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死に水  作者: 月影 朔
第一章:不穏な兆し
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第三話:病と夫婦の絆

 カフェの喧騒が再び恵を包み込む。


先ほど見たニュース記事の不穏な内容が、まるで棘のように心に刺さったまま、どうしても拭い去れない。それでも恵は、努めて平静を装い、いつものように笑顔で客と向き合っていた。


 しかし、その心の奥底には、常に一つの影が付きまとっている。


 それは、息子、蓮の存在だった。


 蓮は五歳。

本来なら幼稚園で友達と駆け回り、泥だらけになって遊ぶような年頃だ。


 だが、彼の世界は、病院の白い壁と、点滴のチューブ、そして消毒液の匂いで満たされていた。

二年前、突然発症した難病の心臓病。以来、蓮の小さな身体は入退院を繰り返し、その度に恵の心は引き裂かれる思いだった。


 休憩時間が終わり、再びフロアに出た恵は、慣れた手つきでグラスを拭きながら、スマートフォンの画面に目をやった。

ロック画面には、病室で眠る蓮の写真。

か細い指が、そっと恵の指を握り返している写真だった。


 見るたびに胸が締め付けられるが、同時に、何としてでもこの子を救うという、燃えるような決意が込み上げてくる。


 恵はシングルマザーとして、蓮の治療費と生活費を一人で背負っていた。

カフェの仕事だけでは到底足りず、夜は別のアルバイトも掛け持ちしている。


 身体は常に疲労の極限にあり、目の下のクマはもはや彼女の一部と化していた。それでも、弱音を吐くことは許されない。蓮が、自分の命を賭けて生きようとしているのだから。


 かつて、恵には高橋健太という夫がいた。

今から半年ほど前、蓮の病を機に、二人は別々の道を歩むことを選択した。


 健太と恵は、蓮が生まれる前は本当に仲睦まじい夫婦だった。

他愛のないことで笑い合い、休日は三人で公園に出かける。そんな、絵に描いたような幸せな家庭を築いていた。


 蓮が生まれてからは、健太も恵も子育てに夢中だった。

蓮が少し熱を出すだけでも大騒ぎし、夜中に病院に駆け込んだことも一度や二度ではない。


 だが、蓮の病が発覚してからの二年間は、想像を絶するものだった。


 蓮の病は進行性で、心臓の機能は徐々に低下していった。

医師からは、いずれは心臓移植が必要になるかもしれないと告げられた。その途方もない現実が、二人の生活に暗い影を落とし始めた。


 治療方針を巡って、夫婦の間ですれ違いが生じるようになった。

恵はどんな僅かな可能性にもすがりたい一心で、藁にもすがる思いで様々な治療法を調べ、医師に食い下がった。


 蓮の命のためなら、どんな高額な治療も、どんな困難な道もいとわないと心に決めていた。


 しかし、健太は違った。


 彼は現実主義者だった。恵が持ち出す代替療法や、まだ確立されていない最先端の治療法に、彼は常に懐疑的だった。


「そんな怪しい治療に、蓮の身体を危険に晒すのか? 

