第十二話:初めての襲来
健太の体調は、もはや最悪の域に達していた。
異常な喉の渇きは、皮膚の表面から水分が蒸発しているかのような、耐え難い感覚へと変わっていた。
唇は常にひび割れ、舌は乾ききって口の中に貼りつくような不快感が続く。
どんなに水を飲んでも、胃の底に吸い込まれるだけで、一向に潤うことはない。彼の身体は、文字通り、内側から干からびていくかのようだった。
そして、水子の幻覚は、彼の精神を容赦なく蝕み続けていた。夜の闇だけでなく、陽光差し込む昼間であっても、彼女は突如として現れる。
キッチンで水を飲もうとすれば、シンクの傍らに佇む。リビングで休もうとすれば、ソファの影からじっと見つめている。
もはや彼の部屋は、彼女の棲家と化していた。
水子の出現のたびに、周囲の空気が一変する。
冷たく重い湿気が部屋を満たし、鼻腔の奥には、どこか生臭い、淀んだ水の匂いがまとわりつく。
そのたびに、健太の心臓は激しく波打ち、全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われた。
恵は、そんな健太の隣に付き添っていた。彼の錯乱状態は悪化の一途を辿り、今や幻覚と現実の区別がつかなくなりかけている。
健太は、何度も虚空を指差し、「そこにいる!
見えないのか!」と叫んだ。
恵には、何も見えない。
その度に、健太を抱きしめ、大丈夫だと繰り返すしかなかった。
しかし、彼女の慰めの言葉は、健太の耳には届いていないようだった。むしろ、見えない恵に対して、健太は孤独と絶望を深めているように見えた。
その日の午後、健太は自室のベッドで横になっていた。恵は、リビングで仕事の連絡を済ませていたが、彼の様子が気になり、頻繁に様子を見に部屋を訪れていた。
健太は、焦点の合わない目で天井を見つめている。彼の頬はさらにこけ、目の下の隈は深い影を落とし、まるで別人のようだった。
突然、健太の部屋の空気が、ずしりと重くなった。
それまで空調の音しか聞こえなかった部屋に、微かな音が響き始める。
……チョン、チョン、チョン……
それは、水滴が床を叩く、不気味な音だった。
健太の全身に、鳥肌が立った。
来る。
彼は、予感した。これまでの幻覚とは違う、何かが迫ってきている。
喉が、一層激しく乾き始めた。口の中がカラカラになり、呼吸が困難になる。
ゆっくりと、彼の視界の隅から、それは現れた。
常に濡れた黒髪が顔を覆い、深い水底のような漆黒の目を持ち、青白い肌に薄い白衣のようなものをまとった「水子」。
彼女は、まるで霧の中から姿を現すかのように、健太のベッドの傍らに、はっきりと現れた。
これまでとは、全く違う。
幻覚ではない。
彼女の存在が、あまりにも明確に、彼の五感を支配する。淀んだ水の匂いが、より一層強くなる。水滴が滴り落ちる音が、耳の奥で反響する。
水子は、音もなく、健太を見下ろしていた。
その漆黒の瞳は、まるで彼の魂の奥底まで見透かしているかのようだ。
健太は、恐怖に顔を歪ませ、体を硬くした。動きたいのに、体が言うことを聞かない。金縛りにあったように、ベッドに縫い付けられていた。
すると、水子の顔を覆う濡れた黒髪が、にゅるりと、まるで生き物のように伸び始めた。
一本、また一本と、細く、しかし確かな意志を持ったかのように、髪の毛が伸びていく。
それは、健太の足元へと這い進み、彼の足首に、じわりと絡みついた。
ひんやりとした、水に濡れた髪の毛の感触が、皮膚を通して健太の神経を刺激する。
健太は、必死にもがいたが、髪の毛はまるで強靭な縄のように、彼の足首を締め付けて離さない。
身体が、急速に冷え始める。
同時に、喉の渇きが、これまでになく激しくなった。
それはもはや、渇きという次元を超えたものだった。
彼の身体から、ありとあらゆる水分が、急速に吸い取られていくような感覚。
肺が、水を満たされたかのように重くなる。
「ゴボッ……ゲホッ……」
呼吸が困難になる。
まるで、水の中に沈められたかのような、溺れるような窒息感。
苦しい。
死ぬ。
健太の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。
水子は、何も言わない。ただ、その漆黒の目で健太を見つめ、髪の毛で彼の足首を締め付けているだけ。だが、その無言の圧力こそが、健太の恐怖を増幅させた。
健太は、必死に手を伸ばし、絡みつく髪の毛を払いのけようとした。しかし、髪の毛は彼の指をすり抜け、捕まえることができない。
意識が、遠のき始める。
視界が、水中にいるかのようにぼやけていく。
その時、水子は、ふっと動きを止めた。
絡みついていた髪の毛が、すうっと音もなく足首から離れていく。
そして、水子は、まるで水の中に溶け込むかのように、音もなく消えていった。
彼女が消えた後には、床に水滴の跡と、わずかなぬかるみが残るだけだった。
「ハァッ……ハァッ……ゲホッ……!」
水子が消えた途端、健太は激しい咳き込みと共に、呼吸を求めて喘いだ。肺が焼けるように熱く、空気を吸い込むたびに、その熱が全身に広がる。
しかし、その呼吸は、まるで水中で呼吸しようとするかのように、まともにできない。
呼吸困難。
意識が朦朧とする中で、健太は必死に恵の名前を呼んだ。
「め……ぐみ……!」
その声は、か細く、ほとんど聞こえないような呻きだった。
その声を聞きつけた恵が、リビングから健太の部屋に駆け込んできた。
「健太!
