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死に水  作者: 月影 朔
第四章:抗えぬ恐怖

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第十九話:激しい攻防

 水子の顕現。

それは、恵にとって想像を絶する恐怖だった。


 これまで、健太の口から聞かされていたおぞましい幻覚が、今、目の前で現実となり、その存在全てが放つ冷たい悪意が、恵の全身を凍てつかせる。


 漆黒の帳の内側は、もはやこの世のものではない、深淵の闇そのものと化していた。


 水子は、手水舎の縁に座り込んだまま、一切の感情を宿さない漆黒の瞳で、健太を、そして恵を虚ろに見つめていた。


 その表情は無感情であるにもかかわらず、計り知れない憎悪と怨嗟を湛えており、見る者の魂を根底から震え上がらせる。


 冷気は肌を刺し、呼吸するたびに肺の奥まで水が満ちていくような錯覚に陥る。


 「今こそ、因果の真理を識る時……

穢れし魂よ、その身を清めよ、今、現世の縁を断て……!」


 暁の声が、深淵の闇を切り裂いた。


 彼女は、水子の顕現に動じることなく、むしろその霊力をさらに高めた。

その白い和服の裾が、霊気の奔流によって激しく揺れ動く。


 暁の額には、大粒の汗が流れ落ち、その唇は震えていたが、瞳の奥には、確固たる決意の光が宿っていた。


 彼女は、自らの命を賭けると言った。その言葉が、今、目の前で現実になろうとしている。


 暁は、右手を素早く動かし、新たな護符を空間に放った。

その護符は、暁の霊気を纏い、まるで鋭い刃のように水子へと向かっていく。


 それは、水子の纏う怨念の層を切り裂こうとするかのように、白い光の軌跡を描いた。


 護符が水子の身体に触れる寸前、水子の口から、甲高く、耳をつんざくような悲鳴が発せられた。


 それは、絶叫というよりも、深く、深い水底から響き渡るような、底知れない苦痛と怨嗟の混じり合った、おぞましい音色だった。


 「キィイイイイィィィィィィィィィィィ!!!」


 悲鳴と共に、帳の中の空気が激しく振動し、目に見えない衝撃波が恵と健太を襲った。


 恵は、思わず腕で顔を覆ったが、その衝撃は身体の芯まで響き、内臓が揺さぶられるような感覚に襲われた。


 健太は、その衝撃に耐えきれず、激しく咳き込み、身体をよじらせる。

彼の腕の青い水痕は、まるで血管が破裂寸前かのように、おぞましく脈打っていた。


 水子は、護符の攻撃をその身体で受け止めた。

しかし、水子は、まるで痛みを感じていないかのように、無感情な表情のまま、ぴくりとも動かない。


 護符は、水子の青白い肌の上で、白い光を放ちながら、瞬時に燃え尽きて灰となった。


 「……手強い」

 暁が、小さく呟いた。


 その声には、わずかな驚きと、しかしそれ以上に、深い集中が感じられた。


 彼女の霊力の攻防が、水子に届いていないのか。

否、届いてはいる。

だが、水子の怨念が、それら全てを無効化するかのように、異常なまでの抵抗力を見せているのだ。


 「淀める水よ、流れを止めん……

怨嗟の鎖、断ち切りて、その魂、永久に鎮めん……!」


 暁は、さらに強力な祝詞を唱え始めた。

その声は、もはや肉体から発せられているというよりも、彼女の魂の奥底から直接響き渡るかのような、超常的な響きを帯びていた。


 彼女の全身から、白い霊気がさらに強く噴き出し、帳の内側全体が、その光に満たされていく。


 空間が、歪んだ。


 恵の視界が、ぐにゃりと歪む。

手水舎の石垣が波打ち、闇に包まれた木々が、まるで呼吸しているかのように伸び縮みする。


 それは、暁の霊力と、水子の怨念が激しく衝突し、この閉ざされた空間そのものを変質させているからだった。


