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死に水  作者: 月影 朔
第三章:藁にもすがる思い

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第十七話:除霊の始まり

 漆黒の帳が降りた瞬間、手水舎の周囲の空気は、これまでとは比べ物にならないほど異様なものへと変貌した。


 外からの光は一切届かず、三人を包むのは、帳の内側から滲み出すような、濃密な闇と、肌を刺すような冷気だった。


 湿度は極限まで高まり、呼吸するたびに肺の奥まで水が満ちていくような錯覚に陥る。


「グルル……アアアアァァァァァァァァァ!」


 健太の口から、人間とは思えないような、獣じみた呻き声が漏れた。

彼の身体は激しく痙攣し、青い水痕が浮き出る腕は、まるで内部から血管が破裂しそうなくらいに膨れ上がっていた。


 恵の目には見えないが、健太の眼には、すでに水子がその姿を完全に現しているのだろう。

彼の視線は、虚空の一点に固定され、その瞳には純粋な恐怖と、言いようのない絶望が満ちていた。


 そして、その恐怖は、瞬時に現実のものとなった。


「ッ……ぐぅぅぅっ!」


 健太の首が、まるで目に見えない手が締め上げるかのように、後ろにのけぞった。

喉から、窒息寸前の呻き声が絞り出される。


 彼の身体が宙に浮き上がり、そのまま手水舎の石造りの側壁に叩きつけられた。

鈍い衝撃音が、漆黒の帳の中で響き渡る。


「健太!?」

 恵が叫んだ。

だが、彼女は一歩も動けなかった。


 彼女の全身は、まるで鉛のように重く、恐怖によって縫い付けられたかのように、地面に張り付いていた。


「水子め……

正体を現したか!」


 暁の声が、響き渡った。

その声には、驚きはなく、むしろ確信めいた響きがあった。


 暁は、健太の苦しむ姿に目を向けながらも、一切動じることなく、静かに両手を合わせた。


 彼女の白い和服が、帳の中で微かに揺れる。

その姿は、まるで嵐の海に立つ、不動の岩のようだった。


 そして、彼女の口から、再び祝詞が紡ぎ出された。

しかし、それは先ほど結界を張るためのものとは異なり、水子を直接攻撃し、退けるための、より強力な呪言だった。


「穢れし魂よ、その身を清めよ……」


 暁の声が響くと同時に、手水舎の水面が、まるで沸騰するかのように激しく泡立ち始めた。


水子が見える健太は、その光景にさらに恐怖を募らせ、もがき苦しむ。


「淀める水よ、流れを止めん……!」


 暁が呪言を放つたび、水子の幻影が見える健太の身体は、鞭打たれるかのようにビクリと跳ね上がる。

彼の腕の青い水痕は、まるで生きた脈動を始めたかのように、おぞましく蠢いた。


「怨嗟の鎖、断ち切りて……」


 暁は、懐から取り出した何枚かの符を、素早く空中に放った。

符は、闇の中で一瞬光を放ち、水子へと向かっていく。


 それは、まるで目に見えない刃が空間を切り裂くかのようだった。


「キィイイイイィィィィィィィィィィィ!!!」


 健太の口から、耳をつんざくような甲高い悲鳴が発せられた。


 それは、健太自身の声でありながら、その奥底には、別の、おぞましい存在の叫びが混じり合っているかのようだった。


 水子が、暁の攻撃を受けて苦しんでいるのだと、恵は直感した。


 水子は、健太から離れると、その姿を帳の闇の中に隠そうとした。だが、暁はそれを許さない。


「逃がさぬ……

水の怨霊よ……

我が命を賭して、貴様を討つ!」


 暁は、さらに強く、呪言を紡ぎ出した。


 彼女の周囲から、目に見えるほどの白い霊気が立ち上り始める。

それは、清浄なエネルギーの塊であり、同時に、一切の悪しきものを焼き尽くすかのような、絶対的な力を感じさせた。


「現世に留まる者、その居場所を失え……」


 暁の右手から、光が放たれた。

それは、まるで小さな稲妻のようだった。


 稲妻は闇の中を走り、水子が隠れているであろう一点を直撃した。


 再び、健太の口から、断末魔のような叫びが響き渡った。

彼は地面に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。


 その口からは、わずかに血が混じった唾液が漏れていた。身体の内側から、霊的な反動を受けているのだ。


 だが、水子はまだ消えていなかった。


 漆黒の帳の中で、水滴が床を叩く音が、さらに激しくなった。

チャプチャプ、と水面を揺らすような音。


 それは、まるで手水舎の水が、意思を持って健太の周囲を囲んでいるかのようだった。


 冷たい水しぶきが、恵の頬を掠めた。

見えない水子の手が、彼女の存在を脅かしている。


「我が身を滅ぼさんとする者よ……

その悪意、我らが浄めよう……」


 暁は、一歩前に踏み出した。


 彼女の足元から、清めの塩が光を放ち、円形に広がっていく。

それは、水子の動きを封じる結界だった。


「血の因果、水に流せ……」


 暁は、右手を掲げ、人差し指と中指を立てた。

その指先から、さらに強い霊気が放たれる。


「怨嗟の渦、鎮まれ……!」


 手水舎の水が、今度は不自然なほど激しく回転を始めた。

水子もまた、この強力な霊力に抗うかのように、帳の中で暴れ回っている。


 健太は、その霊的な嵐の中心で、身体を激しく打ち付けられ、呻き続ける。


「アアアアアアァァァァァァァァ!!」


 水子の悲鳴は、もはや人間の耳で捉えられる限界を超えていた。

それは、深い水底から響き渡るような、底知れない怨嗟と苦痛の叫びだった。


 恵は、ただ固唾を飲んで、その恐ろしい光景を見つめるしかなかった。


 彼女の視界は、漆黒の帳によって遮られているが、健太の苦痛の呻きと、水子の忌まわしい叫び、そして暁の厳粛な祝詞が、生々しく耳に届いていた。


 空間全体が、霊的なエネルギーの奔流と、恐怖の感情によって満たされている。

手水舎の底から湧き上がるように、冷たい悪意が肌を這い上がり、恵の心を凍てつかせた。


 暁の顔には、汗が滲み始めていた。

命を賭ける、その言葉が、現実のものとなろうとしている。


 彼女の霊力は、激しく消耗しているのが見て取れる。

だが、その瞳の奥には、一切の迷いも、諦めもなかった。


「今こそ、因縁を断ち切る時……!」

 暁は、さらに強く、呪言を放った。


 その言葉と共に、帳の内側に、水子の影が、一瞬、鮮明に浮かび上がった。


 濡れた黒髪が顔を覆い、漆黒の瞳が、憎悪に満ちた光を放つ。

その青白い肌には、腐敗したかのような薄い白い斑点が浮かんでいた。


 恵は、それをまざまざと見てしまった。それは、健太が語っていた通りの、おぞましい姿だった。


 その姿を見た瞬間、恵の心臓は、恐怖で凍りついた。


 暁の祝詞が、嵐のように帳の中で荒れ狂い、水子と健太を巻き込んでいく。


 除霊の儀式は、想像を絶するほど激しいものだった。


 そして、この闘いは、まだ始まったばかりだった。

恵は、ただ祈ることしかできなかった。

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