もっと現実を見ろよ、恵!」


 健太の声には、疲労と苛立ちが滲んでいた。

彼は蓮の苦しむ姿に耐えきれず、これ以上、蓮に辛い思いをさせたくないという気持ちが強かった。時には、治療そのものに消極的な姿勢を見せることもあった。


 恵は、そんな健太の態度が理解できなかった。

蓮が苦しんでいるのは、生きようとしているからだ。その命の輝きを、なぜ彼は諦めようとするのか。恵には、それが蓮を見捨てる行為のように思えた。


「あなたには、蓮の気持ちがわからないのよ!」


 二人の口論は激しさを増していった。

言葉は互いを傷つけ、愛情はすり減り、信頼は音を立てて崩れていった。蓮の病は、二人の夫婦関係を蝕んでいったのだ。


 金銭的な問題も、常に二人の間に横たわっていた。蓮の治療費は莫大で、健太の会社員としての収入だけでは到底賄いきれなかった。

恵もカフェで働き、夜はアルバイトをしていたが、それでも毎月、赤字は膨らんでいった。健太は、そのプレッシャーに耐えかねていた。


「もう無理だ、恵。

これ以上、借金を重ねることはできない」

健太がそう口にした時、恵の心は完全に冷え切った。


 蓮の命よりも、金が大事なのか。

そう詰問した恵に、健太は何も答えられなかった。


 半年ほど前、二人は離婚届を提出した。


 だが、蓮の存在は、二人にとって共通の、そして最も大切なものであり続けた。離婚後も、健太は定期的に蓮を見舞いに来ていた。


 夫婦ではなくなったが、蓮の両親であることに変わりはない。蓮の前では、二人は仲の良い親を演じ、蓮の笑顔を守ろうと努めた。


 恵は今日、仕事が終わるとすぐに病院に向かう予定だった。蓮が、昨日から熱を出していると連絡があったのだ。


 閉店作業を終え、急いで病院へと向かう。

エレベーターの扉が開き、小児病棟の廊下に出た瞬間、恵の心臓は締め付けられるような痛みを感じた。消毒液の匂い、そして遠くから聞こえる子供の泣き声が、蓮の病状を暗示しているようで、恵の胸を不安でいっぱいにする。


 蓮の病室の前に立ち、恵は深呼吸をした。扉を開くと、白いベッドの中で、蓮が小さく丸くなっていた。


 点滴のチューブが彼の細い腕に繋がれ、時折、苦しそうに咳き込んでいる。呼吸器が、か細い音を立てていた。


「蓮……」


 恵はそっと蓮の頭を撫でた。

蓮は熱い息を吐きながら、うっすらと目を開け、恵の顔を見上げた。


「ママ……」


 か細い声だった。

その声を聞いただけで、恵の目頭が熱くなる。


「大丈夫だよ、ママがいるからね」


 恵は蓮の手をそっと握った。蓮の小さな手は、驚くほど冷たかった。


 心電図のモニターが規則的な音を刻む。その音は、蓮の命が今、確かにここにあることを教えてくれる。しかし、同時に、その命がどれほど危うい均衡の上に成り立っているかを、恵に突きつけてくる。


 恵は蓮の横に座り、ただひたすら、彼の小さな身体に触れていた。蓮の呼吸が、少しずつ荒くなっていることに気づく。モニターの表示に、微かな乱れが見えた。恵の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち始めた。


 何としてでも、この子を救わなければ。


 その思いが、恵の心の奥底から湧き上がってくる。どんな犠牲を払ってでも。どんな禁忌を犯してでも。


 たとえ、それが人間としての倫理や常識を逸脱する行為であったとしても。


 蓮の命を守るためならば、恵はどんなことでもする覚悟だった。それは、もはや愛情というよりも、偏執的な執念に近いものだった。


 病室の窓の外では、夜の闇が静かに広がり始めていた。病院の廊下からは、看護師の足音と、かすかな話し声が聞こえてくる。そのすべてが、恵にとって、遠い世界の出来事のように思えた。


 恵の意識は、ただ蓮の命だけに集中していた。


 あの不気味なニュース記事が、恵の脳裏をよぎる。干からびた遺体。口元から溢れる水の泡。あの記事が、なぜ今、こんなにも鮮明に思い出されるのか。


 恵は蓮の冷たい手を握りしめ、目を閉じた。


 蓮を救うためなら、私は何でもする。


 その固い決意が、恵の心を支配していた。まるで、暗闇の中で一本の光を探すかのように。


 だが、その光が、やがて彼女自身を、そして周囲をも巻き込む、底なしの深淵へと誘うことになるとは、この時の恵は知る由もなかった。


 病室の冷たい空気の中で、蓮のか細い寝息だけが、恵の耳に響き渡っていた。


 それは、彼女の心を蝕む恐怖と、抗いがたい執念の始まりの音でもあった。

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