第二十六話:廃寺の墓
夜が明けた。
しかし、それは希望に満ちた朝とはほど遠い、重く湿った空気の広がる一日だった。
恵と健太は、昨日見つけた手がかり――水野光子の墓が廃寺、普門寺にあるという情報――を頼りに、その場所へと向かう準備を進めていた。
健太の身体は、限界を超えていた。
彼の顔色は土気色を通り越し、肌は異常なほどに青白く、全身の毛細血管が浮き出ているかのようだった。
喉の渇きはもはや耐え難く、水筒の水を一口飲むたびに、胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。
それでも彼は、蓮と恵を救うため、そして自身の呪いを解くために、必死に踏ん張っていた。
「健太、無理しないで。
少し休んだら?」
恵は、健太の様子を見て、何度も声をかけた。
彼女自身も、連日の不眠と精神的な疲労で、身体は鉛のように重かった。
しかし、彼女の心の中には、水野光子の墓を見つけ出すという、確固たる決意が燃え盛っていた。
「大丈夫だ……行こう、恵。
時間が……ないんだ」
健太は、かろうじて声を絞り出した。
彼の目は、虚ろでありながらも、奇妙なほどに一点を見つめていた。
それは、水子の幻影を追っているかのようでもあり、あるいは、一筋の光を求めるかのように輝いているようでもあった。
二人は、最寄りの駅からタクシーに乗り、水守村へと向かった。
廃れた神社の近くでタクシーを降りると、そこは昨日と変わらぬ、人影のない静寂に包まれていた。
強い日差しが照りつけているにもかかわらず、どこか冷たく、湿った空気が肌にまとわりつく。
神社の鳥居の向こうからは、相変わらず草木の生い茂る音が、ざわめきのように聞こえてくる。
普門寺は、神社のすぐ隣にあった。
しかし、その姿は、かつて寺院であったことをかろうじて示す、荒れ果てた廃墟と化していた。
朽ちた山門は、今にも崩れ落ちそうで、その奥には、雑草が人の背丈ほどにも伸び、鬱蒼と茂っていた。
本堂らしき建物は、屋根が崩れ落ち、壁は苔むして、まるで森の一部になったかのようだった。
「ここが……普門寺……」
恵は、言葉を失った。
想像以上に荒廃していた。
このような場所で、水野光子の墓を見つけ出すことなど、できるのだろうか。
「墓地は……
どこだ?」
健太が、掠れた声で呟いた。
彼の視界には、すでに水子の幻影がちらつき始めていた。
まるで、水子が彼らを誘い込んでいるかのように。
二人は、生い茂る雑草をかき分け、廃寺の敷地内へと足を踏み入れた。
足元には、朽ちた木の枝や石が散乱しており、一歩踏み出すたびに、乾いた音が響いた。
湿気を含んだ土の匂いと、朽ちかけた木の匂いが混じり合い、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。
しばらく進むと、ようやく、鬱蒼とした木々の合間から、複数の墓石らしき影が見えてきた。
しかし、そこは、墓地と呼ぶにはあまりにも無残な状態だった。
雑草は、墓石の根元から天に向かって伸び、墓碑銘を覆い隠している。
苔がびっしりと張り付き、文字を判読することすら困難な墓石が、無秩序に、そして不気味に並んでいた。
倒れた墓石、半分だけ土に埋もれた墓石、そして、まるで誰かの手によって破壊されたかのように、粉々に砕け散った墓石も散見された。
「ひどい……」
恵は、思わず声を漏らした。
この荒廃ぶりは、ただ時が流れただけではない、何か別の力が働いているかのような不穏な気配がした。
「水野光子……
水野光子……」
健太は、幻覚に苛まれながらも、必死に墓石の一つ一つに目を凝らした。
彼の喉は焼け付くように乾き、全身から冷や汗が吹き出ていた。
足元がおぼつかず、何度も転びそうになる。
「健太、大丈夫?
少し休もう」
恵は、健太の肩を支えようとした。
しかし、健太は首を振った。
「いや……今しかないんだ。
彼女の……怨念が……ここにある気がする……」
彼の言葉には、呪いの影響によるものなのか、それとも健太自身の精神が限界に達しているのか、異様な緊迫感が込められていた。
二人は、広大な墓地の中を、まるで迷宮に迷い込んだかのように歩き続けた。
雑草は足首を絡め取り、蚊や小さな虫がまとわりつく。湿気を含んだ空気が、彼らの呼吸を重くした。
どれほどの時間が経っただろうか。
太陽はすでに中天を過ぎ、影が伸び始めていた。
焦りと絶望が、再び恵の心を蝕み始める。このままでは、健太の命が尽きてしまう。
その時だった。
健太が、突然、よろめいた。
彼の身体が大きく傾ぎ、そのまま倒れそうになる。
「健太!」
恵は叫び、咄嗟に彼の腕を掴んだ。
しかし、健太の身体は鉛のように重く、恵の力だけでは支えきれない。
「う……
うぐ……っ……」
健太の口元から、苦しげな呻き声が漏れた。
彼の瞳は虚ろになり、焦点が合わない。
全身を激しい痙攣が襲い、その場に崩れ落ちそうになる。
「ダメ……だ……」
健太の声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
彼の腕に広がる青い水痕は、もはや全身に脈動しているかのようだった。
幻覚ではなく、現実の彼の命が、まさに尽きようとしている。
「健太!
しっかりして!
蓮のために!
蓮のためにも、諦めないで!」
恵は、必死に健太を揺さぶった。
蓮の名前が、健太の意識の奥底に届いたのか、彼の身体の痙攣が、わずかに治まった。
彼は、最後の力を振り絞るかのように、恵の腕を掴み返した。
「恵……
あそこ……」
健太が、震える指で、鬱蒼と茂る雑草の奥の一点を示した。
恵は、その指が示す方を見た。
雑草の陰に隠れるようにして、他の墓石よりも少しだけ新しい、しかしやはり苔むした墓石が、かすかに見えた。
その墓石の前に、明らかに不自然なほどに草が生えていない、わずかな空間があった。
恵は、健太の身体を支えながら、その墓石へと近づいた。
そして、苔を拭い、刻まれた文字を読み解いた。
『水野家之墓』
その文字を見た瞬間、恵の心臓が大きく跳ね上がった。
そして、そのすぐ脇に、ひっそりと置かれた小さな石碑があった。
そこには、小さな文字で、こう記されていた。
『光子』
恵の目に、涙が滲んだ。
水野光子。見つけた。
「健太……!
見つけたわ!
ここよ!
水野光子さんの墓よ!」
恵は、健太に告げた。
彼の意識は朦朧としていたが、恵の言葉は、確かに彼の耳に届いたようだった。
健太の顔に、わずかな安堵の表情が浮かんだ。
しかし、その喜びも束の間だった。
健太の身体は、再び激しく痙攣し始めた。もう、本当に限界だった。
二人は、水野光子の墓石の前に、力なく崩れ落ちた。
供養の準備もままならないまま、彼らは、ただその場に立ち尽くすしかなかった。




