第三十六話:安堵と感謝
儀式の終わりを告げた、あの、小さな、乾いた音。
それが、張り詰めていた世界の緊張を、ぷつりと断ち切った。
恵が崩れ落ちるのと、健太の耳に、夜の音が戻ってきたのは、ほぼ同時だった。
ざわ……と、それまで息を殺していた木々の葉が、一斉に囁き始める。
遠くで、フクロウだろうか、寂しげな声が響き、闇に吸い込まれていった。
虫の音が、まるでボリュームのつまみを捻ったかのように、じわじわと、しかし確実に、静寂の隙間を埋めていく。
死んでいた世界が、再び、生命活動を取り戻したかのようだった。
そして、何よりも。
背後にまとわりついていた、あの、魂の芯まで凍らせるような、絶対的な死の気配が、綺麗に消え失せていた。
水子が、いない。
「恵!
大丈夫か!?」
健太は、我に返ると、よろめきながら恵の元へと駆け寄った。
地面にへたり込み、両手をついて、か細い肩で必死に呼吸を繰り返す彼女の姿は、あまりにも痛々しく、か弱く見えた。
健太は、その震える肩を、そっと抱いた。
「恵……終わったのか……?
終わったんだな……?」
その声は、恐怖と、そして、ほんのわずかな希望の色を帯びて、震えていた。
恵は、顔を上げることができない。
ただ、こく、こくと、小さく頷いた。
その、わずかな肯定の動作が、健太の中で、最後の楔を外した。
「……う……ああ……」
健太の喉から、嗚咽が漏れた。
それは、みるみるうちに、堰を切ったような号泣へと変わっていく。
「うわああああああああっ!」
彼は、子供のように、声を上げて泣いた。
その場に膝をつき、恵の肩にすがりつくようにして、ただ、泣き続けた。
恐怖からの解放。
死の淵から、生還できるかもしれないという、眩いばかりの希望。
そして、自分のために、命を賭してくれた、目の前の女に対する、言葉では言い尽くせない感謝。
それら全ての感情が、濁流となって、彼の涙腺を破壊した。
「ありがとう……
恵……
ありがとう……っ!」
途切れ途切れの言葉が、嗚咽の合間から絞り出される。
「これで……
これで、助かるかもしれない……
俺、助かるんだな……?」
健太は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、恵の顔を覗き込んだ。
その瞳は、赤く腫れ上がり、しかし、そこには、先ほどまでの絶望の色はなかった。
代わりに、溺れる者が掴んだ、一本の藁にも似た、必死の光が宿っている。
「ありがとう……
本当に、ありがとう……」
ようやく、恵は、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は、汗と、おそらくは流したであろう涙で濡れ、月明かりの下で、陶器のように青白く見えた。
唇は色を失い、深い疲労が、その表情の全てを覆っている。
健太の、感謝と安堵に満ちた言葉に、恵は、ただ、小さく頷くことしかできなかった。
声が出ないのか、あるいは、出すべき言葉が見つからないのか。
「……恵?」
健太は、そんな彼女の様子に、わずかな不安を覚えた。
しかし、すぐに、彼はそれを、彼女の極度の疲労のせいだろうと、自分に都合よく解釈した。
これほどの儀式を、たった一人でやり遂げたのだ。
無理もない。
彼は、自分の手の甲で乱暴に涙を拭うと、再び恵の顔を見つめた。
そして、安堵の表情を浮かべた。
「よかった……
本当によかった……。
もう、ダメかと思った……。
これで、蓮にも……
また、会える……」
健太は、まるで自分に言い聞かせるように、希望に満ちた言葉を並べた。
彼は、この儀式が成功したのだと、疑うことをやめたかった。
いや、心の底から、そう信じていた。
水子は消えた。
恵は、儀式をやり遂げた。
それ以上に、何を疑う必要があるだろうか。
だが、健太のその安堵に満ちた視線の先で、恵の顔には、複雑な表情が浮かんでいた。
それは、単なる疲労だけでは説明のつかない、奇妙な陰影を帯びていた。
彼女の瞳は、健太を見ているようで、その実、彼の背後にある、さらに深い闇を見つめているかのようだった。
その瞳の奥には、安堵も、喜びも、達成感もない。
あるのは、全てを吸い込んでしまいそうな、静かで、凪いだ、深い淵のような色。
彼女の唇の端が、ほんのわずかに、引き上げられたように見えた。
それは、微笑みと呼ぶには、あまりに微かで、あまりに感情が欠落していた。安堵の笑みではない。
それは、何かをやり遂げた者の、満足の笑みにも似ていたが、その奥には、氷のような冷たさと、諦観にも似た、物悲しさが同居している。
聖母のようでいて、罪人のようでもある。
救世主のようでいて、生贄のようでもある。
そのアンバランスな表情が、彼女の顔の上で、奇妙な調和を保っていた。
健太は、その表情の真意を読み解くことができなかった。
彼は、ただ、彼女が自分のために全てを捧げてくれた、その事実だけで胸が一杯だった。
「帰ろう、恵。
もう、こんなところにいる必要はない」
健太は、恵の腕を取り、立ち上がらせようとした。
不思議と、先ほどまで身体を支配していた、あの鉛のような重さが、少しだけ軽くなっているような気がした。
喉の渇きも、心なしか、和らいでいる。
呪いが、解け始めている。
その確信が、健太の心に、さらなる光を灯した。
「ああ、そうだ。
帰って、まず、ゆっくり休もう。
お前も、疲れただろ」
恵は、健太の言葉に、こくりと、再び小さく頷いた。
そして、彼に支えられるようにして、ゆっくりと立ち上がる。
二人は、もと来た道を、引き返し始めた。
あれほど長く、果てしなく感じられた石段も、下りは、驚くほど短く感じられた。
健太の足取りは、希望の光に後押しされ、登りの時とは比べ物にならないほど、しっかりとしている。
逆に、今度は、恵の方が、健太の肩に寄りかかるようにして、一歩、一歩、かろうじて足を運んでいる状態だった。
鳥居をくぐり、自分たちの車が見えた時、二人は、ようやく、生きた世界に戻ってきたのだと、実感した。
車に乗り込み、エンジンをかける。
忌まわしい、あの廃れた神社が、バックミラーの中で、急速に小さくなっていく。
「本当に……
なんて言ってお礼を言ったらいいか……」
健太が、ハンドルを握る恵の横顔に向かって、しみじみと呟いた。
「……いいのよ」
恵は、そこで初めて、はっきりとした言葉を口にした。
その声は、ひどく、かすれていた。
「あなたには……
生きていてもらわないと、困るから」
その言葉を、健太は、蓮の父親として、自分が必要なのだという意味に受け取った。
彼の胸に、温かいものが込み上げてくる。
彼は、もう一度、恵の横顔を見た。
その表情は、やはり、読み取ることができない。
ただ、運転席の窓ガラスに映る彼女の瞳が、闇の中で、ぎらり、と、一瞬だけ、獣のように光ったのを、健太は見逃していた。




