第十一話:幻覚の始まり
図書館や公民館での情報収集は、徒労に終わった。それどころか、恵と健太の心には、これまで以上の絶望が深く刻み込まれていった。
特に健太の体調は、日に日に悪化の一途を辿っていた。異常な喉の渇きは、もはや渇きというよりは、身体の内側から水分が根こそぎ奪われていくような、焼けるような痛みへと変貌していた。
どんなに水を飲んでも、その渇きは癒えることなく、むしろ渇きを加速させているかのようだった。
夜になると、その症状はさらに顕著になった。
健太は、ベッドに横になっても、喉の奥から沸き上がるような渇きに苛まれ、一睡もできなかった。まどろみの中に落ち込もうとするたび、悪夢が彼を襲った。
夢の中では、常に水が彼を追いかける。蛇口から流れ出る水、シャワーから降り注ぐ水、コップに注がれた水。
それら全てが、一瞬にして乾き切り、彼の手からすり抜けていく。そして、最後には、自分自身の身体がまるで干からびた木のようにひび割れ、砂になって崩れ落ちていく光景が、繰り返し脳裏に焼き付いた。
ある夜、健太は激しい喉の渇きに耐えきれず、ふらつきながらキッチンへ向かった。
蛇口をひねり、コップに水を満たす。しかし、その水を口に含もうとした瞬間、彼の目に、これまで見たこともない異様なものが映り込んだ。
キッチンの隅、暗闇の中に、何かが立っていた。
それは、人影のように見えたが、あまりにも異質だった。
まず目に飛び込んできたのは、常に濡れた黒髪だ。それは、まるで水底の藻のように、彼女の顔を覆い隠し、その奥にある表情を窺い知ることはできなかった。
しかし、髪の隙間から覗く目は、深い水底のような漆黒で、光を一切反射せず、感情の読み取れない虚ろな光を宿している。
それは、生まれることのできなかった命を悼む、底なしの悲しみと怨念を湛えているかのようだった。
肌は、まるで水に浸かり続けていたかのように青白く、透き通るような不透明さを持っている。しかし、その内側には、かつて命として育まれようとした青い脈が微かに浮き上がって見えるような気がした。
四肢は驚くほど細長く、特に指先は水を掻き回すかのようにしなやかで、見る者に不気味な印象を与える。
身にまとっているのは、水に濡れて体に張り付いた、生前の衣服とも取れる薄い白衣のようなもの。その布地は水底の藻のように淀み、ところどころが破れているが、どこか幼い子供が着ていた衣を思わせる質感だ。
足元からは、常に水滴が滴り落ちており、彼女が通った後には、床にぬかるみが残るような錯覚に襲われた。
「……水子……」
健太の口から、乾いた声が漏れた。
体が震える。恐怖で、足元がおぼつかない。
それは、まさに都市伝説に語られていた、『死に水』の呪いの執行者「水子」そのものだった。
彼女は、音もなく、滑るように健太に近づいてくる。その存在は、まず周囲の空気が重く湿気を帯びることで感じられた。室内に充満する、古い水の匂い。
水滴が床を叩く微かな音だけが、彼女の接近を告げる唯一の兆候だった。
健太は、後ずさりしようとしたが、足が鉛のように重く、その場に縫い付けられたかのように動けない。
彼の脳裏には、手水の儀式を間違えた瞬間の映像が、鮮明な水滴のようにフラッシュバックする。柄杓を落としそうになった瞬間、水が零れた瞬間、手順を間違えたのではないかという不安。あの日の記憶が、まるで昨日のことのように蘇る。
幻覚だ。
そう、自分に言い聞かせようとしたが、目の前の水子は、あまりにも鮮明で、あまりにも現実的だった。
水子は、健太の目の前でぴたりと止まった。
顔を覆う濡れた黒髪の隙間から、漆黒の目が健太を虚ろに見つめている。その目には、感情が一切宿っておらず、ただ、底なしの怨念が湛えられているだけだ。
健太は、息をすることさえも忘れていた。
恐怖で、心臓が凍りつく。
しかし、水子はそれ以上、健太に何もしてこなかった。
ただ、そこに存在するだけ。
健太は、震える手でスマートフォンを掴み、恵に電話をかけた。
深夜にもかかわらず、恵はすぐに電話に出た。
「もしもし、健太?
どうしたの、こんな時間に」
恵の声は、眠たげながらも、心配の色が滲んでいた。
「恵……!
見えたんだ……!
水子が……水子が見えたんだ!」
健太は、ほとんど悲鳴のような声で叫んだ。
「水子?
何を言ってるの、健太。疲れてるんじゃない?
早く寝なさい」
恵の声は、困惑と、ほんのわずかな苛立ちを含んでいた。
「違う!
本当に見えたんだ!
ここにいる!