どうしたの!?」
恵は、健太の異常な様子に、息を呑んだ。
健太は、ベッドの上で、青ざめた顔で喘いでいる。全身は汗でびっしょり濡れ、シャツは体に張り付いていた。腕の青い水痕は、これまでになく濃く、黒々とした血管が浮き上がっているように見えた。
「水子……が……」
健太は、かすれた声で、途切れ途切れに呟いた。
恵は、健太のただならぬ様子に、瞬時に事態を察した。
幻覚ではない。
これは、呪いが、健太の肉体に直接的な攻撃を仕掛けてきたのだ。
「健太!
しっかりして!」
恵は、健太の体を揺さぶり、必死に呼びかけた。
しかし、健太の目は虚ろで、意識が遠のいているのが見て取れる。
彼の呼吸は浅く、途切れ途切れになっていた。
恵は、健太の異様な喉の渇きと、身体の水分が奪われているような症状を思い出した。
水子。
まさか、本当にこんなことが起こるなんて。
都市伝説は、単なる言い伝えではなかった。それは、健太の命を奪おうと、確実にその牙を剥き出しにしていたのだ。
恵は、震える手で健太の腕を掴んだ。彼の腕は、氷のように冷たかった。
このままでは、健太は本当に死んでしまう。
恵の頭の中は、激しく回転していた。
なぜ、水子は攻撃してきたのか。
そして、なぜ、途中で攻撃を止めたのか。
死の期限まで時間がある時は、水子はそのまま音もなく水の中に消えていく、という話を思い出し、恵はぞっとした。
つまり、これは、死の予告なのだ。
呪いの進行状況を、健太に直接見せつけるための、警告。
恵の脳裏に、都市伝説のスレッドに書かれていた言葉が、鮮明に蘇る。
『死に水』の呪いにかかった者は、身体の水分を全て失い、干からびて死に至る。
そして、死期が近づくにつれて、水子はより明確に姿を現し、時には、その肉体にも影響を及ぼす。
「健太……!」
恵は、健太の名前を叫んだ。
彼の意識は、すでに深い闇の淵へと沈みかけていた。
このままでは、手遅れになる。
恵の心には、底知れない焦りが募った。
時間がない。
呪いを解く方法を、一刻も早く見つけ出さなければならない。
恵は、健太を抱き起こし、彼の顔を叩いた。
「健太!
しっかりして!
蓮のために、死なないで!」
蓮の名前を口にすると、健太の目が、微かに開いた。
その瞳に、ほんの一瞬、生への執着のような光が宿る。
恵は、そのわずかな光を逃すまいと、必死に語りかけた。
「まだ、諦めないで!
私が、必ず助けるから!」
その言葉が、健太の意識の最後の砦を、辛うじて支えているかのようだった。
恵は、全身で健太を支えながら、震える手でスマートフォンを掴み、救急車を呼んだ。
ピーポーピーポーと、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。
その音は、恵の耳には、絶望の淵から這い上がるための、唯一の希望の音のように聞こえた。
だが、その音もまた、健太に残された時間が、刻一刻と減っていることを、彼女に突きつけていた。
水子の初めての襲来は、健太の命を脅かす、現実の恐怖として、二人の心に深く刻み込まれた。
それは、単なる都市伝説ではない。
それは、彼らの命を狙う、生きた呪いだったのだ。




