第十八話:水子の顕現
漆黒の帳の中で、暁の祝詞と、水子の忌まわしい咆哮、そして健太の苦痛の呻きが混じり合い、悍ましい協奏曲を奏でていた。
手水舎の水は、まるで生き物のように暴れ狂い、水飛沫が嵐のように飛び散る。
その飛沫の一つ一つが、恵の肌に触れるたび、氷のような冷たさと、微かな電気のような痺れを伝えた。
恵の視界は、帳の濃密な闇と、水滴を弾き飛ばすような霊的な圧力によって不明瞭になっていた。
しかし、健太の身体が激しく痙攣し、青い水痕が脈打つ様子は、はっきりと見て取れる。
健太は、今にも意識を失いそうになりながら、それでも必死に耐えていた。
蓮の、小さな顔が、彼の脳裏をよぎっているに違いない。
暁は、一歩も引かず、水子の猛攻を受け止めていた。
彼女の白い和服は、激しい霊気の奔流の中で、波打つように揺れ動いている。
額には大粒の汗が滲み、その表情は極度の集中と、壮絶な精神力を物語っていた。
彼女の口から紡がれる祝詞は、先ほどよりもさらに強く、そして速く、まるで機関銃のように連射される。
「水の底、濁りし魂よ、その身を清めよ、今、現世の縁を断て……」
暁の祝詞が響くたびに、帳の中の空気が圧縮され、水子の霊気がわずかに怯むのが恵にも感じられた。
「忌まわしき因縁、我らが術によりて、その鎖を砕かん……」
暁が指を組むと、彼女の周囲に淡い光が瞬いた。
その光は、水子に向けられ、まるで霊的な光線のように空間を切り裂いた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアア!」
水子の悲鳴は、もはや耳鳴りのように響き渡り、恵の鼓膜を激しく揺さぶった。
その悲鳴は、子供のような甲高さと、底知れない怨嗟が混じり合った、おぞましい音色だった。
健太は、その悲鳴に呼応するかのように、全身をのけぞらせ、喉から血の混じった泡を吐き出した。
「まだか……まだ、足りぬか……」
暁は、苦しげに息を吐きながらも、その瞳に宿る光は揺るがなかった。
彼女は、さらなる力を引き出すかのように、自身の胸に手を当て、深く集中した。
「今こそ、因果の真理を識る時……」
彼女の全身から放たれる霊気が、これまでとは比較にならないほど増幅された。
帳の内側全体が、暁の放つ白い光に包まれ始める。
その光は、水子の闇を照らし出し、その輪郭を浮き彫りにした。
そして、その時だった。
手水舎の奥、水が溜まる石の器の中から、微かな水音と共に、それはゆっくりと、しかし確実に、その姿を現し始めた。
ちゃぷ……ちゃぷ……。
まるで、水面が揺れ動くような、不気味な音が響く。
最初に現れたのは、びしょ濡れの、漆黒の髪だった。
それは、まるで墨汁を溶かした水のように、闇の中で鈍く光りながら、手水舎の縁から這い上がってくる。
続いて、青白い、病的なまでに透明感のある肌が見え始めた。
それは、長い間水の中に沈んでいたかのようで、所々に腐敗したかのような、薄い白い斑点が浮かび上がっていた。
恵は、息を呑んだ。
恐怖で全身が硬直し、心臓が耳元で激しく鼓動する。
そして、ついに、その顔が、闇の中から完全に顕現した。
「……っ!」
恵は、言葉にならない悲鳴を上げた。
その姿は、あまりにも恐ろしかった。
濡れた黒髪は、顔全体を覆い隠すように垂れ下がり、その奥から、深く、深い水底のような漆黒の目が、恵と健太を虚ろに見つめていた。
その瞳には、光は一切宿っておらず、ただ虚無と、そして計り知れない怨嗟の感情が、澱のように沈んでいた。
顔立ちは、幼子のものであるにもかかわらず、その表情には、数十年、あるいは数百年の憎しみが凝り固まったような、おぞましい老獪さが浮かんでいた。
口元は、僅かに開かれ、そこからは、まるで生臭い水の匂いが漂ってくるかのようだった。
それは、健太がこれまで幻覚として見ていた「水子」そのものの姿だった。
水子の出現と共に、神社の空気は、さらに重く、そして湿気を帯びていった。
ひんやりとした冷気が、恵と健太の肌を、まるで鋭い刃のように刺す。身体の芯まで冷え切っていくような感覚。
それは、水子の放つ、底知れない冷たい悪意そのものだった。
健太は、水子の姿を直視し、もはや悲鳴すら上げられない状態だった。
彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、身体は激しく震え続けている。
喉からは、ヒューヒューと、か細い呼吸音が漏れるばかりだった。
水子は、手水舎の縁に、ゆっくりと、しかし確かな存在感を持って座り込んだ。
その身体からは、想像を絶するほどの怨念が放出されている。
恵の全身の毛穴が、一斉に逆立つような感覚に襲われた。
暁は、水子の完全な顕現を見届け、その目を鋭く見開いた。
彼女の表情は、いよいよ厳粛さを増し、その瞳には、並々ならぬ覚悟の光が宿っていた。
「来たれり……因果の渦に囚われし魂よ……」
暁の声が、再び響き渡る。
その声は、水子の怨嗟を押しとどめるかのように、力強く、そして清らかだった。
彼女は、符をさらに数枚取り出し、水子へと向かって投げつけた。
符は、闇の中で白い光の軌跡を描きながら、水子へと吸い込まれていく。
「今こそ、汝の縛めを解かん……!」
符が水子に触れると、水子は身悶え、再び甲高い悲鳴を上げた。
その悲鳴は、恵の脳髄に直接響き渡り、頭痛と吐き気を催させた。
水子の周囲の空気は、さらに淀み、冷たくなった。
それは、まるで水子が自身の周囲を、深海の圧力で満たしているかのようだった。
その身体から放たれる悪意は、この空間全てを支配し尽くそうとしている。
恵は、恐怖で呼吸すらまともにできない状態だった。
このままでは、健太の命が、そして暁の命までが危うい。
暁は、一歩も引かず、水子と対峙している。
彼女の霊力が、限界まで高められているのが、恵には感じられた。
「魂の浄化、これより成らん……!」
暁の声が、帳の中を切り裂いた。
除霊の儀式は、今、その最も恐ろしい局面を迎えようとしていた。
そして、その中心にいる健太は、もはや生きた屍寸前だった。




