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死に水  作者: 月影 朔
第六章:最後の儀式

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第三十二話:手水舎の闇

 一歩、また一歩と、手水舎に近づくにつれて、空気が密度を増していくのが肌で感じられた。


 それは、単なる湿気ではない。


 まるで、水そのものの中を歩いているかのような、ねっとりとした抵抗感。

呼吸をするたびに、肺が冷たく、重い水で満たされていくような錯覚に陥る。


 恵は、健太の身体を支え、ゆっくりと手水舎の真横まで来ると、近くにあった、かろうじて形を保っている石灯籠に、彼の身体をそっと寄りかからせた。


「ここで、待ってて」


「……恵」

 健太が、かすれた声で彼女の名を呼ぶ。


 その瞳には、これから一人で禁忌に触れようとする恵への、止めようのない不安と、自分自身の無力さに対する絶望が、深く、暗く渦巻いていた。


 恵は、彼の言葉に答えず、ただ一度だけ、力強く頷いてみせた。

大丈夫、という無言のメッセージ。

それが、今の彼女にできる、唯一の慰めだった。


 そして、恵は一人、手水舎の前に立った。


 目の前に佇むそれは、闇の中で、異様なほどの存在感を放っていた。


 風雨に長年晒され、黒ずんだ石。

その四隅には、精緻な、しかし何の模様かは判別できない彫刻が施されている。


 長い年月を経て、角は丸みを帯びていたが、その佇まいには、そこらの廃墟とは一線を画す、神聖さ、あるいは、禍々しさが同居していた。


 水盤には、なみなみと水が張られている。


 月明かりと、恵が手にしたスマートフォンのライトを受けて、その水面は、まるで磨き上げられた黒曜石のように、静かに、そして不気味に輝いていた。


 健太が言っていた通り、山奥の、打ち捨てられた手水とは思えないほど、その水はどこまでも澄み切っている。

底に沈んだ、数枚の枯れ葉の輪郭まで、はっきりと見て取れた。


 しかし、その清澄さとは裏腹に、この場所を支配している空気は、昼間とは全く異質のものだった。

いや、昼間にここを訪れたことはないが、健太が語った神社の様子と、今、自分が肌で感じているこの雰囲気は、天と地ほども違うだろうと、確信できた。


 空気が、重い。


 まるで、深い、深い水底にいるようだ。


 全身に、見えない水圧がかかっている。

鼓膜が圧迫され、自分の心臓の音が、頭蓋の内側で、ドクン、ドクン、と大きく響き渡る。


 恵は、儀式を始める前に、まず、その水盤の縁に置かれた柄杓へと目をやった。


 節くれだった、古い竹製の柄杓。


 健太が、そして、それ以前に、この呪いで命を落としていったであろう、名も知らぬ誰かかが、同じように手に取ったであろう、呪いの道具。


 恵は、ゆっくりと、その柄杓が置かれた台座に手を伸ばした。


 指先が、柄杓の冷たい竹に触れる、その寸前。


 ぴたり、と彼女の手が止まった。


 震えている。


 自分では気づかないうちに、指先が、小刻みに、しかし、はっきりと震えていた。


 決意は固めたはずだった。恐怖は、乗り越えたはずだった。


 だが、身体は、正直だった。


 この場所に満ちる、人知を超えた「何か」の存在を、本能的なレベルで感じ取り、拒絶反応を示しているのだ。


 恵は、一度、手を引っ込めた。


 そして、すぐ傍らの水盤に張られた、静かな水面に、視線を落とした。


 そこに、自分の顔が映っていた。


 スマートフォンのライトに照らされた、青白い顔。

恐怖と緊張で、固くこわばった表情。

見開かれた瞳は、暗闇に怯えるように、頼りなげに揺れている。


 だが、その恐怖の奥底に、別の光が宿っているのを、恵は自分自身で見て取った。


 それは、炎のような、強い光。


 どんなことがあっても、この儀式を成功させるのだという、揺るぎない決意。


 蓮の命を救うため。


 健太の命を繋ぎ止めるため。


 そのためならば、悪魔にだって、魂を売ってやる。


 恐怖と決意。


 生への渇望と、死への覚悟。


 水面に映る自分の顔は、その二つの相反する感情が、奇妙なバランスで混じり合った、複雑な表情をしていた。

聖女のようでもあり、魔女のようでもある、歪んだ肖像。


 私は、一体、どちらなのだろう。


 そんな、場違いな問いが、ふと頭をよぎる。


 恵は、その問いを振り払うように、一度、強く目を閉じた。


 そして、ゆっくりと、深く、息を吸い込んだ。


 冷たく、湿った空気が、肺の隅々まで満たされていく。

それは、まるで、この場所に溜まった、怨念や、無念や、悲しみといった、負の感情の全てを、自分の身体に取り込むような行為だった。


 息を吸い込み、そして、静かに、長く、吐き出す。

 これを、数回繰り返した。


 乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。暴れていた心臓の鼓動も、徐々に、だが、確実に、鎮まっていくのが分かった。


 恐怖が消えたわけではない。


 だが、その恐怖を、自分の支配下に置くことはできる。


 恵は、再び、目を開けた。


 もう、彼女の瞳に揺らぎはなかった。


 水面に映る自分の顔もまた、先ほどとは違う、静かで、冷徹な光を湛えている。


 気を落ち着かせ、心を無にする。


 今から自分がやるのは、神聖な儀式。

一つのミスも許されない、完璧な手順の遂行。


 雑念は、最大の敵だ。


 恵は、もう一度、柄杓へと手を伸ばした。


 今度は、もう、震えはなかった。


 ひやりとした竹の感触が、指先に伝わる。


 その瞬間、ざわり、と背後の闇が、一層深く、濃くなったような気がした。


 風が、止まった。


 木々の葉のざわめきも、虫の音も、全ての音が、ぴたりと止む。


 まるで、舞台の幕が上がる直前のように、世界が息を殺した。


 この場所にいるのは、自分と、健太と、そして、これから自分が呼び起こそうとしている、得体の知れない「何か」だけ。


 恵は、その圧倒的な静寂とプレッシャーの中で、ゆっくりと、柄杓を持ち上げた。


 儀式が、始まる。

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