表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死に水  作者: 月影 朔
第二章:呪いの発現

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/45

第十二話:初めての襲来

 健太の体調は、もはや最悪の域に達していた。


 異常な喉の渇きは、皮膚の表面から水分が蒸発しているかのような、耐え難い感覚へと変わっていた。

唇は常にひび割れ、舌は乾ききって口の中に貼りつくような不快感が続く。


 どんなに水を飲んでも、胃の底に吸い込まれるだけで、一向に潤うことはない。彼の身体は、文字通り、内側から干からびていくかのようだった。


 そして、水子の幻覚は、彼の精神を容赦なく蝕み続けていた。夜の闇だけでなく、陽光差し込む昼間であっても、彼女は突如として現れる。


 キッチンで水を飲もうとすれば、シンクの傍らに佇む。リビングで休もうとすれば、ソファの影からじっと見つめている。

もはや彼の部屋は、彼女の棲家と化していた。


 水子の出現のたびに、周囲の空気が一変する。

冷たく重い湿気が部屋を満たし、鼻腔の奥には、どこか生臭い、淀んだ水の匂いがまとわりつく。


 そのたびに、健太の心臓は激しく波打ち、全身の毛穴が逆立つような恐怖に襲われた。


 恵は、そんな健太の隣に付き添っていた。彼の錯乱状態は悪化の一途を辿り、今や幻覚と現実の区別がつかなくなりかけている。


 健太は、何度も虚空を指差し、「そこにいる! 

