第二十一話:病院へ
漆黒の帳が静かに消え去った後も、神社の境内は深い闇に包まれ、冷たい湿気が肌にまとわりついていた。
先ほどまで繰り広げられていた壮絶な霊的攻防の余韻が、重く、そして濃密に残滓として漂っている。
恵は、未だ身体の震えが止まらないまま、倒れ伏した暁と、意識を失った健太の間に立ち尽くしていた。
唯一の希望だった除霊師の暁が、水子の呪いによって意識不明に陥った。
その事実は、恵の心を絶望の淵へと突き落とした。
手探りで暁の首筋に触れた時のか細い脈拍が、かろうじて彼女の命が繋がっていることを示していたが、その冷たくなった肌の感触は、恵の心に重くのしかかった。
「暁さん……!
健太……!」
恵は、震える声で二人を呼んだ。
しかし、返事はない。
健太は、青白い顔でぐったりと手水舎の石垣にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返している。
彼の腕の青い水痕は、闇の中でも妖しく光り、まるで彼自身の命を吸い上げているかのように見えた。
恵は、全身に走る恐怖と絶望を振り払うように、自らを奮い立たせた。このままでは、二人とも死んでしまう。
まずは、暁さんを病院に運ばなければ。
しかし、どうやって?
この人気の無い廃れた神社から、意識を失った成人女性を一人で運ぶことなど、恵の華奢な体では不可能だ。
ましてや、健太も自力で動ける状態ではない。
恵の視線が、健太へと向けられた。
健太は、虚ろな目で、まるで何かに怯えるかのように震えている。
彼の口元からは、乾いた音を立てて、微かに泡が漏れていた。
「健太……
健太、聞いて!
暁さんを病院に運ばないと!」
恵は、健太の肩を揺さぶった。
健太の瞳に、わずかに意識の光が戻った。
「……びょ、ういん……?」
か細い声が、彼の喉から絞り出された。
彼の声は、まるで何日も水を飲んでいないかのように、ガラガラに枯れていた。
「そうよ!
お願い、健太。
暁さんを助けるために、力を貸して!」
恵は、必死に訴えた。
蓮のため、そして健太自身のためにも、暁を救う必要があった。
彼女こそが、唯一、この呪いを解く可能性を秘めた人間なのだから。
健太は、よろめきながらも、ゆっくりと立ち上がろうとした。
彼の身体は、鉛のように重く、霊的な消耗と肉体的な疲労によって、もはや立つことすら困難な状態だった。
だが、彼の瞳の奥には、かすかな、しかし確かな決意の光が宿っていた。
蓮のため。そして、自分を救おうとしてくれた暁さんのために。
二人は、力を合わせた。
恵が暁の肩を支え、健太がその身体を抱えるようにして、よろよろと手水舎を後にした。
足元は闇に閉ざされ、枯れ葉が積もった参道は、幾度となく彼らの歩みを妨げた。
時折、健太の足がもつれ、暁の身体を落としそうになるたび、恵は必死に声をかけて彼を励ました。
「もう少しよ、健太!
頑張って!
私たちは、諦めない!」
恵の声は、震えていたが、その中に込められた決意は、闇を切り裂く光のようだった。
廃れた鳥居をくぐり、ようやく神社の敷地を出ると、そこは、わずかに街灯の光が届く、静かな住宅街だった。
恵は、スマホを取り出し、震える指でタクシーを呼んだ。
この状況で、救急車を呼ぶべきかとも考えたが、霊的な呪いによって意識を失った暁の症状を、どう説明すれば良いのか分からない。
何よりも、健太の存在が、警察沙汰になることを避けるべきだと判断した。
やがて、一台のタクシーが、静かに彼らの前に滑り込んできた。
運転手は、深夜に、びしょ濡れで、しかも意識不明の人間を抱えている彼らの姿に、一瞬驚きを隠せない様子だったが、恵が必死に「急患です! お願いします!」と告げると、何も言わずに後部座席のドアを開けてくれた。
健太は、なんとか暁を後部座席に横たえ、恵もその隣に乗り込んだ。
車内は、湿気と、わずかに生臭い水の匂いが充満した。
病院に到着すると、恵はタクシーの料金を払い、健太と共に暁を抱えて救急受付へと向かった。
「急患です!
意識がありません!」
恵が叫ぶと、すぐに数人の看護師が駆けつけ、ストレッチャーに乗せられた暁は、救急処置室へと運び込まれていった。
白いシーツに包まれた暁の姿が、目の前から消えていく。
その光景を見送りながら、恵は、除霊師の身に何が起きたのか、そして、健太の呪いはどうなってしまうのかという、途方もない不安に押し潰されそうになった。
暁が意識を失った今、一体誰が健太を救えるというのだろう?
健太は、恵の隣で、呼吸を荒げながら、力なく壁に寄りかかっていた。
彼の顔は、土気色に変わり、唇はひび割れていた。
腕の青い水痕は、闇の中でもはっきりと見て取れるほど、おぞましい輝きを放っている。
「恵……
俺は……」
健太が、震える声で呟いた。
彼の声は、乾ききっていて、ほとんど聞き取れないほどだった。
「俺は……
なんて、無力なんだ……」
健太の目から、大粒の涙が流れ落ちた。
それは、喉の渇きによる生理的な涙ではなく、自分自身の無力さを悟った、深い絶望の涙だった。
彼は、蓮の命を救うこともできず、自身の身に降りかかった呪いを跳ね返すこともできず、そして、自分を救おうとしてくれた暁までもが、その身を犠牲にして倒れてしまった。
その全てが、健太の心を深く抉っていた。
恵は、健太の言葉に、何も返すことができなかった。
彼女もまた、為す術のない無力さに打ちひしがれていた。
救急処置室のドアが、重く閉ざされる。その向こうで、暁が、そして健太の運命が、未知のまま宙に浮いていた。
病院の白い廊下は、どこまでも長く、冷たく、そして絶望的な沈黙に満ちていた。




