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死に水  作者: 月影 朔
第三章:藁にもすがる思い

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第十八話:水子の顕現

 漆黒の帳の中で、暁の祝詞と、水子の忌まわしい咆哮、そして健太の苦痛の呻きが混じり合い、悍ましい協奏曲を奏でていた。


 手水舎の水は、まるで生き物のように暴れ狂い、水飛沫が嵐のように飛び散る。

その飛沫の一つ一つが、恵の肌に触れるたび、氷のような冷たさと、微かな電気のような痺れを伝えた。


 恵の視界は、帳の濃密な闇と、水滴を弾き飛ばすような霊的な圧力によって不明瞭になっていた。


 しかし、健太の身体が激しく痙攣し、青い水痕が脈打つ様子は、はっきりと見て取れる。

健太は、今にも意識を失いそうになりながら、それでも必死に耐えていた。


 蓮の、小さな顔が、彼の脳裏をよぎっているに違いない。


 暁は、一歩も引かず、水子の猛攻を受け止めていた。


 彼女の白い和服は、激しい霊気の奔流の中で、波打つように揺れ動いている。

額には大粒の汗が滲み、その表情は極度の集中と、壮絶な精神力を物語っていた。


 彼女の口から紡がれる祝詞は、先ほどよりもさらに強く、そして速く、まるで機関銃のように連射される。


 「水の底、濁りし魂よ、その身を清めよ、今、現世の縁を断て……」


 暁の祝詞が響くたびに、帳の中の空気が圧縮され、水子の霊気がわずかに怯むのが恵にも感じられた。


 「忌まわしき因縁、我らが術によりて、その鎖を砕かん……」


 暁が指を組むと、彼女の周囲に淡い光が瞬いた。

その光は、水子に向けられ、まるで霊的な光線のように空間を切り裂いた。


 「ギャアアアアアアアアアアアアアア!」


 水子の悲鳴は、もはや耳鳴りのように響き渡り、恵の鼓膜を激しく揺さぶった。

その悲鳴は、子供のような甲高さと、底知れない怨嗟が混じり合った、おぞましい音色だった。


 健太は、その悲鳴に呼応するかのように、全身をのけぞらせ、喉から血の混じった泡を吐き出した。


 「まだか……まだ、足りぬか……」


 暁は、苦しげに息を吐きながらも、その瞳に宿る光は揺るがなかった。


 彼女は、さらなる力を引き出すかのように、自身の胸に手を当て、深く集中した。


 「今こそ、因果の真理を識る時……」


 彼女の全身から放たれる霊気が、これまでとは比較にならないほど増幅された。

帳の内側全体が、暁の放つ白い光に包まれ始める。

その光は、水子の闇を照らし出し、その輪郭を浮き彫りにした。


 そして、その時だった。


 手水舎の奥、水が溜まる石の器の中から、微かな水音と共に、それはゆっくりと、しかし確実に、その姿を現し始めた。


 ちゃぷ……ちゃぷ……。


 まるで、水面が揺れ動くような、不気味な音が響く。


 最初に現れたのは、びしょ濡れの、漆黒の髪だった。

それは、まるで墨汁を溶かした水のように、闇の中で鈍く光りながら、手水舎の縁から這い上がってくる。


 続いて、青白い、病的なまでに透明感のある肌が見え始めた。

それは、長い間水の中に沈んでいたかのようで、所々に腐敗したかのような、薄い白い斑点が浮かび上がっていた。


 恵は、息を呑んだ。

恐怖で全身が硬直し、心臓が耳元で激しく鼓動する。


 そして、ついに、その顔が、闇の中から完全に顕現した。


 「……っ!」

恵は、言葉にならない悲鳴を上げた。


 その姿は、あまりにも恐ろしかった。


 濡れた黒髪は、顔全体を覆い隠すように垂れ下がり、その奥から、深く、深い水底のような漆黒の目が、恵と健太を虚ろに見つめていた。


 その瞳には、光は一切宿っておらず、ただ虚無と、そして計り知れない怨嗟の感情が、澱のように沈んでいた。


 顔立ちは、幼子のものであるにもかかわらず、その表情には、数十年、あるいは数百年の憎しみが凝り固まったような、おぞましい老獪さが浮かんでいた。


 口元は、僅かに開かれ、そこからは、まるで生臭い水の匂いが漂ってくるかのようだった。


 それは、健太がこれまで幻覚として見ていた「水子」そのものの姿だった。


 水子の出現と共に、神社の空気は、さらに重く、そして湿気を帯びていった。

ひんやりとした冷気が、恵と健太の肌を、まるで鋭い刃のように刺す。身体の芯まで冷え切っていくような感覚。


 それは、水子の放つ、底知れない冷たい悪意そのものだった。


 健太は、水子の姿を直視し、もはや悲鳴すら上げられない状態だった。


 彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、身体は激しく震え続けている。

喉からは、ヒューヒューと、か細い呼吸音が漏れるばかりだった。


 水子は、手水舎の縁に、ゆっくりと、しかし確かな存在感を持って座り込んだ。

その身体からは、想像を絶するほどの怨念が放出されている。


 恵の全身の毛穴が、一斉に逆立つような感覚に襲われた。


 暁は、水子の完全な顕現を見届け、その目を鋭く見開いた。

彼女の表情は、いよいよ厳粛さを増し、その瞳には、並々ならぬ覚悟の光が宿っていた。


 「来たれり……因果の渦に囚われし魂よ……」


 暁の声が、再び響き渡る。

その声は、水子の怨嗟を押しとどめるかのように、力強く、そして清らかだった。


 彼女は、符をさらに数枚取り出し、水子へと向かって投げつけた。

符は、闇の中で白い光の軌跡を描きながら、水子へと吸い込まれていく。


 「今こそ、汝の縛めを解かん……!」


 符が水子に触れると、水子は身悶え、再び甲高い悲鳴を上げた。

その悲鳴は、恵の脳髄に直接響き渡り、頭痛と吐き気を催させた。


 水子の周囲の空気は、さらに淀み、冷たくなった。

それは、まるで水子が自身の周囲を、深海の圧力で満たしているかのようだった。


 その身体から放たれる悪意は、この空間全てを支配し尽くそうとしている。


 恵は、恐怖で呼吸すらまともにできない状態だった。

このままでは、健太の命が、そして暁の命までが危うい。


 暁は、一歩も引かず、水子と対峙している。

彼女の霊力が、限界まで高められているのが、恵には感じられた。


 「魂の浄化、これより成らん……!」


 暁の声が、帳の中を切り裂いた。


 除霊の儀式は、今、その最も恐ろしい局面を迎えようとしていた。


 そして、その中心にいる健太は、もはや生きた屍寸前だった。

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