第三十七話:薄れる水痕
車は、闇に包まれた山道を、まるで悪夢から逃げ出すかのように下っていった。
忌まわしい神社の気配が遠ざかるにつれて、車内の重く淀んだ空気も、少しずつだが、外の新鮮な夜気と入れ替わっていくようだった。
健太は、助手席で荒い呼吸を繰り返しながらも、その変化を敏感に感じ取っていた。
死の匂いが、薄れていく。
身体の内側から蝕むような、あの呪いの冷気が、和らいでいく。
「……恵」
健太が、かすれた声で呼びかけた。
「ああ……ありがとう。
本当に……」
彼は、そればかりを、壊れたレコードのように繰り返した。
感謝以外の言葉が、見つからなかった。
恵は、ハンドルを握りしめたまま、何も答えなかった。
ただ、その視線は、闇を切り裂くヘッドライトの光が照らし出す、前方の一点に、ただ、まっすぐに注がれている。
やがて、木々の合間から、遠くに街の明かりが見え始めた。闇の中に散りばめられた、オレンジ色の光の粒。
それは、二人が、人々の暮らす、まともな世界へと帰還しつつあることを示していた。
「……街だ」
健太が、子供のようにはしゃいだ声を上げた。
長い、長い夜だった。
絶望と恐怖に支配された、永遠にも感じられる時間。
その終わりが、ようやく、見えてきた。
車が完全に山道を抜け、アスファルトで舗装された国道に出る頃には、東の空が、藍色から、徐々に白み始めていた。
夜と朝の境界線。
闇が光に駆逐されていく、荘厳なグラデーション。
健太は、その光景を、食い入るように見つめていた。
昨日までは、二度と見ることなどできないと諦めていた、ありふれた夜明けの光景。
その一つ一つが、今は、奇跡のように尊く、美しく感じられた。
「夜が、明けるな……」
彼の声は、安堵に震えていた。
恵は、彼の言葉に、静かに頷いた。
彼女の横顔は、昇り始めた朝日の淡い光に照らされ、その疲労の色をより一層、濃く浮かび上がらせていた。
「疲れただろ。
少し、休むか?」
健太が気遣うように言うと、恵は、力なく首を横に振った。
「平気よ。
それより、あなたの身体は?
喉の渇きは、どう?」
「ああ……
それが、不思議なんだ。
さっきより、ずっと楽になった。まだ、喉は乾いているけど……
あの、焼けるような、耐え難い渇きじゃないんだ」
健太は、まるで自分の身体に起きた奇跡を、一つ一つ確かめるように言った。
呪いが、解けている。
恵が、あの儀式を、成功させてくれたのだ。
その確信が、彼の心を、温かい高揚感で満たしていく。
そして、その時は、突然訪れた。
朝の光が、さらにその強さを増し、車内を明るく照らし出した、その瞬間。
健太は、ふと、自分の右腕に目をやった。
「……え?」
思わず、声が漏れた。
彼は、信じられないものを見るかのように、自分の腕を、何度も、何度も、見返した。
「……おい、恵……!
見ろ! これを!」
健太は、ほとんど絶叫に近い、歓喜の声を上げた。
そして、運転する恵の前に、自分の腕を突き出した。
「これを見ろよ!」
そこには、数時間前まで、彼の皮膚の下で、不気味な青黒い紋様を描いていた、あの呪いの水痕があった。
しかし、その姿は、劇的に変化していた。
まるで、濃いインクで描かれた絵を、大量の水で洗い流したかのように、その輪郭はぼやけ、色は薄れ、禍々しい存在感を失っている。
あれほど鮮明だった青黒さは、今や、淡い、青みがかったシミのようなものへと、明らかに後退していた。
皮膚の下で蠢いていた、あの、血管のような筋も、ほとんど見て取れない。
呪いが、消えていく。
目に見える形で、健太の身体から、あの忌まわしい呪いが、剥がれ落ちていこうとしていた。
「やった……
やったんだ、恵!
