表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死に水  作者: 月影 朔
第七章:運命の夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/45

第三十六話:安堵と感謝

 儀式の終わりを告げた、あの、小さな、乾いた音。


 それが、張り詰めていた世界の緊張を、ぷつりと断ち切った。


 恵が崩れ落ちるのと、健太の耳に、夜の音が戻ってきたのは、ほぼ同時だった。


 ざわ……と、それまで息を殺していた木々の葉が、一斉に囁き始める。

遠くで、フクロウだろうか、寂しげな声が響き、闇に吸い込まれていった。


 虫の音が、まるでボリュームのつまみを捻ったかのように、じわじわと、しかし確実に、静寂の隙間を埋めていく。


 死んでいた世界が、再び、生命活動を取り戻したかのようだった。


 そして、何よりも。


 背後にまとわりついていた、あの、魂の芯まで凍らせるような、絶対的な死の気配が、綺麗に消え失せていた。


 水子が、いない。


「恵!

大丈夫か!?」


 健太は、我に返ると、よろめきながら恵の元へと駆け寄った。

地面にへたり込み、両手をついて、か細い肩で必死に呼吸を繰り返す彼女の姿は、あまりにも痛々しく、か弱く見えた。


 健太は、その震える肩を、そっと抱いた。


「恵……終わったのか……?

終わったんだな……?」


 その声は、恐怖と、そして、ほんのわずかな希望の色を帯びて、震えていた。


 恵は、顔を上げることができない。

ただ、こく、こくと、小さく頷いた。


 その、わずかな肯定の動作が、健太の中で、最後の楔を外した。


「……う……ああ……」

 健太の喉から、嗚咽が漏れた。


 それは、みるみるうちに、堰を切ったような号泣へと変わっていく。


「うわああああああああっ!」

 彼は、子供のように、声を上げて泣いた。


 その場に膝をつき、恵の肩にすがりつくようにして、ただ、泣き続けた。


 恐怖からの解放。


 死の淵から、生還できるかもしれないという、眩いばかりの希望。


 そして、自分のために、命を賭してくれた、目の前の女に対する、言葉では言い尽くせない感謝。


 それら全ての感情が、濁流となって、彼の涙腺を破壊した。


「ありがとう……

恵……

ありがとう……っ!」


 途切れ途切れの言葉が、嗚咽の合間から絞り出される。


「これで……

これで、助かるかもしれない……

俺、助かるんだな……?」


 健太は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、恵の顔を覗き込んだ。

その瞳は、赤く腫れ上がり、しかし、そこには、先ほどまでの絶望の色はなかった。


 代わりに、溺れる者が掴んだ、一本の藁にも似た、必死の光が宿っている。


「ありがとう……

本当に、ありがとう……」


 ようやく、恵は、ゆっくりと顔を上げた。


 その顔は、汗と、おそらくは流したであろう涙で濡れ、月明かりの下で、陶器のように青白く見えた。

唇は色を失い、深い疲労が、その表情の全てを覆っている。


 健太の、感謝と安堵に満ちた言葉に、恵は、ただ、小さく頷くことしかできなかった。


 声が出ないのか、あるいは、出すべき言葉が見つからないのか。


「……恵?」

健太は、そんな彼女の様子に、わずかな不安を覚えた。


 しかし、すぐに、彼はそれを、彼女の極度の疲労のせいだろうと、自分に都合よく解釈した。

これほどの儀式を、たった一人でやり遂げたのだ。


 無理もない。

彼は、自分の手の甲で乱暴に涙を拭うと、再び恵の顔を見つめた。


 そして、安堵の表情を浮かべた。


「よかった……

本当によかった……。

もう、ダメかと思った……。

これで、蓮にも……

また、会える……」


 健太は、まるで自分に言い聞かせるように、希望に満ちた言葉を並べた。


 彼は、この儀式が成功したのだと、疑うことをやめたかった。

いや、心の底から、そう信じていた。

水子は消えた。


 恵は、儀式をやり遂げた。

それ以上に、何を疑う必要があるだろうか。


 だが、健太のその安堵に満ちた視線の先で、恵の顔には、複雑な表情が浮かんでいた。


 それは、単なる疲労だけでは説明のつかない、奇妙な陰影を帯びていた。


 彼女の瞳は、健太を見ているようで、その実、彼の背後にある、さらに深い闇を見つめているかのようだった。

その瞳の奥には、安堵も、喜びも、達成感もない。


 あるのは、全てを吸い込んでしまいそうな、静かで、凪いだ、深い淵のような色。


 彼女の唇の端が、ほんのわずかに、引き上げられたように見えた。


 それは、微笑みと呼ぶには、あまりに微かで、あまりに感情が欠落していた。安堵の笑みではない。

それは、何かをやり遂げた者の、満足の笑みにも似ていたが、その奥には、氷のような冷たさと、諦観にも似た、物悲しさが同居している。


 聖母のようでいて、罪人のようでもある。


 救世主のようでいて、生贄のようでもある。


 そのアンバランスな表情が、彼女の顔の上で、奇妙な調和を保っていた。


 健太は、その表情の真意を読み解くことができなかった。

彼は、ただ、彼女が自分のために全てを捧げてくれた、その事実だけで胸が一杯だった。


「帰ろう、恵。

もう、こんなところにいる必要はない」


 健太は、恵の腕を取り、立ち上がらせようとした。

不思議と、先ほどまで身体を支配していた、あの鉛のような重さが、少しだけ軽くなっているような気がした。


 喉の渇きも、心なしか、和らいでいる。


 呪いが、解け始めている。


 その確信が、健太の心に、さらなる光を灯した。


「ああ、そうだ。

帰って、まず、ゆっくり休もう。

お前も、疲れただろ」


 恵は、健太の言葉に、こくりと、再び小さく頷いた。


 そして、彼に支えられるようにして、ゆっくりと立ち上がる。


 二人は、もと来た道を、引き返し始めた。


 あれほど長く、果てしなく感じられた石段も、下りは、驚くほど短く感じられた。


 健太の足取りは、希望の光に後押しされ、登りの時とは比べ物にならないほど、しっかりとしている。

逆に、今度は、恵の方が、健太の肩に寄りかかるようにして、一歩、一歩、かろうじて足を運んでいる状態だった。


 鳥居をくぐり、自分たちの車が見えた時、二人は、ようやく、生きた世界に戻ってきたのだと、実感した。


 車に乗り込み、エンジンをかける。


 忌まわしい、あの廃れた神社が、バックミラーの中で、急速に小さくなっていく。


「本当に……

なんて言ってお礼を言ったらいいか……」


 健太が、ハンドルを握る恵の横顔に向かって、しみじみと呟いた。


「……いいのよ」


 恵は、そこで初めて、はっきりとした言葉を口にした。


 その声は、ひどく、かすれていた。


「あなたには……

生きていてもらわないと、困るから」


 その言葉を、健太は、蓮の父親として、自分が必要なのだという意味に受け取った。

彼の胸に、温かいものが込み上げてくる。


 彼は、もう一度、恵の横顔を見た。


 その表情は、やはり、読み取ることができない。


 ただ、運転席の窓ガラスに映る彼女の瞳が、闇の中で、ぎらり、と、一瞬だけ、獣のように光ったのを、健太は見逃していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