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死に水  作者: 月影 朔
第三章:藁にもすがる思い

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第十六話:再び、あの神社へ

 暁との面会を終え、恵は健太をアパートまで送った後、自宅に戻り、除霊に向けての準備に追われた。


 暁が告げた「危険な儀式」という言葉が、恵の心を重く圧し続けていた。

しかし、同時に、彼女の心には確かな希望が灯っていた。健太を救えるかもしれない、蓮の命を守れるかもしれないという、切なる願いが。


 暁からの指示は、明確かつ厳粛なものだった。

除霊は、呪いが始まった場所、あの手水舎のある廃れた神社で行うこと。

時間は、夜。最も霊的な力が強まる刻限を狙うという。


 そして、儀式に必要な数点の品々が指示された。

清めの塩、白い布、そして、健太自身の「想い」を込めた何か。


 恵は、手際よくそれらを用意しながら、健太の容態がさらに悪化していることに心を痛めていた。

彼の喉の渇きはもはや生理的なものではなく、身体そのものが干からびていくような、精神を蝕む苦痛へと変貌していた。


 翌日、昼過ぎには健太のアパートへ恵は再び向かった。

彼を連れて、車で例の神社へと向かう。


 日中の廃れた神社は、まだその威厳をわずかに残していた。

石鳥居は苔むし、参道には枯れ葉が積もっていたが、木々の間からは柔らかな陽光が差し込み、静かで穏やかな空気が流れていた。


 かつて神聖な場所であったことを思わせる、どこかもの悲しい、しかし清らかな雰囲気が漂っている。


 手入れされていないとはいえ、生命の息吹は確かにそこにあり、昼間であれば、この場所が危険な呪いの発生源だとは、とても思えなかった。


 「ここか……」

健太は、力ない声で呟いた。


 彼の目は、あの手水の儀式を間違えた日のことを思い出しているようだった。

その記憶が、彼を再び深い絶望へと引きずり込もうとしているのが、恵には見て取れた。


 「大丈夫よ、健太。

今度は、きっと大丈夫」

恵は、健太の手を握り、力強く言った。


 その声には、自分自身を鼓舞する響きも含まれていた。


 暁は、二人から少し離れた場所で、静かに境内を見回していた。


 その表情は、昼の穏やかな光の中でも、どこか厳粛で、深い思索に沈んでいるかのようだった。

彼女の纏う白い和服が、風もないのに、微かに揺れているように見えた。


 彼らは、神社の片隅で、日が暮れるのを待った。

時間はゆっくりと、しかし確実に流れていく。


 夕日が西の空に傾き始めると、木々の影は長く伸び、社殿を不気味な形に変えていく。

昼間の穏やかな空気は、徐々に冷え込み、肌を撫でる風が、ざわめく木々の葉と相まって、不穏なざわめきを立て始めた。


 夕闇が完全に神社を包み込む頃、暁は静かに立ち上がった。


 「行きましょう」


 その声は、昼間とは打って変わって、低く、しかし有無を言わせぬ響きを帯びていた。


 手水舎へと向かう参道は、昼間とは全く異なる顔を見せていた。


 木々の枝葉が闇に溶け込み、そこから漏れるわずかな月の光が、足元に不気味な影を落とす。

湿り気を帯びた空気が、全身を包み込むように重くのしかかる。


 手水舎の前に立つと、周囲の空気はさらに一変した。


 ずしり、と。


 まるで透明な壁にぶつかったかのように、空気が物理的な重みを増した。


 湿度は、一気に跳ね上がった。

肌にまとわりつくような、生暖かい湿気。


 それは、単なる夜露や雨上がりの湿気とは異なり、不快な生臭さと、冷たい悪寒を伴っていた。


 健太の呼吸は、さらに荒くなる。

彼の身体は、この異様な空間に反応し、激しく震え始めた。


 「ああ……うっ……」


 健太は、喉を押さえ、呻いた。

水子の幻影が、闇の中に蠢いているのが見えるかのようだった。


 恵もまた、肌で感じる異常な湿気と、重い空気に、背筋が凍るのを感じた。

彼女には「水子」は見えないが、その存在がすぐそこにあることを、肌で感じ取ることができた。


 暁は、そんな二人の様子には目もくれず、手水舎の前に立った。

彼女の表情は、完全に厳粛そのものだった。


 その瞳には、決意と、そして微かな緊張の光が宿っている。


 彼女は、持参した小さな道具を取り出した。清めの塩を撒き、白い布を広げる。

そして、その布の上に、健太から預かった「想いの品」を静かに置いた。


 それは、健太が蓮のために作った、小さな手作りの木彫りの人形だった。


 暁は、ゆっくりと目を閉じ、両手を合わせた。


 そして、その口から、低く、しかし腹の底に響くような声が紡ぎ出された。


 それは、祝詞だった。


 しかし、その祝詞は、恵が知る神社の祝詞とは全く異なっていた。

まるで、この世ならざるものと対話し、結界を張るかのような、呪術的な響きを持っていた。


 「陰陽の境、此処に顕れ……」


 暁の声が、夜の闇に響き渡る。

その声は、聞く者の心を揺さぶるような、不思議な律動を帯びていた。


 「穢れは水底に沈み、清きは天へ昇らん……」


 言葉の一つ一つが、空気を震わせ、周囲の重い湿気を押し返すかのようだった。


 「我が身を贄とし、この場を鎮めん……」


 暁の周囲に、微かな光の粒子が舞い始める。

それは、肉眼では捉えられないほどの微細な光だったが、確かにそこに存在していた。


 「現世と幽世の境界に、結界を張り巡らせん……!」


 彼女の声は、次第に強く、高まっていく。


 「怨嗟の連鎖を断ち切り、因果の理を紡ぎ直す……」


 恵は、固唾を飲んでその様子を見守っていた。


 暁の言葉が、まるで目に見えない壁を築き上げているかのようだ。周囲の空気が、さらに張り詰めていくのがわかる。


 「此処に、帳を下ろす……!」


 最後の言葉が発せられると、あたりを覆っていた湿気が、まるで意思を持ったかのように、手水舎の周囲に渦を巻き始めた。


 そして、その湿気は、ゆっくりと、しかし確実に、漆黒の靄となって立ち上り、手水舎と三人を包み込むように、上空へと広がっていった。


 まるで、目に見えない巨大なとばりが、空から降りてくるかのようだった。


 視界が、一気に遮られる。

外の世界との繋がりが、完全に断たれた。


 彼らが立つ手水舎の空間は、外からは見えず、内からは外が見えない、異質な結界の中に閉じ込められたのだ。


 ひゅるるる……と、どこからともなく、冷たい風が吹き抜ける。


 その風は、どこか悲鳴を帯びているかのようだった。


 健太の身体は、激しく震え続けていた。

その目には、漆黒の帳の向こうに蠢く、おぞましい存在が映っているかのようだった。


 除霊の儀式は、今、始まったばかりだった。


 そして、彼らは、その儀式から、もう逃れることはできない。


 暁の顔は、その漆黒の帳の中で、厳粛な決意の光を宿していた。

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