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死に水  作者: 月影 朔
第四章:抗えぬ恐怖

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第二十一話:病院へ

 漆黒の帳が静かに消え去った後も、神社の境内は深い闇に包まれ、冷たい湿気が肌にまとわりついていた。


 先ほどまで繰り広げられていた壮絶な霊的攻防の余韻が、重く、そして濃密に残滓として漂っている。


 恵は、未だ身体の震えが止まらないまま、倒れ伏した暁と、意識を失った健太の間に立ち尽くしていた。


 唯一の希望だった除霊師の暁が、水子の呪いによって意識不明に陥った。

その事実は、恵の心を絶望の淵へと突き落とした。


 手探りで暁の首筋に触れた時のか細い脈拍が、かろうじて彼女の命が繋がっていることを示していたが、その冷たくなった肌の感触は、恵の心に重くのしかかった。


 「暁さん……! 

健太……!」


 恵は、震える声で二人を呼んだ。


 しかし、返事はない。

健太は、青白い顔でぐったりと手水舎の石垣にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返している。


 彼の腕の青い水痕は、闇の中でも妖しく光り、まるで彼自身の命を吸い上げているかのように見えた。


 恵は、全身に走る恐怖と絶望を振り払うように、自らを奮い立たせた。このままでは、二人とも死んでしまう。


 まずは、暁さんを病院に運ばなければ。


 しかし、どうやって? 


 この人気の無い廃れた神社から、意識を失った成人女性を一人で運ぶことなど、恵の華奢な体では不可能だ。

ましてや、健太も自力で動ける状態ではない。


 恵の視線が、健太へと向けられた。

健太は、虚ろな目で、まるで何かに怯えるかのように震えている。


 彼の口元からは、乾いた音を立てて、微かに泡が漏れていた。


 「健太……

健太、聞いて! 

暁さんを病院に運ばないと!」


 恵は、健太の肩を揺さぶった。

健太の瞳に、わずかに意識の光が戻った。


 「……びょ、ういん……?」


 か細い声が、彼の喉から絞り出された。

彼の声は、まるで何日も水を飲んでいないかのように、ガラガラに枯れていた。


 「そうよ! 

お願い、健太。

暁さんを助けるために、力を貸して!」


 恵は、必死に訴えた。

蓮のため、そして健太自身のためにも、暁を救う必要があった。


 彼女こそが、唯一、この呪いを解く可能性を秘めた人間なのだから。


 健太は、よろめきながらも、ゆっくりと立ち上がろうとした。

彼の身体は、鉛のように重く、霊的な消耗と肉体的な疲労によって、もはや立つことすら困難な状態だった。


 だが、彼の瞳の奥には、かすかな、しかし確かな決意の光が宿っていた。

蓮のため。そして、自分を救おうとしてくれた暁さんのために。


 二人は、力を合わせた。

恵が暁の肩を支え、健太がその身体を抱えるようにして、よろよろと手水舎を後にした。


 足元は闇に閉ざされ、枯れ葉が積もった参道は、幾度となく彼らの歩みを妨げた。

時折、健太の足がもつれ、暁の身体を落としそうになるたび、恵は必死に声をかけて彼を励ました。


 「もう少しよ、健太! 

頑張って! 

私たちは、諦めない!」


 恵の声は、震えていたが、その中に込められた決意は、闇を切り裂く光のようだった。


 廃れた鳥居をくぐり、ようやく神社の敷地を出ると、そこは、わずかに街灯の光が届く、静かな住宅街だった。


 恵は、スマホを取り出し、震える指でタクシーを呼んだ。

この状況で、救急車を呼ぶべきかとも考えたが、霊的な呪いによって意識を失った暁の症状を、どう説明すれば良いのか分からない。


 何よりも、健太の存在が、警察沙汰になることを避けるべきだと判断した。


 やがて、一台のタクシーが、静かに彼らの前に滑り込んできた。


 運転手は、深夜に、びしょ濡れで、しかも意識不明の人間を抱えている彼らの姿に、一瞬驚きを隠せない様子だったが、恵が必死に「急患です! お願いします!」と告げると、何も言わずに後部座席のドアを開けてくれた。


 健太は、なんとか暁を後部座席に横たえ、恵もその隣に乗り込んだ。

車内は、湿気と、わずかに生臭い水の匂いが充満した。


 病院に到着すると、恵はタクシーの料金を払い、健太と共に暁を抱えて救急受付へと向かった。


 「急患です! 

意識がありません!」


 恵が叫ぶと、すぐに数人の看護師が駆けつけ、ストレッチャーに乗せられた暁は、救急処置室へと運び込まれていった。


 白いシーツに包まれた暁の姿が、目の前から消えていく。

その光景を見送りながら、恵は、除霊師の身に何が起きたのか、そして、健太の呪いはどうなってしまうのかという、途方もない不安に押し潰されそうになった。


 暁が意識を失った今、一体誰が健太を救えるというのだろう?


 健太は、恵の隣で、呼吸を荒げながら、力なく壁に寄りかかっていた。

彼の顔は、土気色に変わり、唇はひび割れていた。

腕の青い水痕は、闇の中でもはっきりと見て取れるほど、おぞましい輝きを放っている。


 「恵……

俺は……」


 健太が、震える声で呟いた。

彼の声は、乾ききっていて、ほとんど聞き取れないほどだった。


 「俺は……

なんて、無力なんだ……」


 健太の目から、大粒の涙が流れ落ちた。

それは、喉の渇きによる生理的な涙ではなく、自分自身の無力さを悟った、深い絶望の涙だった。


 彼は、蓮の命を救うこともできず、自身の身に降りかかった呪いを跳ね返すこともできず、そして、自分を救おうとしてくれた暁までもが、その身を犠牲にして倒れてしまった。


 その全てが、健太の心を深く抉っていた。


 恵は、健太の言葉に、何も返すことができなかった。

彼女もまた、為す術のない無力さに打ちひしがれていた。


 救急処置室のドアが、重く閉ざされる。その向こうで、暁が、そして健太の運命が、未知のまま宙に浮いていた。


 病院の白い廊下は、どこまでも長く、冷たく、そして絶望的な沈黙に満ちていた。

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