俺の目の前に、水子が立ってるんだ!」
健太は、必死に訴えた。しかし、電話口の恵には、健太の言葉が、ただの錯乱状態に聞こえているようだった。
「健太、落ち着いて。幻覚よ。
疲労と呪いのせいで、そう見えているだけよ。
大丈夫だから、深呼吸して、ゆっくり休んで」
恵の言葉は、健太には届かない。
水子は、感情のない漆黒の目を、ゆっくりと健太から逸らした。そして、音もなく、スッと闇の中に消えていった。
まるで最初から何もなかったかのように。
「消えた……」
健太は、その場にへたり込み、震える声で呟いた。
恵は、電話口で、健太をなだめ続けた。
「健太、大丈夫?
何かあったら、すぐに連絡してね。無理はしないで」
恵の優しい声が、健太の心に突き刺さる。
見えない者には、この恐怖は理解できないのだ。
電話を切った健太は、一人、暗闇の中で震え続けた。
彼の腕に浮かぶ青い水痕は、より一層、濃く、深く、皮膚の内側から浸食しているようだった。
翌日も、健太の体調は悪化の一途を辿った。
異常な喉の渇きは、もはや日常となり、彼の精神を蝕んでいく。
そして、水子の幻覚は、夜だけでなく、昼間にも現れるようになった。
キッチン、リビング、寝室。
家の中の至る所で、水子はひっそりと姿を現す。
最初は、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる人影だったものが、やがて、その姿は鮮明さを増していった。
常に濡れた黒髪が顔を覆い、深い水底のような漆黒の目を持ち、青白い肌に薄い白衣のようなものをまとった「水子」。
その細長い四肢からは水滴が滴り落ち、彼女が通った後にはぬかるみが残る。
健太は、どこにいても、水子の存在を感じるようになった。
水道の蛇口から滴る一滴の水、風呂場の湯気、あるいは単に濡れた床の染み。
あらゆる水源から、彼女は現れる。
水子の出現と共に、健太のいる空間は瞬時に「死に水」に満たされたかのような錯覚を引き起こした。
「うわ……!
やめろ……来るな……!」
リビングで、健太は突然叫び声を上げた。
彼は、目の前に立つ水子から逃れようと、ソファの陰に隠れる。
恵は、健太の隣に座り、心配そうにその様子を見守っていた。
「健太、どうしたの?
何が見えるの?」
「水子が……そこにいるんだ!
俺を見てる……!」
健太は、震える指で、空虚な空間を指差した。
恵の目には、何も見えない。彼女は、健太の異常な精神状態に、心を痛めていた。
「健太、あなた、少し休んだ方がいいわ。
病院に行く?
精神的に追い詰められてるのよ」
「違う!
これは、呪いだ!
幻覚なんかじゃない!
俺は、本当に見えてるんだ!」
健太は暴れ、必死に訴えた。しかし、恵の目には、そこに何かがいるようには見えない。
彼女は、健太の精神状態が、呪いの影響で悪化しているのだとしか思えなかった。
健太は、孤独だった。
この恐ろしい存在が見えているのは、自分だけ。
この恐怖を、誰とも共有できない。
そのことが、彼の心をさらに深く蝕んでいった。
水子の存在は、彼を精神的に追い詰め、やがては肉体をも破壊していく。異常な喉の渇きは、もはや彼の身体を干からびさせるかのようだった。
彼の腕に浮かび上がる青い水痕は、まるで彼の生命力を吸い取っているかのようだ。健太は、夜も昼も、水子の幻覚に苛まれるようになった。眠りにつこうとすれば、水子の漆黒の目が彼を見つめ、水が彼を追いかける悪夢が襲ってくる。
目を開けば、部屋の片隅に水子が佇んでいる。その存在は、常に彼の背後に潜んでいるかのようだった。
恵は、健太の隣で、ただ彼を見ていることしかできなかった。彼女には、水子が見えない。だからこそ、健太の恐怖を、真に理解することはできない。
健太の孤独は、深まるばかりだった。
彼は、自分の命が、確実に終わりに向かっていることを、肌で感じていた。
そして、その終わりを告げる「水子」という存在が、常に自分のそばにいる。死のカウントダウンが、今、彼の精神と肉体を、容赦なく蝕み続けていた。
恵は、震える健太の手を握りながら、その手の冷たさに、背筋が凍るのを感じた。
健太の目に映る、見えない恐怖。
その恐怖が、いつか自分にも及ぶのではないかという、漠然とした不安が、恵の心に芽生え始めていた。
しかし、今はまだ、健太を救うことだけを考えるしかない。恵は、心の中で誓った。
必ず、この呪いを解いてみせる。そうしなければ、健太だけでなく、蓮までが危険に晒される。恵の瞳には、新たな決意の光が宿っていた。
だが、健太の幻覚は、その日を境に、さらに鮮明に、より頻繁に現れるようになった。彼は、常に水子の視線を感じ、その冷たい気配に怯え続ける。
水子の幻影は、健太を精神的に追い詰め、やがて彼の精神は、限界へと達しようとしていた。
彼に残された時間は、もう長くはない。




