第三十一話:夜の神社へ
車のエンジン音が途絶えた瞬間、世界から一切の音が消え失せた。
先ほどまでカーラジオから流れていた、場違いに陽気な音楽も、タイヤが砂利を踏む音も、何もかもが、分厚い闇に飲み込まれていく。
後に残されたのは、完全な静寂と、助手席から聞こえる健太のか細く、苦しげな呼吸音だけだった。
「……着いたわ」
恵の呟きは、密閉された車内で、やけに大きく響いた。
ヘッドライトが照らす先に、それはあった。
半分朽ち果て、かつての朱色も今は見る影もなく剥げ落ちた、古い鳥居。左右の柱には太い蔦が蛇のように絡みつき、まるで自然が、人間が作り出した聖域を長い時間をかけて絞め殺そうとしているかのようだ。
鳥居の向こう側は、さらに深い闇が口を開けており、この世の終わりへと続いているかのような、底知れない不気味さを湛えている。
ここが、入り口。
全ての元凶であり、そして、最後の希望かもしれない場所。
恵は、ごくりと喉を鳴らした。車の外に出るのが、躊躇われた。この安全な鉄の箱から一歩踏み出せば、もう後戻りはできない。そんな、本能的な恐怖が全身を駆け巡る。
「……恵」
健太が、うわごとのように呟いた。
「怖いなら……まだ、戻れるぞ……」
彼の声には、恵を気遣う響きと、同時に、心のどこかで彼女に「戻ろう」と言ってほしいと願う、弱々しい響きが混じっていた。
恵は、その言葉に答えず、静かに車のドアを開けた。
ひやり、とした夜気が、むわりと肌にまとわりつく。
湿った土の匂いと、腐葉土が発酵するような、甘く淀んだ匂い。
そして、その奥に、微かに混じる、古い水の匂い。
それは、健太の身体から漂う、あの呪いの匂いと同質のものだった。
恵は、助手席のドアを開け、ぐったりとした健太の身体を支え起こした。
「しっかりして、健太。歩ける?」
「……ああ」
健太は、恵の肩に腕を回し、最後の力を振り絞るようにして車から降りた。
彼の体重が、ずしりと恵の肩にのしかかる。
生きた人間の重みというより、水の抜けた砂袋のような、中身のない重さだった。
二人は、ゆっくりと、あの朽ちた鳥居の前まで歩を進めた。
見上げる鳥居は、圧倒的な存在感で、二人を見下ろしている。
まるで、これから禁域に足を踏み入れようとする、愚かな人間を嘲笑う、巨大な骸骨の顎のようだ。
恵は、一度だけ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
震えるな。怖がるな。
私は、これをやり遂げるために来たのだ。
蓮のために。
そして、隣で死にかけている、この男のために。
目を開けた時、彼女の瞳に、もはや迷いの色はなかった。
「行くわよ」
その一言だけを告げ、恵は健太の身体を支えながら、鳥居の下をくぐった。
その瞬間、空気が変わった。
気のせいではない。鳥居の外と内で、明らかに温度と湿度が違う。
まるで、目に見えない膜を一枚通り抜けたかのように、空気がねっとりと重くなり、肌にまとわりついてくる。背後で、文明世界の音が完全に遮断された。
鳥居の先には、闇に沈む長い石段が、ひたすらに続いていた。
苔とシダに覆われたそれは、一段一段が不揃いで、ひどく歩きにくい。
恵は、スマートフォンのライトを頼りに、足元を照らしながら、健太を支え、一歩、また一歩と、石段を登り始めた。
ザッ……ザッ……
静寂な闇の中に、二人の足音だけが、不気味に響き渡る。
健太の「はぁっ、はぁっ」という荒い呼吸が、すぐ耳元で聞こえる。
彼の身体は氷のように冷たいのに、額からは脂汗が絶え間なく流れ落ちていた。
「大丈夫……?
少し、休む?」
「いや……いい。
行こう……」
彼の声は、もはや風前の灯火だった。
登っても、登っても、石段は終わらない。
見上げても、闇が続くだけ。振り返っても、闇が口を開けているだけ。
まるで、天と地の狭間に取り残されたかのような、心細さと孤独感が、じわじわと心を蝕んでいく。
風が、木々の間を吹き抜ける音がした。
ざわわ……と、葉が擦れ合う音。
それは、人の囁き声のように聞こえた。
無数の人間が、息を潜め、こちらの様子を窺っている。
そんな、悪寒に満ちた錯覚。
「……誰か、いるのか……?」
健太が、怯えたように呟き、背後を振り返った。もちろん、そこには誰もいない。
ただ、風に揺れる木々の影が、まるで手招きをするように、不気味に蠢いているだけだ。
恵の心臓も、激しく鼓動していた。
全身の毛が逆立つような、圧倒的なプレッシャー。この山全体が、一つの巨大な生き物で、自分たちはその体内へと、自ら足を踏み入れているのではないか。
そんな、荒唐無稽な妄想が頭をよぎる。
それでも、彼女の足は止まらなかった。
彼女の決意は、固かった。
頭の中で、ノートに書き写した「九つの掟」を、何度も、何度も、呪文のように反芻する。
一、右手で柄杓を取り、水を掬う。
二、掬った水で左手を清める。
三、柄杓を左手に持ち替え、右手も清める。
四……。
それが、恐怖に支配されそうになる彼女の心を支える、唯一の支柱だった。
この手順さえ間違えなければ。
絶対に、間違えなければ。
どれほどの時間を登り続いただろうか。
永遠に続くかと思われた石段が、不意に途切れた。
息を切らし、顔を上げると、その先に、少しだけ開けた空間が広がっていた。
神社の、境内。
そこは、時の流れから完全に取り残された場所だった。
倒れ、苔に覆われた石灯籠。首のない、風化した狛犬。本殿があったであろう場所は、すでに屋根が崩落し、巨大な獣の肋骨のような骨組みだけが、月明かりの下に黒々としたシルエットを晒している。
全てが、死に絶えていた。
そして、その境内の隅に、それはあった。
他の建造物とは不釣り合いなほど、しっかりとした姿を保った、石造りの手水舎。
闇の中でも、そこに溜められた水が、月光を鈍く反射しているのが見えた。
目的地を前に、二人は、しばし立ち尽くした。
健太は、その手水舎を見て、恐怖に身体を震わせている。
彼にとって、そこは、自らの人生を狂わせた呪いの発生源だ。
だが、恵は違った。
彼女は、その手水舎を、ただ、まっすぐに見据えていた。
彼女の心臓は、今にも破裂しそうなほど激しく鼓動している。
指先は冷え、呼吸は浅い。
しかし、その瞳の奥には、恐怖を凌駕する、鋼のような強い意志が宿っていた。
やるしかない。
ここで、全てを終わらせる。
あるいは、全てが、ここから始まる。
恵は、健太の身体を支え直し、最後の目的地へと向かって、最後の一歩を踏み出した。
静寂の中、ザッ、という足音が、まるで運命の扉を開く音のように、響き渡った。




