第十話:情報収集の闇
健太の部屋の淀んだ空気は、重く、鉛のように二人の肺にのしかかる。
しかし、絶望の底から這い上がろうとする恵と健太の眼差しには、微かながらも新たな光が宿っていた。それは、わずかな可能性に賭ける者の、必死な光だった。
「まずは、あの都市伝説のスレッドから、もう一度見直しましょう」
恵は、冷静な声で健太に言った。
彼女の指先が、ノートパソコンのキーボードを叩く。カチカチと乾いた音が、静寂な部屋に響き渡った。
「『成就の手水』。
これまでに集めた情報だけじゃなくて、見落としていた部分があるかもしれない」
健太は、恵の言葉に頷いた。彼の目は、異常な喉の渇きと疲労で充血しているが、それでも恵の隣で、必死に画面を見つめている。彼は、自分自身の命がかかっていることを、痛いほど理解していた。
「とにかく、関連するキーワードを片っ端から検索してみましょう。『成就の手水』、『死に水』、『廃れた神社』、それから……」
恵は、次々と検索ワードを打ち込んでいく。都市伝説系の掲示板、個人のブログ、まとめサイト。ありとあらゆるウェブページが、次々と画面に表示されていく。
「うわ……
これ、全部読むのか?」
健太が、思わずといった表情で呟いた。表示された検索結果は、途方もない量だった。
「全部読むわよ。どんな些細な情報でも、今の私たちには重要なんだから」
恵の言葉には、迷いがなかった。彼女は、蓮を救うためならば、どんな苦労も厭わないという強い意志を持っていた。そして今、その対象は健太にも向けられていた。
何時間もの時間が、瞬く間に過ぎていった。
二人は、目を凝らし、指先でマウスをスクロールさせながら、膨大な情報の中から、わずかな手がかりを探し続けた。
「これ……
この『名無しの観測者』って人、かなり詳しい情報を書いてるわね」
恵が、あるスレッドの書き込みを指差した。それは、最初に恵が『成就の手水』の存在を知ったスレッドであり、呪いの詳細が記されていたものだった。
「ああ、確か、この人が儀式の作法を詳しく書いていたはずだ」
健太も、その書き込みを食い入るように見つめる。彼の腕に刻まれた青い水痕が、まるで呼応するかのように、じわりと色を濃くしたように見えた。
「この人、他のスレッドでも活動してるみたいね。過去の書き込みを全部見てみましょう」
恵は、そのユーザーの過去の書き込みをたどっていく。そこには、『成就の手水』に関する情報だけでなく、他の様々な都市伝説やオカルトに関する書き込みも含まれていた。
「……この人、本当に色々なこと知ってるんだな。
まるで、実際に体験してきたみたいだ」
健太が、感心したように呟いた。
しかし、その膨大な書き込みの中に、『死に水』の呪いを解いたという情報は見つからなかった。
むしろ、呪いにかかって死に至ったと思われる、類似のケースばかりが、無数に報告されていた。
「ここにも、同じような症状で亡くなったって人がいるわ……」
恵が、ある書き込みを読み上げた。
『異常な喉の渇きに苦しみ、身体が干からびていくように痩せ細り、最後は口から泡を吹いて死んだ』
その記述は、恵がニュースで見た不審死のケースと酷似していた。そして、健太の現在の症状にも、不気味なほど合致する。
「やっぱり、これは、本物の呪いなんだ……」
健太の顔が、蒼白になった。彼の腕の青い水痕が、さらにくっきりと浮かび上がっているように見える。
「でも、どこにも、呪いを解いたって話がない……」
恵の眉間に、深い皺が刻まれる。希望の光が、再び遠ざかっていくようだった。
ネットでの情報収集は、数時間にも及んだが、確たる手がかりは得られなかった。
分かったのは、『死に水』の呪いが、想像以上に強力で、そして、これまで誰もそれを解くことに成功していないという、絶望的な事実だけだった。
「次は、図書館に行きましょう」
恵は、パソコンの電源を落とし、立ち上がった。
「図書館?」
健太が、戸惑ったように恵を見上げた。
「ええ。ネットの情報だけでは、限界があるわ。あの神社の地域に伝わる古い伝承や、郷土史を調べるの。きっと、何か手がかりがあるはずよ」
恵の言葉には、確固たる信念が宿っていた。
健太は、その恵の言葉に、反論する気力もなかった。彼はただ、恵の言う通りにするしかなかった。
二人は、健太のアパートを出て、最寄りの市立図書館へと向かった。
図書館の入り口には、古びた石のプレートが掲げられ、その上には蔦が絡みついている。自動ドアが開くと、冷たい空気が二人を包み込んだ。
館内は、静寂に包まれていた。
書棚には、膨大な数の本が整然と並んでいる。古書の匂いが、どこか埃っぽく、そして知識の深淵を思わせる。
恵は、迷うことなく郷土資料のコーナーへと向かった。
