第三十三話:九つの掟~水の清め~
静寂が、境内を支配していた。
それは、単に音がないという状態ではなかった。
あらゆる存在が、呼吸を止め、身を固くし、これから行われる神聖な、あるいは冒涜的な儀式を、固唾をのんで見守っているかのような、濃密で、圧殺されそうな静寂だった。
恵は、ゆっくりと、持ち上げた柄杓を水盤へと差し入れた。
ひやり、とした水の感触が、竹の柄を通して、彼女の指先にまで伝わってくる。
それは、ただの水の冷たさではなかった。
まるで、長い年月、光の届かない深い洞窟の底で、静かに時を重ねてきたかのような、生命の温もりを一切拒絶する、鉱物的な冷たさだった。
恵の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
だが、彼女の右手は、もう震えてはいなかった。
恐怖は、覚悟という名の硬い鞘に、今は納められている。
ちゃぷん。
柄杓が水を掬う、ごく小さな音が、静まり返った境内に、異様なほど大きく響き渡った。
まるで、この音を合図に、世界の法則が書き換えられていくかのようだ。
風は完全に止み、月は薄い雲の後ろにその姿を隠し、闇は一層その深さを増した。
第一の掟。『右手で柄杓を取り、水を掬う』。
クリア。
恵は、心の中で、冷静に確認した。
次に、掬った水を、ゆっくりと左手の上へと傾ける。
さらさらと、冷たい水が、彼女の左の手のひらを滑り落ち、指の間を抜け、地面の苔へと吸い込まれていく。一滴、一滴、零れ落ちる水が、まるで自分の生命そのものであるかのように感じられた。
スマートフォンのライトに照らされて、その水滴は、きらりと光っては闇に消える、儚いダイヤモンドのようだ。
第二の掟。『掬った水で左手を清める』。
完了。
恵は、息を潜めたまま、柄杓を左手に持ち替えた。
右手に直接触れないよう、細心の注意を払う。
その動作は、まるでスローモーション映像のように、どこまでも慎重で、ぎこちない。
そして、再び水盤から水を掬い、今度は右手を清める。
左手と同じように、冷たい水が、彼女の右の手のひらを伝い、指先から滴り落ちていった。
第三の掟。『柄杓を左手に持ち替え、右手も清める』。
一つ一つの動作を終えるたびに、恵は、頭の中に焼き付けた掟と、自分の行動を照合する。
順番は合っているか。
作法に間違いはないか。
右と左を、取り違えてはいないか。
全神経が、研ぎ澄まされていく。
背後で、石灯籠にもたれかかっている健太の、苦しげな呼吸が聞こえる。
彼の存在が、恵の決意をさらに強固なものにした。
健太は、両手を胸の前で固く組み合わせ、祈っていた。
何に祈っているのか、彼自身にも分からなかった。
神か、仏か、あるいは、目の前で禁忌を犯そうとしている、かつての妻か。
ただ、彼の全身全霊が、恵の成功を願っていた。
彼女の背中は、ひどく小さく、頼りなげに見えた。
しかし、その小さな背中から放たれる気迫は、この神社の禍々しい闇と、たった一人で対峙しているかのようだった。
頼む。
恵。
成功してくれ。
健太は、声にならない声で、ただひたすらに、そう念じ続けた。
その、健太のすぐ背後だった。
木々の枝が作り出す、深い、深い闇。
その闇が、ゆらり、と揺れた。
それは、風に揺れたのではなかった。
風は、とっくの昔に止んでいる。
闇の一部が、まるで黒インクが水に滲むように、ゆっくりと形を成していく。
輪郭が生まれ、色がつき、実体を持って、そこに出現した。
音も、気配も、一切なかった。
ただ、気づいた時には、それは、そこに立っていた。
水子。
常に濡れた黒髪が、顔のほとんどを覆い隠している。
その隙間から覗く目は、光を一切反射しない、深い水底のような漆黒。
感情というものが、根こそぎ抜け落ちた、虚無の瞳。
水に浸かり続けていたかのように青白い肌には、健太の腕に浮かぶものと同じ、不気味な青い水痕が、血管のように脈打っている。
身にまとった、水に濡れて体に張り付く薄い白衣のようなものは、ところどころが破れ、まるで水底の藻のようだ。
その細長い指先から、ぽたり、ぽたりと、絶え間なく水滴が滴り落ちていた。
水子は、健太のすぐ後ろで、ただ、じっと立っていた。
その虚ろな視線は、健太を通り越し、儀式を続ける恵の背中に、まっすぐに注がれている。
健太は、その存在に気づいた。
気づいてしまった。
背後に立つ、絶対的な死の気配。
凍てつくような冷気。
腐った水のような、淀んだ匂い。
声が出ない。
悲鳴を上げようとしても、喉が恐怖で凍りつき、ひゅっ、という空気が漏れる音しかしない。
身体が、石のように硬直し、指一本動かすことができない。
逃げろ、と叫びたいのに。
恵に、危険を知らせたいのに。
だが、それと同時に、動いてはならない、と本能が警告していた。
ここで自分が少しでも動いたり、声を発したりすれば、恵の完璧な集中が途切れてしまう。
そうなれば、全てが終わりだ。
健太にできることは、ただ一つ。
この場で、死の化身の存在に耐えながら、恵の儀式が終わるのを、祈り続けることだけだった。
恵は、もちろん、背後で起きているおぞましい出来事に、気づくはずもなかった。
彼女の意識は、ただ、九つの掟を完遂すること、その一点にのみ集中している。
第四の掟。
恵は、柄杓を、再び右手に持ち替えた。
そして、左の手のひらを、器のように窪ませる。
柄杓を傾け、澄み切った、しかし、どこか禍々しい気配を湛えた水を、その手のひらへと、ゆっくりと注いだ。
冷たさが、掌の皮膚を突き刺す。
恵は、その冷たい水を、静かに口元へと運んだ。
『柄杓には直接口をつけない』
健太が、おそらく失敗したであろう、重要なルール。恵は、そのことを、骨の髄まで理解していた。
彼女の唇は、柄杓には決して触れない。
細心の、寸分の狂いもない注意を払って、左の手のひらに溜めた水だけを、口の中へと含んだ。
ひやりとした液体が、舌の上を滑り、口内を満たしていく。
それは、ただの水ではなかった。
鉄錆のような、微かな味。
そして、古い井戸の底のような、黴臭い匂い。
この水には、数えきれないほどの、願いと、絶望が溶け込んでいる。
そんな、直感が恵の脳裏をよぎった。
恵は、口に水を含んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
呼吸を整える。
次に、やるべきことは、分かっている。
第五の掟。『口をゆすぐ前に、心の中で叶えたい願い事を一つだけ唱える』。
背後では、健太が恐怖に顔を引きつらせ、そのさらに後ろでは、水子が、無表情のまま、恵の次の一瞬を、じっと、ただ、じっと、見つめていた。
境内の静寂が、極限まで張り詰めていた。




