第二十三話:最後の足掻き
自宅に戻った恵は、そのままベッドに倒れ込んだ。
しかし、疲労困憊の身体とは裏腹に、心は休まることなく、昨夜の悪夢のような出来事が、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
暁の苦悶の表情、水子の無感情な瞳、そして、為す術もなく倒れていった暁の姿……。
まぶたの裏にそれらが焼き付いて、眠りにつくことすら許さない。
どれほどの時間が経っただろうか。
おそらく、数時間も眠れぬまま、ただ虚ろに天井を見つめていた恵のスマホが、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
着信は、暁が運び込まれた病院からだった。
恵の胸に、嫌な予感がよぎった。
震える指で通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、事務的な、しかしどこか重苦しい声が聞こえてきた。
「佐々木恵さんでしょうか。
先日、暁様を搬送された……」
恵の心臓が、大きく跳ねた。
「はい、佐々木です。
暁さんは……
暁さんの容態は!?」
恵は、縋るような声で尋ねた。
「それが……。
先ほど、お亡くなりになりました」
その言葉は、恵の耳に、雷鳴のように響き渡った。
頭が真っ白になる。呼吸が止まり、全身の血の気が引いていく。
「え……?
そんな……嘘……」
恵の声は、か細く、震えていた。
目の前の現実を、到底受け入れることができない。
「私どもも、原因が特定できず、ただ残念でなりません。
病室で発見されたのですが……
その、死に顔が、何かに襲われたかのような驚愕の表情で固まっておりまして……」
病院側の説明は、さらに恵を絶望させた。
「そして……
体からは、まるで水底から引き上げられたかのような、古い水の匂いが漂っていた、と……」
古い水の匂い。
恵は、はっと息を呑んだ。
それは、まさに、あの手水舎で感じた、
水子の呪いが放つ生臭い匂いと同じではないか。
暁は、病院に運ばれてからも、水子の呪いに蝕まれ続けていたのだ。
そして、その表情。
何かに襲われたような驚愕の表情。
それは、まさに、水子に口と鼻を塞がれ、窒息させられた時の、あの苦悶の表情のまま、固定されてしまったということではないのか。
暁は、病院のベッドの上で、水子の呪いによって、完全に命を奪われたのだ。
受話器を握りしめたまま、恵は呆然と立ち尽くしていた。唯一の希望が、完全に断たれてしまった。
蓮を救う道が、もうどこにもない。
その時、恵の頭の中に、健太の顔が浮かんだ。
彼に、この事実を伝えなければならない。
彼は、どれほど深く絶望するだろうか。
震える手で、恵は健太の電話番号をタップした。
コール音が、ひどく遠く聞こえる。
数コールした後、健太の掠れた声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「……恵か?」
「健太……っ……
暁さんが……」
恵は、言葉を詰まらせた。
喉の奥から、嗚咽が込み上げてくる。
「暁さんが……亡くなったって……病院から連絡が……っ」
恵の言葉を聞いた途端、受話器の向こうから、健太の息を呑む音が聞こえた。
そして、長い沈黙の後、震える声が響いた。
「……嘘だろ……
そんな……」
健太の声には、深い絶望と、そして自責の念がにじみ出ていた。
自分のせいで、また一人、犠牲者を出してしまった。
蓮も助けられず、自分を救おうとしてくれた暁までもが、自分と同じ呪いにかかり、命を落とした。
その事実が、健太の心を深く深く抉った。
「俺の、せいだ……
俺が……俺が、間違った手水の儀をしたから……」
健太の声は、途中で途切れ、嗚咽に変わった。
彼の心は、完全に打ち砕かれていた。
恵もまた、涙が止まらなかった。
この状況で、二人は最早、誰にも頼れないことを悟った。
医者も、霊能者も、もう誰も、彼らを助けることはできない。
残された時間は、刻一刻と迫っている。
「健太……。
私たちで、なんとかするしかない」
恵は、震える声で言った。
その声には、微かな、しかし確かな決意が宿っていた。
「もう……誰も、頼れない。
でも……蓮のために、健太のために……
私は、諦めない」
その言葉に、健太は受話器の向こうで、嗚咽を漏らしながらも、力なく頷いた。
二人は、再び、廃れた神社のことや「水子」のことを、徹底的に調べ始めることを決意した。
恵は、自宅のパソコンを立ち上げ、インターネットで「手水舎 呪い」「神社 水子 心霊現象」といったキーワードで検索を始めた。
一般的な情報だけでなく、怪談サイトや個人のブログ、地方の郷土史を扱うサイトまで、手当たり次第に読み漁る。
健太もまた、自身の衰弱した身体に鞭を打ち、最寄りの図書館へと向かった。
郷土資料の棚に並ぶ、古びた書籍や、埃を被った冊子を、手がかりを探すように貪る。
古い新聞記事のマイクロフィルムを読み込み、過去の怪奇現象や、不可解な死の記録を調べ始めた。
情報収集は困難を極めた。
水子の呪いに関する情報は、ほとんどが民間伝承や、曖昧な怪談の類で、具体的な解決策に繋がるものは見つからない。
しかし、彼らは諦めなかった。
これが、残された唯一の道だったからだ。
恵は、健太がメモしていた手帳の記述を何度も読み返した。
そこには、一般的な作法しか記されていない。
「何か、隠された意味があるはず……」
健太は、図書館の古文書の中から、手水舎の古来の儀式に関する記述を探していた。
しかし、その体調は限界に近づいていた。
彼の喉の渇きは、もはや耐え難いものになっていた。
水分を摂取しても、すぐに身体から抜け落ちていくような感覚。
唇はひび割れ、舌はザラザラと乾ききっている。
頭痛は激しさを増し、思考力も鈍ってきていた。
そして、水子の幻覚は、より鮮明に、より頻繁に現れるようになった。
壁のシミが、水子の顔に見える。
コップの水面が、水子の漆黒の瞳に見える。
シャワーの音が、水子の啜り泣きに聞こえる。
ふと、健太が郷土資料を手に取ったその時、その紙面が、ぐにゃりと歪んだ。
健太の目の前に、青白い水子の顔が、すぐそこに迫っていた。
濡れた黒髪が、彼の顔を撫でるかのように触れる。
冷たい、生臭い水の匂いが、鼻腔を刺激する。
「ア……アアア……」
健太は、声にならない悲鳴を上げた。
周囲の図書館の利用客は、彼を奇異な目で見ていたが、水子の姿は彼らに見えない。
水子は、健太のすぐ目の前で、口元をかすかに歪めた。
それは、笑いでもなく、怒りでもなく、ただ底知れない、静かな悪意の表情だった。
「まだ、終わりじゃない……」
恵と健太の最後の足掻きは、始まったばかりだった。
残された時間は、あとわずか。