 恵の肌には、凄まじい圧力がのしかかっていた。

まるで、深海の底に沈められたかのように、全身が押し潰されそうな感覚。


 呼吸するたびに、肺が押し潰され、息苦しさに襲われる。

心臓は狂ったように脈打ち、恐怖で全身の毛穴が開いているかのようだった。


 水子は、暁の祝詞と、霊力の圧力に対抗するように、その小さな身体から、漆黒の淀んだ水気を放出し始めた。


 その水気は、帳の闇の中で、まるで生きた蛇のように蠢き、暁へと向かっていく。

それは、純粋な悪意の塊であり、触れたものを腐敗させるかのような、おぞましい気配を放っていた。


 暁は、その水気を避けることなく、両手を胸の前で交差させた。


 「現世に留まる者、その居場所を失え! 

清き光、闇を穿て……!」


 彼女の身体から、防御の結界が展開された。

光り輝く透明な膜が、暁を包み込み、水子の放つ淀んだ水気を弾き返す。


 水気が結界に触れるたび、ジュッという嫌な音が響き、白煙が上がった。


 「ぐぅっ……!」

 暁の顔が、苦痛に歪んだ。


 防御の結界を維持するだけでも、膨大な霊力を消耗しているのだ。

その額からは、滝のように汗が流れ落ち、白い和服は汗で肌に張り付いていた。


 「アアアアアアァァァァァァァァ!!」


 水子は、暁の防御を突破できないことに苛立ち、再び甲高い悲鳴を上げた。


 その悲鳴は、健太の精神をさらに追い詰める。

健太は、今や意識の混濁と、途切れない幻覚、そして身体の内側から蝕まれる苦痛によって、もはや立つことすらままならない状態だった。


 手水舎の石垣に寄りかかり、ずるずると崩れ落ちていく。

彼の腕の青い水痕は、もはや腕全体を覆いつくさんばかりに広がっていた。


 恵は、その光景をただ見守ることしかできなかった。


 自分にできることは何もない。

この凄まじい霊的な攻防に、凡庸な自分が介入するなど、自殺行為でしかないことは明白だった。


 心の中で、恵は必死に助けを求めた。


 健太を助けて。

蓮のためにも、健太を……!


 そして、暁。

彼女もまた、この戦いで命を落とすかもしれないのだ。


 暁は、再び、新たな術を繰り出した。


 「血の因果、水に流せ……

怨嗟の渦、鎮まれ……!」


 彼女は、右手の指先を水子に向け、呪言を放った。

その指先から、青白い光の球が生まれ、水子へと一直線に飛んでいく。


 それは、水子を浄化し、その因果を断ち切るための、強力な霊的な弾丸だった。


 水子は、その光の球を避けることなく、虚ろな瞳で受け止めた。

光の球が水子の身体に触れると、水子は一瞬、全身を光らせた。


 だが、次の瞬間、その光は、水子の身体に吸い込まれるように消え失せた。


 水子は、無感情な表情のまま、ぴくりとも動かない。


 暁の瞳に、深い憂いの色がよぎった。


 「なんと……」


 水子は、暁の放つ霊的な攻撃を、まるで最初から存在しなかったかのように、あるいは自身の内部に取り込んでしまうかのように、全てを無効化している。


その能力は、暁の想像を遥かに超えていた。


 この水子は、通常の怨霊とは、一線を画す存在なのだ。


 暁の表情に、微かな焦りの色が見え始めた。

彼女の霊力の消耗は激しく、このままでは、彼女自身の身体が持たない。


 そして、健太の命の灯火も、今にも消えそうだ。


 手水舎の空間は、水子の放つ冷気と、暁の放つ霊気で、完全に飽和状態だった。


 恵は、ただ、恐怖に震えながら、この終わりの見えない激しい攻防を見守ることしかできなかった。


 除霊は、膠着状態に陥っていた。

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