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死に水  作者: 月影 朔
第六章:最後の儀式

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第三十五話:九つの掟〜水の帰結〜

 口内に満たされた、鉄錆の味と、古い井戸の底のような黴臭さ。


 恵は、心の中で唱え終えたばかりの、たった一つの願いを、その水に溶け込ませるかのように、静かに、しかし強く念じた。


 第六の掟。『音を立てずに口をゆすぎ、手水舎の外に吐き出す』。


 健太が、おそらく失敗したであろう手順。


 音を立てる。

その、日常では何気ない行為が、ここでは命取りになる。


 恵は、ゆっくりと顔を下げた。


 彼女の動きは、もはや人間のそれではなく、寸分の狂いも許されない精密機械のようだった。


 口に含んだ水を、一気に吐き出すのではない。


 唇の隙間を、ほんのわずかに開ける。


 そして、そこから、まるで一本の細く、しなやかな絹糸を垂らすかのように、静かに、ゆっくりと、水を落としていく。


 しぃ…………。


 闇に吸い込まれるような、かすかな、かすかな音。


 それは、水が地面の苔に触れ、吸い込まれていく音だった。

決して、飛沫が跳ねるような、派手な音ではない。

静寂が、その微かな音を、まるで巨大な耳で聞き取るかのように、際立たせた。


 恵は、身体の向きを、水盤からわずかに逸らす。


『手水舎の外に吐き出す』。


 そのルールも、決して疎かにはしない。

吐き出された水は、神聖であるべき水盤を汚すことなく、その外側の、闇に沈む地面へと静かに帰っていった。


 口の中の水が、全てなくなり、最後の一滴が唇から離れるまで、恵は、息をすることさえ忘れていた。


 第六の掟、完了。


 全身から、どっと汗が噴き出す。

額から流れ落ちた汗が、睫毛を濡らし、視界を滲ませる。


 だが、彼女はそれを拭うことすらしなかった。

集中を、一瞬たりとも途切れさせるわけにはいかない。


 第七の掟。『もう一度、左手を清める』。


 反復される、浄化の儀式。


 恵は、再び柄杓で水を掬い、左手にかける。


 先ほどと同じ、骨身に染みるような冷たさ。


 しかし、今、この一連の動作は、彼女の神経を極限まで研ぎ澄ませるための、精神統一のプロセスと化していた。

この単純な動作を繰り返すことで、彼女は、自分という存在を、この儀式を遂行するためだけの、純粋な器へと変えていく。


 そして、儀式は、最終盤へと差し掛かる。


 第八の掟。『柄杓の柄を垂直に持ち、椀部から柄を洗い流す』。


 恵は、柄杓を、地面に対して垂直に、まっすぐに立てた。


 そして、残った水を、椀の部分から、柄の方へと、ゆっくりと流していく。


 きらきらと、月光を反射しながら、水が竹の柄を伝い、清めるように流れ落ちていく。


 それは、この儀式で使用した呪いの道具そのものを浄化し、元の、ただの「柄杓」へと戻すための、重要な手順だった。


 全ての痕跡を消し去り、この儀式が、行われなかったかのように、世界を元に戻す。そんな、強い意志を感じさせる動作だった。


 恵の呼吸は、荒くなっていた。


 自分の心臓の音が、まるで耳元で誰かが太鼓を打ち鳴らしているかのように、激しく響き渡る。


 いよいよ、最後だ。


 第九の掟。『柄杓を元の位置に、椀が上になるように静かに戻す』。


 恵の視線が、水盤の縁にある、柄杓を置くための、二つの突起がついた台座に注がれる。


 ほんの十数センチの距離。


 だが、その距離が、今は、果てしなく遠いものに感じられた。


 手を、伸ばす。


 指先が、微かに震えているのを、自覚する。


 ダメだ、震えるな。


 ここで、少しでも音を立ててしまったら。柄杓を落としたり、向きを間違えたりしたら。


 今までの全てが、水の泡と化す。


 恵は、一度、息を止めた。


 全身の筋肉を、極限までコントロールする。


 背後で、健太が息を飲む音が聞こえた。


 そのさらに後ろに立つ、水子の、感情のない視線が、背中に突き刺さるのを感じる。


 恵は、全ての雑念を、意識の外へと追い出した。


 ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、柄杓を台座へと近づけていく。


 一ミリ、また一ミリと、距離が縮まっていく。


 永遠にも感じられる、長い、長い時間。


 そして。


 こつん。


 乾いた、しかし、驚くほど小さな音を立てて、柄杓の竹が、石の台座に触れた。


 椀は、上を向いている。


 位置も、寸分違わない。


 第九の掟、完了。


 全ての、儀式が、完了した。


 その瞬間、恵の中で張り詰めていた、極細の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた。


「……はぁっ……

はぁっ……

はぁっ……!」


 全身から、一斉に力が抜け、恵は、その場に、へたり込むように崩れ落ちた。

両手をつき、荒い呼吸を繰り返す。


 肺が、酸素を求めて、必死に痙攣している。

全身は、汗でびっしょりと濡れ、まるで水の中から上がってきたかのようだった。


 終わった。


 やりきった。


 成功したのか、失敗したのか。

それは、まだ、わからない。


 だが、自分にできることは、全て、やった。


 健太は、その様子を、ただ呆然と見つめていた。


 恵が崩れ落ちたのを見て、ようやく、自分が息を止めていたことに気づく。


「……恵……?」

 彼は、かすれた声で呼びかけた。


 そして、ふと、気づいた。


 背後に感じていた、あの、凍てつくような死の気配が、消えている。


 恐る恐る、背後を振り返る。


 そこには、ただ、深い闇が広がっているだけだった。


 木々の影が、静かに揺れている。


 水子が、いない。


 いつの間に?


 儀式が終わった、あの瞬間に?


 それとも、もっと前に?


 健太には、分からなかった。


 ただ、あの絶対的な恐怖の源が、今は、この場所から消え失せている。

その事実だけが、彼の混乱した頭の中に、わずかな安堵をもたらした。


 彼は、よろめきながら立ち上がると、恵の元へと駆け寄った。


「恵! 大丈夫か!?」

 彼は、地面にへたり込む恵の肩を抱いた。


 恵は、顔を上げることができない。

ただ、荒い呼吸を繰り返すばかりだ。


 儀式は、終わった。


 呪いの化身は、消えた。


 しかし、境内には、安堵の空気など、微塵も流れてはいなかった。


 残されたのは、やりきった恵の、深い疲労と消耗。


 そして、健太の、これから自分の身に何が起こるのかという、新たな恐怖。


 果たして、恵の願いは、聞き届けられたのか。


 彼女は、九つの掟を、本当に、完璧に成功させたのだろうか。


 それとも。


 あの、極限の緊張の中で、彼女自身さえも気づかない、ほんの些細な、しかし、致命的な過ちを、どこかで、犯してしまっていたのだろうか。


 答えは、まだ、闇の中だった。


 静寂だけが、支配する境内で、二人は、ただ、寄り添い、これから訪れるであろう、運命の審判を、待つことしかできなかった。

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