第二話:奇妙なニュース
けたたましいエスプレッソマシンの蒸気音が、一瞬の静寂を破った。
カウンターの向こう側で、同僚の明るい声が客の注文を繰り返す。芳ばしいコーヒー豆の香りと、焼きたてのペイストリーの甘い匂いが混じり合い、店内には穏やかで心地よい空気が流れていた。
ここは、佐々木恵の職場である、街角の小さなカフェ。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、テーブルの上で揺れる客たちの影を長く伸ばしている。笑い声、食器の触れ合う音、ページをめくる乾いた響き。そのすべてが、ありふれた日常という名のタペストリーを織りなしていた。
「佐々木さん、休憩どうぞー」
店長の声に背中を押されるように、恵は「お先に失礼します」と小さく会釈し、バックヤードへと続く扉を開けた。
一歩足を踏み入れると、店の喧騒が嘘のように遠ざかる。狭い空間には、段ボールや業務用の備品が所狭しと並べられ、ひんやりとした空気が淀んでいた。恵は壁際に置かれた簡素なパイプ椅子に、深く腰を下ろした。どっと、身体の芯から疲労が滲み出してくるような感覚。強張っていた肩の力を抜き、長い溜息を一つ吐いた。
いつもと同じ、退屈で、平和な一日。
そのはずだった。
手にしたスマートフォンの冷たい感触が、現実へと意識を引き戻す。エプロンのポケットから取り出したそれを無意識に操作し、ニュースアプリのアイコンをタップした。特に目的があるわけではない。ただ、この短い休憩時間という真空を、何かで埋めたかった。
芸能人のゴシップ、スポーツの結果、目まぐるしく変わる経済指標。指先で画面をスクロールするたびに、大量の情報が目の前を滑り落ちていく。
どれもが自分とは無関係の世界の出来事。まるで、分厚いガラスの向こう側で繰り広げられる、音のない劇を見ているかのようだった。
その、無数の文字列の奔流の中で、ふと、ある見出しが恵の指を止めた。
『相次ぐ不可解な変死、専門家も首捻る。遺体は極度の乾燥状態』
よくあるセンセーショナルな見出しだ。
そう思い、一度は通り過ぎようとした。
だが、その下に続く副題の一文が、まるで磁石のように彼女の視線を引きつけて離さなかった。
――発見時、口元からは一様に、不気味な“水の泡”。
水の、泡……?
心の中でその言葉を反芻した瞬間、胸の奥で何かが小さく、しかし鋭く引っかかった。まるで、忘れていた古い傷が疼くような、不快な感覚。
恵は、吸い寄せられるようにその記事をタップした。
画面に表示された本文は、見出し以上に異様だった。
ここ数週間、首都圏近郊で、身元不明の遺体が発見されるケースが急増しているという。被害者の年齢、性別、職業はバラバラ。発見場所も、公園のベンチ、ネットカフェの個室、アパートの一室と、何の共通点も見出せない。
ただ一つ、その死に様を除いては。
どの遺体も、まるでミイラのように全身の水分が奪われ、極度に干からびた状態で発見されるのだという。しかし、最も奇怪なのは、その乾ききったはずの遺体の口元から、まるで今しも水を飲んだかのように、生々しい水の泡が僅かに溢れ出ている点だった。
警察は、いずれの遺体にも外傷や争った形跡がなく、現場が荒らされた様子もないことから、現時点では事件性はないと判断しているらしい。一部の専門家は、未知のウイルスによる症状や、集団ヒステリーの一種ではないかとの見解を示しているが、いずれも憶測の域を出ないと記事は結ばれていた。
「……気持ち悪い」
思わず、声が漏れた。
干からびた身体と、そこから溢れる水の泡。
その矛盾したイメージが、脳裏にこびりついて離れない。それは、死という概念そのものを嘲笑うかのような、冒涜的な光景に思えた。
恵は、記事に添付されていた一枚の画像に目をやった。画質は粗く、意図的にぼかされている。おそらく、発見現場の遠景なのだろう。ブルーシートで覆われた何かが横たわり、その周りを数人の捜査員らしき人影が取り囲んでいる。それだけの、何の変哲もない写真だ。
だが、恵にはそのブルーシートの下にあるものが、はっきりと想像できてしまった。
干からび、ひび割れた皮膚。深く落ち窪んだ眼窩。そして、固く閉じられた唇の隙間から、静かに、しかし執拗に湧き出してくる、透明な泡……。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
バックヤードの冷気が、急に濃度を増したかのように肌を刺した。
なぜ、こんな記事が気になるのだろう。
自分には何の関係もないはずだ。世の中には、もっと悲惨で、もっと理不尽なニュースが溢れている。それらを、いつもは「大変だな」と一瞥するだけで、すぐに忘れてしまうのに。
この記事だけが、まるで指に刺さった小さな棘のように、心の柔らかい部分をチクリと刺激し続ける。
「佐々木さーん、そろそろお願いしまーす」
再び、扉の向こうから店長の声が飛んでくる。
「……はい、今行きます」
恵は慌ててスマートフォンをポケットにしまい、立ち上がった。軋むパイプ椅子が、静かな室内に乾いた音を響かせる。
扉を開け、再び店の喧騒の中へと戻っていく。
「3番テーブル、お冷やお願い」
「はい、ただいま」
笑顔の仮面を貼り付け、客席へと向かう。流れるような動作でグラスに水を注ぎ、テーブルに置く。
ガラスの中で揺れる、透明な液体。
光を反射してきらめく、そのありふれた水の姿が、今はなぜか、得体の知れないもののように見えた。
客の口元へと運ばれていくグラスを、恵は無意識に目で追っていた。彼らが水を飲むたびに、喉がごくりと鳴る音が、やけに大きく耳に響く。
自分の喉が、カラカラに乾いていることに気づいた。
カウンターに戻り、自分のために一杯の水を注ぐ。冷たいそれが喉を滑り落ちていく感覚は、心地よいはずなのに、どこか違和感が拭えない。身体に染み渡っていくこの液体が、本当に安全なものなのか。そんな、馬鹿げた考えが頭をよぎる。
ふと、先ほどのニュース記事の一文が、脳内で再生された。
『遺体からは、古い水の匂いがするとも言われる』
古い水の匂い。
それは、どんな匂いなのだろうか。
放置された花瓶の水?
淀んだ池の底?
それとも、もっと別の……
人が決して嗅ぐべきではない、禁じられた領域の匂い……?
思考が、じわじわと不吉な方向へと侵食されていく。
窓の外では、人々が何事もなく行き交っている。誰も、自分の足元で静かに広がり始めているかもしれない、不可解な死の連鎖に気づいていない。警察が「事件性はない」と断じた、ありふれた日常の風景。
だが、恵の心には、一度芽生えた漠然とした不安が、まるで水面に落ちたインクのように、ゆっくりと、しかし確実に広がっていくのを止められなかった。
それは、まだ名前のない恐怖。
輪郭も、正体も、何もわからない。
けれど、確かに感じる。
この平穏な日常のすぐ裏側で、何かが静かに蠢き、こちらを窺っている。
乾きと潤いという、生命の根源を司る理が、不気味に捻じ曲げられ、冒涜されている。
その歪みの中心にある「水の泡」という奇怪なイメージが、恵の意識の底に、深く、深く、沈殿していくのだった。