は、一見すると、誠実な反省と、未来への前向きな決意に聞こえた。
だが、恵は、その言葉を聞きながら、彼の別の行動に、気づいていた。
彼は、その言葉を並べ立てながら、頻繁に、スマートフォンの画面をタップしていたのだ。
最初は、安堵した家族や友人にでも、連絡を取っているのだろうと思った。
しかし、彼の表情は、徐々に、単なる安堵とは違う、別の種類の色を帯び始めた。
口元が、わずかに緩んでいる。
時折、画面を見ては、ふ、と、満足げな息を漏らす。
その瞳は、もはや、隣で運転する恵のことも、これから会いに行くべき蓮のことも、映してはいなかった。
その視線の先にあるのは、スマートフォンの冷たい画面の向こう側にいる、誰か。
恵は、黙って、ハンドルを握りしめていた。
その視線は、前方の道路に向けられている。
しかし、意識の片隅で、彼女は、健太の一挙手一投足を、冷徹なまでに観察していた。
彼の指が、軽やかに、そして、どこか性急に、メッセージを打ち込んでいく。
その文面を見ることはできない。
だが、恵には、分かっていた。
彼は、女と連絡を取っている。
離婚した後、彼が付き合い始めたという、あの女。
呪いにかかり、死の恐怖に苛まれていた、この一ヶ月の間、おそらく、連絡を取る余裕もなかったのだろう。
それが、どうだ。
呪いが解けたと確信した、その舌の根も乾かぬうちに、彼は、もう、次の約束を取り付けている。
『また、連絡を取り合おう。
蓮のこと、これからのこと、色々と、話したい』
駅で別れる直前に、彼が自分に言った言葉が、脳内で虚しく反響する。
どの口が、言うのだろうか。
恵の心の中に、熱い感情は、もはや、なかった。
怒りも、嫉妬も、悲しみも、全て、あの神社での儀式で、燃え尽きてしまったかのようだった。
後に残っているのは、ただ、氷のように冷たい、静かな観察眼だけ。
そして、その奥底にある、確信。
ああ、やはり、この男は、何も変わっていない。
蓮の病が発覚した時も、そうだった。
最初は、父親として、必死に情報を集め、最善の治療法を探そうとしていた。
だが、病状が一向に良くならず、出口の見えない闘病生活が続くと、彼は、徐々に、疲弊し、苛立ち、そして、現実から目を背けるようになった。
仕事にかこつけて、家に帰る時間は遅くなり、休日も、蓮の見舞いには来たがらない。
そして、いつしか、彼の心は、家族の外へと向かっていった。
喉元過ぎれば、熱さを忘れる。
いや、この男の場合、喉元を過ぎる前から、もう、次の癒やしを求めて、あたりを見回しているのだ。
それが、高橋健太という、人間の本質。
恵は、それを、痛いほど、理解していた。
だから、彼が、呪いから解放されたと信じた瞬間に、真っ先に、別の女へ連絡を取ったことも、彼女にとっては、驚きではなかった。
ただ、「やはりな」という、冷たい確認作業に過ぎなかった。
恵は、閉じていた瞼を、ゆっくりと開いた。
健太が消えていった、駅の入り口。
朝の光が、その場所を、白く、明るく照らし出している。
恵は、静かに、シフトレバーに手をかけた。
そして、滑るように、車を発進させる。
向かう先は、自宅。
その前に、病院に寄って、蓮の顔を見ていこうか。
そんなことを、ぼんやりと考えながら、彼女は、駅のロータリーを抜け、大通りへと合流した。
恵と別れた健太は、まさに、生まれ変わったような気分だった。
駅の構内を吹き抜ける、生ぬるい風。
行き交う人々の、無関心な足音。
アナウンスの、無機質な響き。
その全てが、自分が「生きている」ことの、何よりの証拠に思えた。
彼は、改札をくぐらなかった。
そのまま、駅の反対側の出口へと向かう。
そして、大通りを避け、一本、裏手にある、薄暗い路地へと、足を踏み入れた。
恵に、見られていないことを、無意識に確認しながら。
彼は、ポケットから、再びスマートフォンを取り出す。
画面には、先ほどまでやり取りをしていた、メッセージアプリの画面が、まだ開かれている。
『本当に、もう大丈夫なの?
心配したんだから』
『ああ、もう平気だ。
ちょっと、こじらせてただけだよ。
それより、今夜、約束通り、会えるか?』
『もちろん。部屋、取ってあるわよ。
早く会いたい』
『俺もだ。
すぐに向かう』
健太の口元が、だらしなく緩む。
彼は、流しのタクシーを、いとも簡単に見つけると、後部座席に、勢いよく乗り込んだ。
「お客さん、どちらまで?」
運転手が、バックミラー越しに尋ねる。
健太は、自宅の住所とは、全く違う、都心にある、有名なホテルの名前を告げた。
「〇〇ホテルまで、お願いします」
タクシーは、滑るように、走り出す。
車窓から見える景色が、次々と、後ろへと流れていく。
健太は、もう、過去を振り返らなかった。
呪いのことも、神社のことも、そして、自分のために命を賭けてくれた、恵のことも。
彼の思考は、これから待つ、甘い時間と、快楽への期待で、完全に満たされていた。
彼は、まだ、気づいていない。
あの儀式の夜、恵が、水盤に張られた、あの冷たい水に、何を願ったのか。
彼女が、本当に、儀式を、完璧に、成功させたのかどうか。
そして、薄くなったはずの、右腕の水痕が。
タクシーの車内で、再び、その青さを、じわり、と、取り戻し始めていることにも。
彼は、ただ、新たな生活が始まったのだと、信じていた。
その生活が、地獄の入り口とも知らずに。




