表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/45

第三十七話:薄れる水痕

 車は、闇に包まれた山道を、まるで悪夢から逃げ出すかのように下っていった。


 忌まわしい神社の気配が遠ざかるにつれて、車内の重く淀んだ空気も、少しずつだが、外の新鮮な夜気と入れ替わっていくようだった。

健太は、助手席で荒い呼吸を繰り返しながらも、その変化を敏感に感じ取っていた。


 死の匂いが、薄れていく。


 身体の内側から蝕むような、あの呪いの冷気が、和らいでいく。


「……恵」

 健太が、かすれた声で呼びかけた。


「ああ……ありがとう。

本当に……」


 彼は、そればかりを、壊れたレコードのように繰り返した。

感謝以外の言葉が、見つからなかった。


 恵は、ハンドルを握りしめたまま、何も答えなかった。

ただ、その視線は、闇を切り裂くヘッドライトの光が照らし出す、前方の一点に、ただ、まっすぐに注がれている。


 やがて、木々の合間から、遠くに街の明かりが見え始めた。闇の中に散りばめられた、オレンジ色の光の粒。

それは、二人が、人々の暮らす、まともな世界へと帰還しつつあることを示していた。


「……街だ」

 健太が、子供のようにはしゃいだ声を上げた。


 長い、長い夜だった。

絶望と恐怖に支配された、永遠にも感じられる時間。

その終わりが、ようやく、見えてきた。


 車が完全に山道を抜け、アスファルトで舗装された国道に出る頃には、東の空が、藍色から、徐々に白み始めていた。


 夜と朝の境界線。


 闇が光に駆逐されていく、荘厳なグラデーション。


 健太は、その光景を、食い入るように見つめていた。

昨日までは、二度と見ることなどできないと諦めていた、ありふれた夜明けの光景。


 その一つ一つが、今は、奇跡のように尊く、美しく感じられた。


「夜が、明けるな……」

 彼の声は、安堵に震えていた。


 恵は、彼の言葉に、静かに頷いた。

彼女の横顔は、昇り始めた朝日の淡い光に照らされ、その疲労の色をより一層、濃く浮かび上がらせていた。


「疲れただろ。

少し、休むか?」

 健太が気遣うように言うと、恵は、力なく首を横に振った。


「平気よ。

それより、あなたの身体は?

喉の渇きは、どう?」


「ああ……

それが、不思議なんだ。

さっきより、ずっと楽になった。まだ、喉は乾いているけど……

あの、焼けるような、耐え難い渇きじゃないんだ」


 健太は、まるで自分の身体に起きた奇跡を、一つ一つ確かめるように言った。


 呪いが、解けている。


 恵が、あの儀式を、成功させてくれたのだ。


 その確信が、彼の心を、温かい高揚感で満たしていく。


 そして、その時は、突然訪れた。


 朝の光が、さらにその強さを増し、車内を明るく照らし出した、その瞬間。


 健太は、ふと、自分の右腕に目をやった。


「……え?」

 思わず、声が漏れた。


 彼は、信じられないものを見るかのように、自分の腕を、何度も、何度も、見返した。


「……おい、恵……!

見ろ! これを!」


 健太は、ほとんど絶叫に近い、歓喜の声を上げた。


 そして、運転する恵の前に、自分の腕を突き出した。


「これを見ろよ!」


 そこには、数時間前まで、彼の皮膚の下で、不気味な青黒い紋様を描いていた、あの呪いの水痕があった。


 しかし、その姿は、劇的に変化していた。


 まるで、濃いインクで描かれた絵を、大量の水で洗い流したかのように、その輪郭はぼやけ、色は薄れ、禍々しい存在感を失っている。


 あれほど鮮明だった青黒さは、今や、淡い、青みがかったシミのようなものへと、明らかに後退していた。


 皮膚の下で蠢いていた、あの、血管のような筋も、ほとんど見て取れない。


 呪いが、消えていく。


 目に見える形で、健太の身体から、あの忌まわしい呪いが、剥がれ落ちていこうとしていた。


「やった……

やったんだ、恵!

