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死に水  作者: 月影 朔
第四章:抗えぬ恐怖

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第二十三話:最後の足掻き

 自宅に戻った恵は、そのままベッドに倒れ込んだ。


 しかし、疲労困憊の身体とは裏腹に、心は休まることなく、昨夜の悪夢のような出来事が、鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。


 暁の苦悶の表情、水子の無感情な瞳、そして、為す術もなく倒れていった暁の姿……。

まぶたの裏にそれらが焼き付いて、眠りにつくことすら許さない。


 どれほどの時間が経っただろうか。

おそらく、数時間も眠れぬまま、ただ虚ろに天井を見つめていた恵のスマホが、けたたましい音を立てて鳴り響いた。


 着信は、暁が運び込まれた病院からだった。


 恵の胸に、嫌な予感がよぎった。


 震える指で通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、事務的な、しかしどこか重苦しい声が聞こえてきた。


 「佐々木恵さんでしょうか。

先日、暁様を搬送された……」


 恵の心臓が、大きく跳ねた。

 「はい、佐々木です。

暁さんは……

暁さんの容態は!?」


 恵は、縋るような声で尋ねた。


 「それが……。

先ほど、お亡くなりになりました」


 その言葉は、恵の耳に、雷鳴のように響き渡った。


 頭が真っ白になる。呼吸が止まり、全身の血の気が引いていく。


 「え……? 

そんな……嘘……」


 恵の声は、か細く、震えていた。

目の前の現実を、到底受け入れることができない。


 「私どもも、原因が特定できず、ただ残念でなりません。

病室で発見されたのですが……

その、死に顔が、何かに襲われたかのような驚愕の表情で固まっておりまして……」


 病院側の説明は、さらに恵を絶望させた。

 「そして……

体からは、まるで水底から引き上げられたかのような、古い水の匂いが漂っていた、と……」


 古い水の匂い。


 恵は、はっと息を呑んだ。

それは、まさに、あの手水舎で感じた、

水子の呪いが放つ生臭い匂いと同じではないか。


 暁は、病院に運ばれてからも、水子の呪いに蝕まれ続けていたのだ。


 そして、その表情。


 何かに襲われたような驚愕の表情。

それは、まさに、水子に口と鼻を塞がれ、窒息させられた時の、あの苦悶の表情のまま、固定されてしまったということではないのか。


 暁は、病院のベッドの上で、水子の呪いによって、完全に命を奪われたのだ。


 受話器を握りしめたまま、恵は呆然と立ち尽くしていた。唯一の希望が、完全に断たれてしまった。


 蓮を救う道が、もうどこにもない。


 その時、恵の頭の中に、健太の顔が浮かんだ。

彼に、この事実を伝えなければならない。


 彼は、どれほど深く絶望するだろうか。


 震える手で、恵は健太の電話番号をタップした。

コール音が、ひどく遠く聞こえる。


 数コールした後、健太の掠れた声が受話器の向こうから聞こえてきた。


 「……恵か?」


 「健太……っ……

暁さんが……」


 恵は、言葉を詰まらせた。

喉の奥から、嗚咽が込み上げてくる。


 「暁さんが……亡くなったって……病院から連絡が……っ」


 恵の言葉を聞いた途端、受話器の向こうから、健太の息を呑む音が聞こえた。

そして、長い沈黙の後、震える声が響いた。


 「……嘘だろ……

そんな……」


 健太の声には、深い絶望と、そして自責の念がにじみ出ていた。


 自分のせいで、また一人、犠牲者を出してしまった。

蓮も助けられず、自分を救おうとしてくれた暁までもが、自分と同じ呪いにかかり、命を落とした。


 その事実が、健太の心を深く深く抉った。


 「俺の、せいだ……

俺が……俺が、間違った手水の儀をしたから……」


 健太の声は、途中で途切れ、嗚咽に変わった。

彼の心は、完全に打ち砕かれていた。


 恵もまた、涙が止まらなかった。

この状況で、二人は最早、誰にも頼れないことを悟った。


 医者も、霊能者も、もう誰も、彼らを助けることはできない。

残された時間は、刻一刻と迫っている。


 「健太……。

私たちで、なんとかするしかない」


 恵は、震える声で言った。

その声には、微かな、しかし確かな決意が宿っていた。


 「もう……誰も、頼れない。

でも……蓮のために、健太のために……

私は、諦めない」


 その言葉に、健太は受話器の向こうで、嗚咽を漏らしながらも、力なく頷いた。


 二人は、再び、廃れた神社のことや「水子」のことを、徹底的に調べ始めることを決意した。


 恵は、自宅のパソコンを立ち上げ、インターネットで「手水舎 呪い」「神社 水子 心霊現象」といったキーワードで検索を始めた。


 一般的な情報だけでなく、怪談サイトや個人のブログ、地方の郷土史を扱うサイトまで、手当たり次第に読み漁る。


 健太もまた、自身の衰弱した身体に鞭を打ち、最寄りの図書館へと向かった。


 郷土資料の棚に並ぶ、古びた書籍や、埃を被った冊子を、手がかりを探すように貪る。

古い新聞記事のマイクロフィルムを読み込み、過去の怪奇現象や、不可解な死の記録を調べ始めた。


 情報収集は困難を極めた。

水子の呪いに関する情報は、ほとんどが民間伝承や、曖昧な怪談の類で、具体的な解決策に繋がるものは見つからない。


 しかし、彼らは諦めなかった。

これが、残された唯一の道だったからだ。


 恵は、健太がメモしていた手帳の記述を何度も読み返した。

そこには、一般的な作法しか記されていない。


 「何か、隠された意味があるはず……」


 健太は、図書館の古文書の中から、手水舎の古来の儀式に関する記述を探していた。


 しかし、その体調は限界に近づいていた。


 彼の喉の渇きは、もはや耐え難いものになっていた。

水分を摂取しても、すぐに身体から抜け落ちていくような感覚。

唇はひび割れ、舌はザラザラと乾ききっている。


 頭痛は激しさを増し、思考力も鈍ってきていた。


 そして、水子の幻覚は、より鮮明に、より頻繁に現れるようになった。


 壁のシミが、水子の顔に見える。

コップの水面が、水子の漆黒の瞳に見える。

シャワーの音が、水子の啜り泣きに聞こえる。


 ふと、健太が郷土資料を手に取ったその時、その紙面が、ぐにゃりと歪んだ。


 健太の目の前に、青白い水子の顔が、すぐそこに迫っていた。

濡れた黒髪が、彼の顔を撫でるかのように触れる。

冷たい、生臭い水の匂いが、鼻腔を刺激する。


 「ア……アアア……」


 健太は、声にならない悲鳴を上げた。

周囲の図書館の利用客は、彼を奇異な目で見ていたが、水子の姿は彼らに見えない。


 水子は、健太のすぐ目の前で、口元をかすかに歪めた。

それは、笑いでもなく、怒りでもなく、ただ底知れない、静かな悪意の表情だった。


 「まだ、終わりじゃない……」


 恵と健太の最後の足掻きは、始まったばかりだった。


 残された時間は、あとわずか。

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