ボロボロな路地裏
予兆は、次の瞬間に現実へと変わった。
「裏切り者が……まだ居やがったのかよ」
低く吐き捨てるような声。
次いで――乾いた音。
石が、地面を跳ねた。
「出ていけ!」
「水神に魂を売った化け物が!」
怒声が重なり、空気が一気に荒れる。
そして次の一投が、真っ直ぐナミダへと向かって放たれた。
レイラが反射的に前へ出ようとする。
だが――
「レイラさん、やめてください」
静かな声が、それを止めた。
ナミダだった。
彼女は一歩だけ前に出て、わずかに首を振る。
その仕草は穏やかだったが、意思は明確だった。
「ここで庇えば……余計に目立ちます」
小さく、だがはっきりとした言葉。
次の瞬間、彼女は身を翻し、路地裏へと歩みを向けた。
「こちらへ……人目を避けましょう」
迷いのない判断だった。
リナたちは一瞬遅れて、その背を追う。
背後ではなおも声が飛び続けていた。
「二度と来るな!」
「穢れるんだよ!」
その言葉は追撃のように、耳の奥へと残響する。
だがナミダは振り返らない。
ただ、歩く。
細く、暗い路地へ。
そこはまるで、街から切り離された別世界だった。
石畳はひび割れ、壁は煤け、窓は閉ざされている。
湿った空気が、肺にまとわりつく。
遠くでネズミが物陰を走り、頭上ではコウモリが羽を揺らした。
「……さっきの通りと、全然違うのにゃ」
ミレの声が小さく震える。
先ほどまでの整備された街並みとは、あまりにも対照的。
同じ城下町とは思えない。
「こちらの区画は……整備が後回しにされているのです」
ナミダが淡々と答える。
その声には、感情がほとんど乗っていない。
「復興担当の大臣が、水神の信者でして……」
そこで言葉を切る。
説明の続きを、言う必要はなかった。
意図は明白だったからだ。
(政治による分断……)
リナの脳内で、構図が一気に整理される。
宗教対立。
資源配分の偏り。
意図的な格差。
(これはもう、信仰の問題じゃない)
支配構造だ。
その歪みが、今の状況を生み出している。
その時だった。
上方から、空気を裂く音。
――ゴッ
鈍い衝撃音が響く。
ナミダの身体が、わずかに揺れた。
額から、赤い線が一筋流れ落ちる。
「……っ」
誰かが息を呑む。
窓から身を乗り出した男が、なおも叫んでいた。
「水の魔女め! これでも食らえ!」
手には、まだ石が握られている。
目は見開かれ、理性の色はない。
そこにあるのは純粋な敵意だけだった。
レイラの拳が、ぎゅっと握られる。
「……これが、この国のやり方?」
抑えきれない怒りが滲む。
リナもまた、静かに唇を噛んだ。
「納得できないものを排除する……合理性の欠片もない」
だが、ミレがぽつりと呟く。
「……でも」
その声は、小さい。
けれど確かに、全員の耳に届いた。
「こんなの……」
言葉を探すように、少し間を置いて。
「する方も……される方も、悲しいだけなのにゃ」
空気が、静かに揺れる。
正論でも、理屈でもない。
ただの感情。
それが、重く沈んだ場に落ちた。
ナミダが足を止める。
そして、ゆっくりと振り返った。
ヴェールの奥で、彼女の瞳がわずかに揺れている。
「……大丈夫です」
口元に、無理やり笑みを作る。
「この街では……これが“普通”ですから」
その言葉は、あまりにも静かだった。
だが――
「普通……?」
リナの声が低くなる。
怒りと悲しみが混ざり合った声音。
「これが、普通ですって?」
ナミダは答えない。
ただ、少しだけ視線を伏せる。
肯定でも否定でもない沈黙。
それが、すべてを物語っていた。
長い時間をかけて受け入れてしまった現実。
抗うことすら、許されなかった環境。
そして――それでもなお。
彼女は歩みを止めない。
「……行きましょう」
ナミダは再び前を向いた。
額の血を拭うこともせずに。
「宝さんたちを、待たせる訳にはいきません」
一歩、踏み出す。
その背は細い。
だが、決して折れてはいなかった。
「大切な……協力者様ですから」
その言葉には、確かな芯があった。
孤独の中で磨かれた、揺るがぬ意志。
ミレはその背を見つめ、そっと拳を握る。
レイラは息を吐き、怒りを押し殺す。
リナは何も言わず、ただ静かに状況を刻み込む。
この国の歪み。この街の構造。
そして――この少女の覚悟。
(……これは、ただの災害対策じゃない)
もっと根深い問題だ。
だが今は。
進むしかない。
薄暗い路地の奥へと、四人は歩みを進めた。