お前が、やってくれたんだ!

呪いが解けたんだ!」


 健太は、助手席で、狂喜乱舞した。

彼は、恵の肩を掴み、激しく揺さぶる。


「ありがとう!

ありがとう、恵!

これで、俺は……!」


 その、健太の歓喜の声を、全身で浴びながら、恵は、一瞬だけ、彼の方に視線を向けた。


 彼女の顔に、複雑な表情が浮かんだ。


 それは、ほんの一瞬の、微かな変化だった。


 健太の腕に浮かぶ、薄くなった水痕を見た彼女の瞳の奥で、何かが、ゆらり、と揺らめいた。

それは、安堵でも、驚きでもない。

もっと別の、読み解くことのできない、冷たい光。


 まるで、全てが自分の計算通りに進んでいることを確認したかのような、静かな満足感にも似た光。


 しかし、その異質な光は、すぐに、深い疲労の影の奥へと、隠された。


 彼女は、すぐにいつもの、感情の読めない、疲れた表情に戻ると、静かに、一言だけ、こう言った。


「……よかったわね」


 その声の、あまりの平坦さに、さすがの健太も、一瞬、その狂喜の勢いを削がれた。

だが、彼は、それ以上、恵の様子を深く探ろうとはしなかった。


 呪いが解けた。


 その、圧倒的な事実の前では、他の全ては、些細なことに過ぎなかった。


「ああ、本当によかった……!」


 彼は、再び、自分の腕を見つめ、その奇跡的な変化に、恍惚とした表情を浮かべた。


「とりあえず、今日は、二人とも、いったん家に帰りましょう。

お互い、ほとんど寝てないんだから。

身体を休めないと」


 恵が、前を向いたまま、静かに提案した。


「ああ、そうだな。そうしよう。

まずは、シャワーを浴びて、ぐっすり眠りたい。

まるで、何年も眠っていないような気分だ」


 健太は、心から同意した。

死の恐怖から解放された今、彼の身体は、極度の疲労と、心地よい眠気を訴えていた。


「あなたの家まで送るわ」


「いや、いい。最寄り駅で降ろしてくれれば、そこから自分で帰れる。お前も、早く帰って休んだ方がいい」

 健太は、すっかり回復した気で、そう言った。


 恵は、それには答えず、ただ、車を走らせ続けた。


 やがて、見慣れた、健太のアパートの最寄り駅が見えてくる。


 朝のラッシュが始まり、駅前は、職場や学校へと急ぐ人々で、ごった返していた。


 その、ありふれた日常の光景が、今は、ひどく愛おしいものに感じられた。


 恵は、駅のロータリーに、車を寄せた。


「じゃあ、ここで」


「ああ。

本当に、ありがとう、恵。

この恩は、一生忘れない」


 健太は、車から降りると、改めて、深々と頭を下げた。


「また、連絡を取り合おう。

蓮のこと、これからのこと、色々と、話したい」


「ええ」

 恵は、短く答えた。


「じゃあな」


 健太は、晴れやかな、一点の曇りもない笑顔を浮かべると、駅の雑踏の中へと、軽い足取りで消えていった。


 その背中は、もはや、昨夜の敗残兵のそれではない。

死の淵から生還した、勝利者の背中だった。


 恵は、一人、車の中に残された。


 彼女は、健太の姿が、完全に人波に飲み込まれて、見えなくなるまで、その方向を、じっと見つめ続けていた。


 エンジンは、かかったままだ。


 しかし、彼女は、すぐにはアクセルを踏まなかった。


 駅前の喧騒も、クラクションの音も、まるで遠い世界の出来事のように、彼女の耳には届いていない。


 彼女の周りだけが、時間が止まったかのように、静かだった。


 やがて、彼女は、ゆっくりと、自分の右腕に、視線を落とした。


 白い、華奢な腕。


 そこには、もちろん、青い水痕など、どこにも見当たらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