見えないのか!」と叫んだ。


 恵には、何も見えない。

その度に、健太を抱きしめ、大丈夫だと繰り返すしかなかった。


 しかし、彼女の慰めの言葉は、健太の耳には届いていないようだった。むしろ、見えない恵に対して、健太は孤独と絶望を深めているように見えた。


 その日の午後、健太は自室のベッドで横になっていた。恵は、リビングで仕事の連絡を済ませていたが、彼の様子が気になり、頻繁に様子を見に部屋を訪れていた。


 健太は、焦点の合わない目で天井を見つめている。彼の頬はさらにこけ、目の下の隈は深い影を落とし、まるで別人のようだった。


 突然、健太の部屋の空気が、ずしりと重くなった。


 それまで空調の音しか聞こえなかった部屋に、微かな音が響き始める。


 ……チョン、チョン、チョン……


 それは、水滴が床を叩く、不気味な音だった。

健太の全身に、鳥肌が立った。


 来る。


 彼は、予感した。これまでの幻覚とは違う、何かが迫ってきている。


 喉が、一層激しく乾き始めた。口の中がカラカラになり、呼吸が困難になる。


 ゆっくりと、彼の視界の隅から、それは現れた。


 常に濡れた黒髪が顔を覆い、深い水底のような漆黒の目を持ち、青白い肌に薄い白衣のようなものをまとった「水子」。


 彼女は、まるで霧の中から姿を現すかのように、健太のベッドの傍らに、はっきりと現れた。


 これまでとは、全く違う。


 幻覚ではない。


 彼女の存在が、あまりにも明確に、彼の五感を支配する。淀んだ水の匂いが、より一層強くなる。水滴が滴り落ちる音が、耳の奥で反響する。


 水子は、音もなく、健太を見下ろしていた。


 その漆黒の瞳は、まるで彼の魂の奥底まで見透かしているかのようだ。


 健太は、恐怖に顔を歪ませ、体を硬くした。動きたいのに、体が言うことを聞かない。金縛りにあったように、ベッドに縫い付けられていた。


 すると、水子の顔を覆う濡れた黒髪が、にゅるりと、まるで生き物のように伸び始めた。


 一本、また一本と、細く、しかし確かな意志を持ったかのように、髪の毛が伸びていく。


 それは、健太の足元へと這い進み、彼の足首に、じわりと絡みついた。


 ひんやりとした、水に濡れた髪の毛の感触が、皮膚を通して健太の神経を刺激する。


 健太は、必死にもがいたが、髪の毛はまるで強靭な縄のように、彼の足首を締め付けて離さない。


 身体が、急速に冷え始める。


 同時に、喉の渇きが、これまでになく激しくなった。

それはもはや、渇きという次元を超えたものだった。

彼の身体から、ありとあらゆる水分が、急速に吸い取られていくような感覚。


 肺が、水を満たされたかのように重くなる。


 「ゴボッ……ゲホッ……」

 呼吸が困難になる。


 まるで、水の中に沈められたかのような、溺れるような窒息感。


 苦しい。


 死ぬ。


 健太の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。


 水子は、何も言わない。ただ、その漆黒の目で健太を見つめ、髪の毛で彼の足首を締め付けているだけ。だが、その無言の圧力こそが、健太の恐怖を増幅させた。


 健太は、必死に手を伸ばし、絡みつく髪の毛を払いのけようとした。しかし、髪の毛は彼の指をすり抜け、捕まえることができない。


 意識が、遠のき始める。

視界が、水中にいるかのようにぼやけていく。


 その時、水子は、ふっと動きを止めた。


 絡みついていた髪の毛が、すうっと音もなく足首から離れていく。


 そして、水子は、まるで水の中に溶け込むかのように、音もなく消えていった。


 彼女が消えた後には、床に水滴の跡と、わずかなぬかるみが残るだけだった。


 「ハァッ……ハァッ……ゲホッ……!」


 水子が消えた途端、健太は激しい咳き込みと共に、呼吸を求めて喘いだ。肺が焼けるように熱く、空気を吸い込むたびに、その熱が全身に広がる。


 しかし、その呼吸は、まるで水中で呼吸しようとするかのように、まともにできない。


 呼吸困難。


 意識が朦朧とする中で、健太は必死に恵の名前を呼んだ。


 「め……ぐみ……!」


 その声は、か細く、ほとんど聞こえないような呻きだった。


 その声を聞きつけた恵が、リビングから健太の部屋に駆け込んできた。


 「健太! 

どうしたの!?」

 恵は、健太の異常な様子に、息を呑んだ。


 健太は、ベッドの上で、青ざめた顔で喘いでいる。全身は汗でびっしょり濡れ、シャツは体に張り付いていた。腕の青い水痕は、これまでになく濃く、黒々とした血管が浮き上がっているように見えた。


 「水子……が……」


 健太は、かすれた声で、途切れ途切れに呟いた。


 恵は、健太のただならぬ様子に、瞬時に事態を察した。


 幻覚ではない。


 これは、呪いが、健太の肉体に直接的な攻撃を仕掛けてきたのだ。


 「健太! 

しっかりして!」

 恵は、健太の体を揺さぶり、必死に呼びかけた。


 しかし、健太の目は虚ろで、意識が遠のいているのが見て取れる。


 彼の呼吸は浅く、途切れ途切れになっていた。


 恵は、健太の異様な喉の渇きと、身体の水分が奪われているような症状を思い出した。


 水子。

まさか、本当にこんなことが起こるなんて。


 都市伝説は、単なる言い伝えではなかった。それは、健太の命を奪おうと、確実にその牙を剥き出しにしていたのだ。


 恵は、震える手で健太の腕を掴んだ。彼の腕は、氷のように冷たかった。


 このままでは、健太は本当に死んでしまう。

恵の頭の中は、激しく回転していた。


 なぜ、水子は攻撃してきたのか。

そして、なぜ、途中で攻撃を止めたのか。


 死の期限まで時間がある時は、水子はそのまま音もなく水の中に消えていく、という話を思い出し、恵はぞっとした。


 つまり、これは、死の予告なのだ。

呪いの進行状況を、健太に直接見せつけるための、警告。


 恵の脳裏に、都市伝説のスレッドに書かれていた言葉が、鮮明に蘇る。


 『死に水』の呪いにかかった者は、身体の水分を全て失い、干からびて死に至る。


 そして、死期が近づくにつれて、水子はより明確に姿を現し、時には、その肉体にも影響を及ぼす。


 「健太……!」

 恵は、健太の名前を叫んだ。


 彼の意識は、すでに深い闇の淵へと沈みかけていた。


 このままでは、手遅れになる。

恵の心には、底知れない焦りが募った。


 時間がない。


 呪いを解く方法を、一刻も早く見つけ出さなければならない。


 恵は、健太を抱き起こし、彼の顔を叩いた。

 「健太! 

しっかりして! 

蓮のために、死なないで!」


 蓮の名前を口にすると、健太の目が、微かに開いた。


 その瞳に、ほんの一瞬、生への執着のような光が宿る。

恵は、そのわずかな光を逃すまいと、必死に語りかけた。


 「まだ、諦めないで! 

私が、必ず助けるから!」


 その言葉が、健太の意識の最後の砦を、辛うじて支えているかのようだった。


 恵は、全身で健太を支えながら、震える手でスマートフォンを掴み、救急車を呼んだ。


 ピーポーピーポーと、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。


 その音は、恵の耳には、絶望の淵から這い上がるための、唯一の希望の音のように聞こえた。


 だが、その音もまた、健太に残された時間が、刻一刻と減っていることを、彼女に突きつけていた。


 水子の初めての襲来は、健太の命を脅かす、現実の恐怖として、二人の心に深く刻み込まれた。


 それは、単なる都市伝説ではない。

それは、彼らの命を狙う、生きた呪いだったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