第二十七話:供養の準備
水野光子の墓石の前で、恵と健太は力なく膝をついた。
健太の身体は小刻みに震え、喉からは乾いた喘ぎが漏れていた。彼の目は焦点が定まらず、水子の幻影が常に視界を覆い尽くしているかのようだった。
しかし、目の前にある「水野家之墓」の文字と、その脇に佇む小さな「光子」の石碑が、彼らに最後の希望を与えていた。
「健太……
ここだ。私たちが探していたのは……」
恵の声は震えていたが、その中には、確かな安堵と、かすかな決意が宿っていた。
彼女は、もはや躊躇している暇などないことを悟っていた。
健太の命の灯火は、今にも消えそうだ。
二人は、今日この供養を行うために、最低限の品々をリュックに詰めてきていた。
線香、ライター、水の入ったペットボトル、そして、小さな花束。それらは、事前に購入しておいたものだ。
廃寺の中に仏具を探すような余裕も、時間も、彼らにはなかった。
恵は、健太を支え、ゆっくりと墓石に近づいた。
まず、手で払える範囲の苔や枯れ葉を取り除いた。
墓石は冷たく、長年の風雨に晒された痕跡が、その表面に深く刻まれている。
彼女は、リュックから取り出した小さな布で、墓石を丁寧に拭き始めた。
乾いた土と、湿った苔の匂いが混じり合う。
健太は、恵のそばで、その場にうずくまるようにして耐えていた。
彼の意識は、もはや朧げだった。
水子の冷たい手が、彼の首筋を撫でるかのように感じられ、囁き声が耳元で響く。
「オワラナイ……
オワラナイ……」
その声は、健太の心を深く深く抉り、彼を奈落の底へと引きずり込もうとする。
しかし、彼は恵の存在を感じ、必死に意識を保とうと努めていた。
恵は、墓石の前に座り込んだ。
墓前には、小さな水受けが、苔に覆われながらも残っていた。
彼女は、持参したペットボトルの水を、ゆっくりとそこに注いだ。
水は、墓石の表面を伝い、土へと吸い込まれていく。
まるで、水野光子の魂が、その水を欲しているかのように。
次に、恵はリュックから線香を取り出した。
数本まとめて手に取り、その香りを嗅ぐ。
懐かしくも、どこか寂しげな香りが、廃寺の湿った空気に溶け込んでいく。
健太は、その様子を、霞む視界の奥で見ていた。
彼の全身は、冷たくなり、異常なほどの喉の渇きが、彼の意識を奪い去ろうとしていた。
彼の腕の青い水痕は、まるで血管がすべて青く染まったかのように濃くなっていた。
水子が、彼の体内の水分をすべて吸い取ろうとしているかのような、恐ろしい感覚に襲われる。
「は……あ……は……」
健太は、乾いた息を漏らす。
彼の目の前には、水子が顔を近づけていた。
その冷たい瞳は、健太の苦痛を嘲笑っているかのようだった。
しかし、恵が線香に火を灯す姿が、彼のわずかな希望を繋ぎ止めていた。
恵は、ライターを取り出し、その火を線香の先端へと近づけた。
湿気を含んだ線香は、なかなか火がつかない。
何度もライターの石を擦り、乾いた音が虚しく響く。
ようやく、線香の先端から、小さな炎が立ち上り、そして、その先に、赤く燃える線が走り出した。
煙が、ゆっくりと、しかし確実に立ち上り、あたりに線香独特の香りが満ちていく。
恵は、その線香を香炉に立てた。
香炉は、土と埃にまみれてはいたが、まだその形を保っていた。
線香から立ち上る細い煙は、まるで水野光子の魂へと届く道標のように、ゆらゆらと空へと昇っていく。
「水野光子さん……」
恵は、心の中で静かに呼びかけた。
そして、次に、持参した小さな花束を、墓石の前に置いた。
色褪せた花々だが、この荒廃した墓地の中では、唯一の鮮やかな彩りだった。
「これで……
少しは……」
恵の目に、涙が滲んだ。
彼女は、水野光子の悲しみに、深く共感せずにはいられなかった。
娘を失った母親の絶望。
それが、水子の怨念となってしまった。
自分も、蓮を失ったら、同じように狂ってしまうかもしれない。
いや、きっと狂うだろう。
恵は、ペットボトルに残っていた水を、今度は自身の両手で掬い取った。
そして、その水を、墓石の「光子」と刻まれた部分に、静かに手向けた。
ひんやりとした水が、墓石を濡らし、ゆっくりと流れ落ちる。
恵の手は、線香の火を灯した時よりも、さらに激しく震えていた。
これは、単なる水ではない。
水野光子の魂に触れる、最後の「死に水」なのかもしれない。
健太は、その光景を、ほとんど意識のない状態で見ていた。
彼の視界は、水子の顔と、墓石が交互に現れては消え、彼の精神をかき乱す。
水子の冷たい手が、彼の顔を包み込もうとしていた。
喉の渇きは、もはや感覚の彼方にまで達し、身体の芯から冷え切っていた。
しかし、恵が水を手向けた瞬間、彼の目の前にいた水子の幻影が、一瞬だけ、微かに揺らいだように見えた。
恵は、水を手向けたまま、静かに墓石を見つめていた。
供養は、まだ始まったばかりだ。




