第二十八話:ささやかな供養
恵が水野光子の墓石に水を捧げた後も、静寂は破られることなく、墓地全体を深く包み込んでいた。
立ち上る線香の煙だけが、ゆらゆらと空気に溶け込み、その場に漂う湿気と重い空気をかき混ぜる。
二人は、ただ祈るように、墓石の前に座り込んでいた。
他にできることは、何もなかった。
持参した花束を供え、僅かながら残っていたペットボトルの水をすべて手向けた。
これが、自分たちにできる、精一杯の供養だった。
健太は、恵の隣で、まるで生きる屍のようにぐったりとしていた。
彼の意識は、すでに朦朧とし、五感はひどく鈍っていた。
喉の渇きは、もはや痛みを超越し、存在そのものが水分を求めて乾ききっていくような感覚に苛まれる。
体内の血液が粘りつき、流れが滞っているかのような錯覚に陥る。呼吸は浅く、途切れ途切れで、胸郭が軋むような痛みが走る。
それでも彼は、恵が供養を終えるまで、必死にその場に留まろうとしていた。
恵は、ゆっくりと目を開けた。
線香の煙は、すでにその勢いを失い、細く頼りなく立ち上っている。
彼女は、健太にそっと手を伸ばした。
彼の額に触れると、異常なほどに冷たい。
皮膚の下を走る血管が、まるで青い糸のようにくっきりと浮き上がっていた。
「健太……
終わったわ」
恵の声は、か細く、風に掻き消されそうだった。
彼女自身も、全身の疲労と、この供養が本当に効くのかという不安で、胃の奥が冷たく締め付けられるようだった。
健太は、恵の言葉に、わずかに瞼を持ち上げた。
その瞳には、かろうじて恵の姿が映っていたが、すぐに水子の冷たい顔が重なった。
水子は、健太のすぐ目の前で、薄い唇をわずかに歪ませた。
それは、嘲笑なのか、あるいは、彼らの無力さを憐れむような表情なのか、判別できない。
ただ、底知れない悪意が、その虚ろな瞳の奥に宿っているように感じられた。
「消えた……
か……?」
健太が、掠れた声で呟いた。
彼の意識は、わずかな希望に縋っていた。
水野光子の怨念が鎮まれば、この呪いは解ける。
そう信じたい気持ちが、彼の心を支配していた。
彼は、震える指を自身の腕へと伸ばした。
青い水痕が、まるで血管のように腕全体に広がっている。
彼の視線は、その青い痕跡に釘付けになった。
恵もまた、固唾を呑んで健太の腕を見つめた。
心臓の鼓動が、異常なほどに速くなる。
もし、もし、この水痕が消えていたら……。
健太は、助かる。
その希望が、彼女の胸に微かに揺らめいていた。
しかし、その淡い希望は、無残にも打ち砕かれた。
健太の腕の青い水痕は、何一つ変わっていなかった。
いや、むしろ、以前よりもさらに濃く、鮮明になっているようにも見えた。
皮膚の表面だけでなく、まるでその下の筋肉や骨にまで、青い液体が染み込んでいるかのようだった。
「あ……
ああ……」
健太の口から、絶望の呻き声が漏れた。
彼の瞳に宿っていたわずかな光が、音を立てて消え去っていく。
彼の顔に、深い絶望の色が浮かび上がった。
その表情は、暁が命を落とした時に見せた、あの驚愕と苦悶の表情と、瓜二つだった。
「嘘だ……
そんな……」
健太の声は、もはや絶叫に近いものだった。
彼は、自分の腕を何度も何度も擦り、青い水痕を消そうと試みた。
しかし、それは皮膚に深く刻まれた模様のように、決して消えることはなかった。
恵もまた、その光景に言葉を失った。
全身から力が抜け、膝が震える。
必死にたどり着いたはずの、最後の希望が、無残にも目の前で崩れ去ったのだ。
「そんな……
どうして……」
彼女の脳裏には、最悪の考えが浮かんだ。
このままでは、健太は……。
健太の身体は、再び激しい痙攣に襲われた。
水子の幻影は、もはや彼を嘲笑うことをやめ、ただ静かに、その漆黒の瞳で見つめている。
まるで、「もう終わりだ」と告げているかのように。
健太は、必死に呼吸をしようと、ぜいぜいと喉を鳴らした。
しかし、肺は水分で満たされているかのように重く、空気を取り込むことができない。
彼の身体は、急速に冷え込み、指先から感覚が失われていく。
「恵……」
健太が、か細い声で恵を呼んだ。
その声は、水に溶けて消えゆくかのように弱々しい。
恵は、健太の腕を掴んだ。
彼の身体は、もはや生きた人間の体温を失い、ひんやりと冷たい。
青い水痕は、まるで彼の生命が水へと変わっていく過程を示すかのように、脈動している。
「健太!
健太、しっかりして!」
恵は、必死に健太を揺さぶった。
しかし、彼の意識は、すでに深い闇へと沈みかけていた。
水野光子の墓地は、再び静寂に包まれた。
しかし、その静寂は、彼らにとって何の慰めにもならなかった。
希望は消え去り、残されたのは、ただ絶望だけだった。
健太の死の期限は明日。
しかし、それは、もはや明日を待たずして、彼が呪いに飲み込まれることを示唆しているかのようだった。
廃寺の墓地に、冷たい風が吹き抜ける。
それは、まるで、水子の嘲笑のようにも、あるいは、水野光子の悲しい慟哭のようにも聞こえた。




