第三十四話:九つの掟~願いの口~
恵は、左の手のひらに溜めた水を口に含んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
ひんやりとした水が、舌の上を滑り、口内を満たす。
それは、鉄錆のような微かな味と、古い井戸の底のような黴臭さを帯びていた。
この水には、数えきれないほどの願いと、そして同じだけの絶望が溶け込んでいる。
そんな直感が、恵の脳裏をよぎった。
呼吸を整える。
心臓が、ドクン、ドクン、と耳元で大きく脈打つ。鼓動の音は、周囲の静寂を打ち破り、まるで世界の終わりを告げる警鐘のように響き渡る。
恵の視界は、一点に集中されていた。暗闇の中に浮かび上がる、スマートフォンのライトが照らし出す水盤の表面が、彼女の瞳に映り込んでいる。
次に、やるべきことは分かっている。
第五の掟。『口をゆすぐ前に、心の中で叶えたい願い事を一つだけ唱える』。
恵は、目を閉じた。
彼女の意識は、深く、深く、心の奥底へと潜り込んでいく。
この儀式は、呪いの解除だけではない。
彼女自身の、そして蓮の、健太の、全ての運命を賭けた最後の賭けなのだ。
ここで唱える願いは、彼女の魂の叫びそのものだった。
心の中で、一つの言葉を紡ぐ。
それは、誰にも聞かれない、彼女だけの、最も切実な願い。
その言葉は、彼女の唇から音として発せられることはなく、ただ、彼女の魂に深く、深く刻み込まれていく。
願いは、純粋で、しかし、ある種の狂気を帯びていた。
それは、彼女の人生の全てを懸けた、究極の祈りだった。
背後では、石灯籠にもたれかかっている健太が、恐怖に顔を引きつらせていた。
彼の視線は、恵の背中と、そのさらに奥に立つ水子との間を、激しく往復する。
水子は、相変わらず音もなく、そこに立っていた。
濡れた黒髪が顔を覆い、深い水底のような漆黒の瞳が、恵のその一瞬の動作を、じっと、ただ、じっと見つめていた。
その瞳には、感情の機微は一切なく、まるで、恵の心の内側を全て見透かしているかのような、冷たい洞察力が宿っているように見えた。
水子は、この儀式の全てを知っている。
そして、この儀式が成功するか否かも、すでに理解しているかのように、微動だにしない。
健太は、水子の冷たい視線を感じながら、身体の自由が奪われた状態で、心の中で必死に叫んでいた。
頼む。恵。
成功してくれ。
呪いを解いてくれ。
彼の全身は、異常な喉の渇きと、全身に広がる青い水痕によって、悲鳴を上げていた。
水子の呪いは、彼の体内から水分を奪い続け、もはや彼の命の灯火は、風前の灯火だった。
幻覚は、彼の視界を完全に覆い尽くし、水子の冷たい手が、彼の首筋を撫でるかのように感じられた。
彼は、自分の死が、今この瞬間にも迫っていることを、肌で感じていた。
しかし、その切実な願いの奥底で、健太の心には、ある自己中心的な考えが、ひっそりと芽生え始めていた。
──頼むから、成功してくれ。
俺を助けてくれ。
蓮のため、恵のためという大義名分は、彼の口先では常に語られていた。
だが、この極限状態において、人間の本性が剥き出しになるように、彼の心の奥底では、何よりもまず「自分だけは絶対に助かりたい」という、純粋な、しかし、どこまでも利己的な感情が、頭をもたげていた。
彼は、かつて、自分の保身のために恵を捨て、蓮の病気から目を背けた。
そして今、命の瀬戸際に立たされ、再びその自己中心性が、醜い芽を出し始めていた。
この儀式が成功すれば、俺は助かる。
そうすれば、また、これまでと同じ生活に戻れるかもしれない。
この忌まわしい呪いから解放され、自由になれる。
彼の心に、わずかな安堵が広がる。
だが、その安堵は、健太自身の醜い本性を曝け出す、冷たい光でもあった。
水子は、そんな健太の心の動きを、すべて見透かしているかのように、その虚無の瞳で、じっと彼を見つめている。
まるで、その感情が、水子の存在そのものを肥え太らせる養分であるかのように。
健太の身体は、恐怖と渇きと、そして自らの醜い感情に苛まれ、小刻みに震えていた。
それでも彼は、恵から目を離すことができない。
彼女の小さな背中に、自分自身の命運が全て託されているのだ。
恵は、心の中で願いを唱え終え、ゆっくりと目を開けた。
彼女の瞳は、静かに、そして力強く輝いていた。
そこに宿るのは、もはや迷いでも、恐怖でもない。
ただ、蓮と健太を救うという、揺るぎない決意だけだった。
彼女は、口に含んだ水を、ゆすぐ準備をする。
第六の掟。『口をゆすぎ、その水を吐き出す』。
だが、その一瞬の動作にも、細心の注意が払われる。
口に含んだ水を、そのまま飲み込んでしまえば、全てが水の泡と化す。
彼女は、ゆっくりと顔を下げ、水盤へと口元を近づけていった。
境内の静寂は、ますます深まり、張り詰めていた。
すべての時間が、恵の次の一瞬に集中しているかのようだった。




