第二十話:除霊師の死闘
漆黒の帳の内側で繰り広げられる、暁と水子の激しい霊力の攻防は、まさに死闘だった。
水子の無感情な表情からは想像もつかないほどの圧倒的な怨念が空間を支配し、暁の放つ祝詞や護符を次々と無効化していく。
膠着状態に陥ったかに見えた戦いは、しかし、確実に暁の消耗を深めていた。
彼女の霊気は薄くなり、白い和服は汗で肌に張り付き、その呼吸は荒く、苦しげだった。
恵は、その凄まじい霊的な圧力に押し潰されそうになりながらも、必死に健太と暁の様子を目に焼き付けていた。
健太は、水子の怨念に蝕まれ、もはや意識を保っているのが奇跡としか思えないほどに衰弱していた。
その腕の青い水痕は、もはや全身に広がるかのように、不気味な脈動を続けている。
「水の因果、ここに縛られし者よ……!
その穢れ、全てを祓わん……!」
暁は、さらに一歩前に踏み出した。
その声には、もはや肉体的な限界を超えた、魂の叫びが込められているかのようだった。
彼女は、最後の力を振り絞るかのように、両手を頭上高く掲げた。
「冥府の門、開かれん……
その魂、安寧の地へ還れ!」
暁の全身から、これまでで最も強く、そして純粋な光が放たれた。
それは、帳の闇を完全に打ち消し、一瞬だけ、その場に白昼のような輝きをもたらした。
その光は、浄化の力に満ちており、水子の纏う淀んだ水気を、一瞬にして蒸発させたかのように見えた。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
水子の悲鳴は、これまでで最も長く、そして凄まじいものだった。
その叫びは、もはや耳で聞く音ではなく、魂の奥底に直接響くような、純粋な苦痛と憎悪の咆哮だった。
恵は、その悲鳴に頭を抱え、身体を丸めてその場に蹲った。
脳が焼かれるような激しい痛みと、全身を駆け巡る悪寒に襲われる。
だが、水子は、その悲鳴の最中、奇妙な動きを見せた。
無感情だったその漆黒の瞳に、一瞬だけ、微かな光が宿ったかのように見えた。
それは、憎悪でも、苦痛でもなく、まるで、わずかな「感情」のような、しかしすぐに消え失せる、はかない光だった。
そして、その瞬間。
水子の濡れた黒髪が、まるで意思を持ったかのように、うねりながら伸び始めた。
闇の中で蠢く無数の蛇のように、その髪はみるみるうちに伸び、暁の身体へと絡みついていく。
あっという間に、暁の腕、胴、そして首へと、びしょ濡れの髪が締め付けられていった。
「ぐ……ぅ……っ……!」
暁の顔が、苦悶に歪んだ。
彼女は、絡みつく髪を振り払おうと藻掻いたが、その髪はまるで生きた鎖のように、彼女の身体を締め上げていく。
霊力は尽きかけ、もはや反撃の術もない。
さらに、伸びた髪の一部が、暁の顔へと到達した。
べちゃり、と、生々しい音を立てて、水子の髪が暁の口と鼻を塞いだ。
「っ……は……はぁ……!」
暁は、空気を求めて必死に喘いだ。
その瞳は大きく見開かれ、苦しげに焦点が定まらない。
呼吸を奪われた暁の身体は、激しく痙攣し始めた。
白い和服は、水子の髪から滴る水でびしょ濡れになり、その肌には、青白い血色が失われていくのが見て取れた。
恵は、その光景を呆然と見つめるしかなかった。
恐怖と絶望が、彼女の思考を完全に停止させる。
除霊師が……。
あの、唯一の希望だった暁が、今、目の前で、水子によって殺されようとしている。
暁の身体から、急速に力が抜けていく。
痙攣は次第に弱まり、焦点の合わなかった瞳が、虚ろに宙を見上げた。
そして、次の瞬間。
ずしん、と。
暁の身体は、力なく地面に崩れ落ちた。
白い和服が、帳の闇の中に広がり、彼女の瞳は、虚ろなまま一点を見つめていた。
意識を失ったのだ。
水子は、暁が倒れたのを見届けると、絡みついていた髪を、まるで何事もなかったかのように、するりと引き戻した。
その小さな身体からは、もはや怨念の波動は感じられない。
水子は、健太の死の期限がまだ来ていないことを知っているかのように、あるいは、もはや暁という障害が排除されたことに満足したかのように、手水舎の水の中に、音もなく、ゆっくりと沈んでいった。
ちゃぷ……と、僅かな水音が響き、水面は再び静けさを取り戻した。
帳の内側は、先ほどの激しい攻防が嘘のように、静まり返っていた。
しかし、その空気は、これまで以上に重く、湿気を帯び、底知れない悪意が満ちているかのようだった。
恵は、恐怖と絶望に打ちのめされながらも、なんとか身体を震わせ、暁へと這い寄った。
「暁さん……!
暁さん……!」
震える手で、恵は暁の頬に触れた。
肌は、まるで氷のように冷たかった。
呼吸は、ほとんど感じられない。
恵の指が、暁の首筋を探る。
脈は、かろうじて、か細く打っているのが分かった。
しかし、その弱々しさに、恵の心臓は締め付けられた。
暁は、命を賭けた。
そして、その命を、本当に賭けてしまったのだ。
恵は、絶望の淵に立たされていた。
唯一の希望だった除霊師は倒れ、健太の命は風前の灯火。
そして、水子は、いつでも健太の命を奪うことができる。
この閉ざされた帳の中で、残されたのは、意識を失った健太と、死に瀕した暁、そして、為す術のない恵だけだった。
夜の闇は、深まっていく。




