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死に水  作者: 月影 朔
第五章:起源への接近

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第二十七話:供養の準備

 水野光子の墓石の前で、恵と健太は力なく膝をついた。


 健太の身体は小刻みに震え、喉からは乾いた喘ぎが漏れていた。彼の目は焦点が定まらず、水子の幻影が常に視界を覆い尽くしているかのようだった。


 しかし、目の前にある「水野家之墓」の文字と、その脇に佇む小さな「光子」の石碑が、彼らに最後の希望を与えていた。


 「健太……

ここだ。私たちが探していたのは……」


 恵の声は震えていたが、その中には、確かな安堵と、かすかな決意が宿っていた。

彼女は、もはや躊躇している暇などないことを悟っていた。


 健太の命の灯火は、今にも消えそうだ。


 二人は、今日この供養を行うために、最低限の品々をリュックに詰めてきていた。

線香、ライター、水の入ったペットボトル、そして、小さな花束。それらは、事前に購入しておいたものだ。


 廃寺の中に仏具を探すような余裕も、時間も、彼らにはなかった。


 恵は、健太を支え、ゆっくりと墓石に近づいた。

まず、手で払える範囲の苔や枯れ葉を取り除いた。

墓石は冷たく、長年の風雨に晒された痕跡が、その表面に深く刻まれている。


 彼女は、リュックから取り出した小さな布で、墓石を丁寧に拭き始めた。

乾いた土と、湿った苔の匂いが混じり合う。


 健太は、恵のそばで、その場にうずくまるようにして耐えていた。

彼の意識は、もはや朧げだった。


 水子の冷たい手が、彼の首筋を撫でるかのように感じられ、囁き声が耳元で響く。


 「オワラナイ……

オワラナイ……」


 その声は、健太の心を深く深く抉り、彼を奈落の底へと引きずり込もうとする。

しかし、彼は恵の存在を感じ、必死に意識を保とうと努めていた。


 恵は、墓石の前に座り込んだ。

墓前には、小さな水受けが、苔に覆われながらも残っていた。


 彼女は、持参したペットボトルの水を、ゆっくりとそこに注いだ。

水は、墓石の表面を伝い、土へと吸い込まれていく。

まるで、水野光子の魂が、その水を欲しているかのように。


 次に、恵はリュックから線香を取り出した。

数本まとめて手に取り、その香りを嗅ぐ。

懐かしくも、どこか寂しげな香りが、廃寺の湿った空気に溶け込んでいく。


 健太は、その様子を、霞む視界の奥で見ていた。

彼の全身は、冷たくなり、異常なほどの喉の渇きが、彼の意識を奪い去ろうとしていた。


 彼の腕の青い水痕は、まるで血管がすべて青く染まったかのように濃くなっていた。

水子が、彼の体内の水分をすべて吸い取ろうとしているかのような、恐ろしい感覚に襲われる。


 「は……あ……は……」

 健太は、乾いた息を漏らす。


 彼の目の前には、水子が顔を近づけていた。

その冷たい瞳は、健太の苦痛を嘲笑っているかのようだった。


 しかし、恵が線香に火を灯す姿が、彼のわずかな希望を繋ぎ止めていた。


 恵は、ライターを取り出し、その火を線香の先端へと近づけた。

湿気を含んだ線香は、なかなか火がつかない。

何度もライターの石を擦り、乾いた音が虚しく響く。


 ようやく、線香の先端から、小さな炎が立ち上り、そして、その先に、赤く燃える線が走り出した。

煙が、ゆっくりと、しかし確実に立ち上り、あたりに線香独特の香りが満ちていく。


 恵は、その線香を香炉に立てた。

香炉は、土と埃にまみれてはいたが、まだその形を保っていた。


 線香から立ち上る細い煙は、まるで水野光子の魂へと届く道標のように、ゆらゆらと空へと昇っていく。


 「水野光子さん……」

 恵は、心の中で静かに呼びかけた。


 そして、次に、持参した小さな花束を、墓石の前に置いた。

色褪せた花々だが、この荒廃した墓地の中では、唯一の鮮やかな彩りだった。


 「これで……

少しは……」


 恵の目に、涙が滲んだ。

彼女は、水野光子の悲しみに、深く共感せずにはいられなかった。


 娘を失った母親の絶望。

それが、水子の怨念となってしまった。

自分も、蓮を失ったら、同じように狂ってしまうかもしれない。


 いや、きっと狂うだろう。


 恵は、ペットボトルに残っていた水を、今度は自身の両手で掬い取った。

そして、その水を、墓石の「光子」と刻まれた部分に、静かに手向けた。


 ひんやりとした水が、墓石を濡らし、ゆっくりと流れ落ちる。


 恵の手は、線香の火を灯した時よりも、さらに激しく震えていた。

これは、単なる水ではない。

水野光子の魂に触れる、最後の「死に水」なのかもしれない。


 健太は、その光景を、ほとんど意識のない状態で見ていた。


 彼の視界は、水子の顔と、墓石が交互に現れては消え、彼の精神をかき乱す。

水子の冷たい手が、彼の顔を包み込もうとしていた。


 喉の渇きは、もはや感覚の彼方にまで達し、身体の芯から冷え切っていた。


 しかし、恵が水を手向けた瞬間、彼の目の前にいた水子の幻影が、一瞬だけ、微かに揺らいだように見えた。


 恵は、水を手向けたまま、静かに墓石を見つめていた。


 供養は、まだ始まったばかりだ。

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