お前が、やってくれたんだ!
呪いが解けたんだ!」
健太は、助手席で、狂喜乱舞した。
彼は、恵の肩を掴み、激しく揺さぶる。
「ありがとう!
ありがとう、恵!
これで、俺は……!」
その、健太の歓喜の声を、全身で浴びながら、恵は、一瞬だけ、彼の方に視線を向けた。
彼女の顔に、複雑な表情が浮かんだ。
それは、ほんの一瞬の、微かな変化だった。
健太の腕に浮かぶ、薄くなった水痕を見た彼女の瞳の奥で、何かが、ゆらり、と揺らめいた。
それは、安堵でも、驚きでもない。
もっと別の、読み解くことのできない、冷たい光。
まるで、全てが自分の計算通りに進んでいることを確認したかのような、静かな満足感にも似た光。
しかし、その異質な光は、すぐに、深い疲労の影の奥へと、隠された。
彼女は、すぐにいつもの、感情の読めない、疲れた表情に戻ると、静かに、一言だけ、こう言った。
「……よかったわね」
その声の、あまりの平坦さに、さすがの健太も、一瞬、その狂喜の勢いを削がれた。
だが、彼は、それ以上、恵の様子を深く探ろうとはしなかった。
呪いが解けた。
その、圧倒的な事実の前では、他の全ては、些細なことに過ぎなかった。
「ああ、本当によかった……!」
彼は、再び、自分の腕を見つめ、その奇跡的な変化に、恍惚とした表情を浮かべた。
「とりあえず、今日は、二人とも、いったん家に帰りましょう。
お互い、ほとんど寝てないんだから。
身体を休めないと」
恵が、前を向いたまま、静かに提案した。
「ああ、そうだな。そうしよう。
まずは、シャワーを浴びて、ぐっすり眠りたい。
まるで、何年も眠っていないような気分だ」
健太は、心から同意した。
死の恐怖から解放された今、彼の身体は、極度の疲労と、心地よい眠気を訴えていた。
「あなたの家まで送るわ」
「いや、いい。最寄り駅で降ろしてくれれば、そこから自分で帰れる。お前も、早く帰って休んだ方がいい」
健太は、すっかり回復した気で、そう言った。
恵は、それには答えず、ただ、車を走らせ続けた。
やがて、見慣れた、健太のアパートの最寄り駅が見えてくる。
朝のラッシュが始まり、駅前は、職場や学校へと急ぐ人々で、ごった返していた。
その、ありふれた日常の光景が、今は、ひどく愛おしいものに感じられた。
恵は、駅のロータリーに、車を寄せた。
「じゃあ、ここで」
「ああ。
本当に、ありがとう、恵。
この恩は、一生忘れない」
健太は、車から降りると、改めて、深々と頭を下げた。
「また、連絡を取り合おう。
蓮のこと、これからのこと、色々と、話したい」
「ええ」
恵は、短く答えた。
「じゃあな」
健太は、晴れやかな、一点の曇りもない笑顔を浮かべると、駅の雑踏の中へと、軽い足取りで消えていった。
その背中は、もはや、昨夜の敗残兵のそれではない。
死の淵から生還した、勝利者の背中だった。
恵は、一人、車の中に残された。
彼女は、健太の姿が、完全に人波に飲み込まれて、見えなくなるまで、その方向を、じっと見つめ続けていた。
エンジンは、かかったままだ。
しかし、彼女は、すぐにはアクセルを踏まなかった。
駅前の喧騒も、クラクションの音も、まるで遠い世界の出来事のように、彼女の耳には届いていない。
彼女の周りだけが、時間が止まったかのように、静かだった。
やがて、彼女は、ゆっくりと、自分の右腕に、視線を落とした。
白い、華奢な腕。
そこには、もちろん、青い水痕など、どこにも見当たらなかった。