「このあたりの、古い神社の歴史が載っている本を探しましょう。それから、地域の伝承や、不思議な話がまとめられている資料も」
恵は、棚に並んだ分厚い本を、次々と手に取っていく。ページをめくり、索引を確認し、必要な情報を探し出す。その動作は、まるで熟練の探偵のようだった。
健太もまた、恵の隣で、同じように本を探し始めた。
しかし、彼の頭の中は、激しい喉の渇きと、腕に広がる青い水痕のことでいっぱいだった。
本に書かれた文字が、まるで水に滲んだかのように見え、なかなか内容が頭に入ってこない。
「健太、大丈夫?」
恵が、心配そうに声をかけた。
「ああ……なんとか。
でも、集中できなくて……」
健太は、正直に答えた。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。
「無理しなくていいから。私に任せて。何か気になることがあったら、すぐに言って」
恵は、優しく健太に声をかけた。
その言葉に、健太は少しだけ救われたような気がした。
恵は、再び本に目を戻した。
何冊もの郷土史や伝承集を読み漁る中で、彼女は、ある共通の記述を見つけ始めた。
それは、この地域に古くから伝わる、「水にまつわる恐ろしい話」だった。
『古くから、この土地には、水に憑かれた怨霊が彷徨っていると伝えられる。その怨霊は、水辺で命を落とした者の無念が形になったものであり、その姿を見た者は、決して生きて帰れないという』
恵は、その記述に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
「水子」
都市伝説の根源にある、「水子」という存在。
この地域の伝承と、それが結びついているのではないか。
恵は、さらに深く読み進めた。
しかし、どの文献にも、その怨霊を鎮める方法や、呪いを解く方法についての具体的な記述はなかった。
ただ、その恐ろしさを語り継ぐばかりだ。
「何も、ない……」
恵は、読み終えた本を閉じ、力なく呟いた。
健太もまた、疲労困憊の表情で、恵の顔を見つめていた。
「図書館でも、ダメだったか……」
彼の声は、絶望に打ちひしがれていた。
時計の針は、容赦なく進んでいく。
健太に残された時間は、確実に減っていく。
二人の焦燥感は、募るばかりだった。
図書館を出ると、外はもう夕焼けに染まっていた。
空には、不気味なほど真っ赤な夕日が沈みかけている。
恵は、健太の顔を見た。その顔は、一層青ざめ、目の下の隈もさらに濃くなっていた。
「大丈夫? もう、今日は休んだ方がいいんじゃない?」
恵は、健太の体調を気遣うように言った。
「いや、まだだ。まだ、何かあるはずだ」
健太は、かろうじて首を振った。その瞳には、まだ諦めきれない光が宿っていた。
「地域の老人たちに、直接話を聞いてみましょうか」
恵は、最後の望みをかけるように言った。
「古い伝承は、文字に残されない口伝の方が多いから……
もしかしたら、何か知っている人がいるかもしれない」
健太は、恵の言葉に、少しだけ顔を上げた。
「そうか……
そうだな。その手があったか」
だが、その希望も、すぐに打ち砕かれることになる。
翌日、二人は地域の公民館を訪れ、地域の老人たちに話を聞いて回った。
しかし、どの老人たちも、口を揃えてこう言った。
「ああ、あの『成就の手水』かい?
あれは、昔からあるただの作り話だよ。信じるようなもんじゃない」
「そんなことより、最近の若いもんは、すぐに都市伝説だなんだって騒ぎ立てるから困ったもんだねえ」
誰もが、都市伝説を一笑に付し、真剣に取り合ってくれなかった。
中には、恵と健太の真剣な顔を見て、怪訝な表情を浮かべる者もいた。
「お前さんたち、一体何を企んでるんだね?
そんな怪しい話ばかり聞いて……」
二人は、どこに行っても、まるで相手にされなかった。
焦りが、二人を蝕んでいく。
「やっぱり、ダメか……」
健太は、力なく呟いた。
彼の腕の青い水痕は、日ごとにその色を濃くしていく。
異常な喉の渇きも、増していく一方だった。
恵の心にも、深い絶望が忍び寄っていた。
あらゆる情報源を探し回ったが、呪いを解く手がかりは、どこにも見つからない。
まるで、この世には存在しないかのように。
それとも、この呪いには、最初から解き方が存在しないのだろうか。
そんな、恐ろしい考えが、恵の頭をよぎる。
「もう少し、だけ……」
恵は、自分に言い聞かせるように呟いた。
残された時間は、刻一刻と迫ってきている。
健太の命の灯が、風前の灯火のように揺れている。
二人の情報収集の旅は、暗闇の中を彷徨うように続いていた。しかし、どんなに探しても、真実は見えてこない。
情報が多すぎるゆえに、かえって真実が霞んでしまう。
目の前の現実が、あまりにも残酷で、二人の心を容赦なく打ち砕いていく。




